往来を急ぐ炭治郎の足が止まった。自慢の鼻がひくりと小さくうごめく。あたりに漂う匂いの元は水菓子屋であるらしい。
匂いに惹かれて、炭治郎は店先へと歩を進めた。
急いでいるのは自身の気持ちの問題であって、時刻を定めたわけでなし、ましてや逢える時間を待ち侘びているのは炭治郎一人である。
逢瀬だなどととんでもない。水の匂いのするあの人は、炭治郎が訪れずとも落胆することなどなかろうし、炭治郎のように一日千秋の想いで逢える日を待ち望んだりはしないだろう。
悲しく遣りきれない心持ちもするが、炭治郎はそれを責める立場ではない。
ともあれ、少しばかり寄り道したところで責める者とていないのだからと、水菓子がわんさと乗った台に近寄って、炭治郎は匂いの元らしき笊の中身に目を輝かせた。
「わぁ、西洋苺。綺麗だなぁ」
「買ってくかい?」
店主に言われ値札を見れば、三十粒二十銭也。それなりの俸給は貰っているとはいえ、炭治郎にとってはかなりの贅沢品である。さすがに手を出しづらいと肩を落とした炭治郎の鼻を、目の前の赤い果実よりもいっそう濃い芳香がくすぐった。
匂いのする先を視線で辿れば、奥に腰かけた女房が、ひょいひょいと苺を選っている。
「あの、あれは?」
「ああ、熟しすぎて表に出せないのを選り分けてるんだ。坊主、あれなら安くしとくよ?」
買った! と一声。半額ほどで苺を手に入れ、炭治郎は意気揚々と弾むように歩いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ごめんください! お邪魔します!」
応えを待たず戸を開ける。屋敷の主である兄弟子は、また離れの道場で瞑想中だろうか。
柱稽古を開始したとはいえ、訪れる者は今のところ炭治郎一人きりである。任務の報は受けてはいないので、留守ということはあるまい。
勝手知ったる水屋敷。しんとした廊下を、炭治郎は水屋に向かい足を進めた。
挨拶する前に苺を置いてこようと思ったのだが、炭治郎の予想に反し、義勇は座敷にいたようだ。廊下で鉢合わせた義勇は、無言のまま炭治郎の手にした紙包みにひたりと目を据え、小さく首をかしげた。
「早生の西洋苺です。熟しきってたのを水菓子屋さんが安く売ってくれたので、買ってきました」
「そうか」
言葉少ななのにはもう慣れた。感情の読めない不愛想な表情にも。
「このまま食べるには熟しすぎなんで、甘露寺さんのところで習った西洋菓子を作ろうかと思って。ヂェリーとエードです! 義勇さん、ご存知ですか?」
たずねれば小さくうなずく。さもあろう。山出しの炭治郎と違って、義勇はそれなりに都会を知っているはずである。カフェーなどにも行ったことがあるのかもしれないと考え、誰と? と浮かんだその一言を振り払うべく、炭治郎はことさら明るく笑んだ。
「水屋をお借りしますね! 冷やし固めるのに時間がかかるから、そのあいだに稽古をお願いします!」
「……手伝う」
予想外の返答に、炭治郎はきょとりと目をしばたたかせた。
稽古の礼にと昼餉や夕餉を炭治郎がこしらえることはままあったが、いまだかつて義勇が手伝いを申し出たことはない。
目を見開いた炭治郎に、義勇の顔がほんのわずか、バツ悪げにそらされた。
「……姉が作るのを手伝ったことがある」
常より幾分早口に言う義勇に、炭治郎は腑に落ちたと頬をゆるめた。
なるほど、義勇にとっては想い出の菓子なのであろう。ならば断わる道理はない。
二人並んで黙々と苺のヘタを取る。熟しきって淫靡なほどに赤い果実は柔く、義勇の白い指先を染める果汁はさらに濫りがましく思えてしまい、直視ができない。
不意にくすりと義勇が笑った。忍び笑う小さな声に視線を向けた炭治郎は、そのまま義勇から目を離せなくなった。子供めいたムフフという笑みはときおり見るが、斯様に穏やかな微笑みは希少である。
見惚れる炭治郎の頬を、義勇は赤く濡れた指先で、ちょんとつついた。
「お前の頬のほうが赤い」
めずらしくもからかう調子のひびきで言われ、炭治郎の頬はいよいよ燃えるように熱くなった。
「そろそろヂェリ天も頃合いだろう」
「あ、はい!」
慌てて丼のなかを覗けば、たしかに水に浸したヂェリ天は柔らかくなっているようだ。
鍋へと移し水を三合ほど注ぎ入れた炭治郎は、さてどうしようと義勇を見た。
「習った拵え方では砂糖を四十匁入れるんですけど、義勇さんには甘すぎるかも。どうしましょう?」
義勇が思案したのは数瞬。赤く濡れた己の指先をちろりと舐め
「熟しきっているせいか、かなり甘い。砂糖は少なくてかまわないだろう」
言いながら、ヘタを取った苺を一粒摘まみ上げ、ほらと炭治郎に差し出してくる。
うろたえ如何にしたものかとすくむ炭治郎を、義勇はじっと見据えたまま待っている。白い指先に摘ままれた毒々しいほどに赤い苺は、誘惑の芳香をたたえていた。
からかわれているのだろうか。初心な弟弟子をからかうほどに慣れ親しんでくれたのだと思えばうれしくもあるが、己が身の内を焼く想いを知らぬから、こんな仕打ちもできるのだと、悲しくもなる。
それでも誘惑の果実を拒むには、浅ましい欲が邪魔をした。
おずおずと開いた炭治郎の唇に、柔い果肉が触れる。わずかにかじり取るつもりが、そっと口内に押し込まれ、義勇の指先を甘く食む羽目になった。
「……甘い」
「うん」
上目遣い小さく言えば、どこかうれしげに義勇は微笑んだ。
腐り果てる前の熟しきった果実が醸し出す芳香は、甘く、甘く、どこまでも甘く、酩酊しそうなほどに水屋に充満している。
それは恋の匂いによく似ていた。胸に秘めたまま熟しきり、腐り落ちる前に早く食べてくれと懇願する匂いである。
義勇の鼻が炭治郎ほどにも利いたなら、きっと義勇を前にした炭治郎の匂いは、この香に似ていると気づかれるだろう。
いつのまにか恋い慕っていた兄弟子への想いは、今ではもう熟しきっている。けれどもそれを食べてくれと願うことなどできようはずもない。
潤む瞳をごまかそうと、炭治郎は裏漉し器とへらを義勇に手渡し、苺はお願いしますと笑ってみせた。
義勇はなにも言わずうなずいたが、小さくため息をついたようだった。
ため息をつきたいのはこちらだと思いつつ、炭治郎は竈の火を起こす。焦げつかぬよう鍋の中身をゆっくり掻きまわし、ふつふつと沸くまで暫し。火加減ならばお手の物である。
透明にとろりと溶けたヂェリ天に、うんとうなずき義勇を見れば、こちらも苺の裏漉しを終えたようだった。
果肉の粒の残る真っ赤な果汁を、エード用に少しばかり取り分けたら、火からおろした鍋に入れ掻き混ぜる。あとは器に移して水で冷やし固めるだけである。
とはいえ、ヂェリ型なぞ水屋敷にあるわけもない。
水屋箪笥を開けて二人、ああでもないこうでもないと選んだ器は、硝子のぐい吞み。乳白色のあぶり出し模様は市松。
なぜこの柄を義勇が買い求めたのかを考える、己の浅ましい期待を押し殺し、炭治郎はゆっくりとヂェリー液をぐい吞みに注いだ。
二人で井戸から汲んできた冷水を盥に注ぎ、そこにぐい吞みを並べていく。
「あとは固まるのを待つだけですね」
エードは稽古を終えてから作ればよいと、きらきらと赤く煌めくヂェリー液を見つめ、炭治郎は笑った。
虫よけに盥に晒しを被せたら、二人そろって水屋敷を出た。稽古の時間である。
やさしく穏やかで、けれどもどこか濫りがましくもあった空気など、竹刀を握れば微塵もなくなる。
竹刀をかまえて対峙する義勇は、一見細い体躯でありながら、途方もなく大きく感じられる。最終選別を前に炭治郎が斬った大岩よりも、固く大きな巌の如くにも見えた。どれほど努力しようとも、決して切れぬ岩である。
いや、水か。
水面斬りとは言いながら、炭治郎が実際に水面を切り裂けるかといえば、否と答えるしかない。
義勇は大いにたたえられた水面のようだ。いくら炭治郎が打ち込もうと痛手を与えることはできない。炭治郎の剣を受け止め受け流し、形を変えて襲いくる水流である。炭治郎は飲み込まれまいと必死にもがくよりほかない。
竹林から聞こえる潮騒のような葉擦れにまじり、打ち合いのひびきが絶えまなく反響する。それが止んだのは、いったいどれほどの時間が過ぎてからなのか。おそらく一時ほども経ってはなかろう。
義勇の稽古は短い時間に集中的に行われる。訪れる隊士が増えれば、また異なる稽古内容になることもあろうが、炭治郎一人きりの今は、ひたすらに対峙する義勇に向かっていくのみであった。
不死川とさして変わらぬ内容ではあるが、大勢で打ちかかるのとは違い、柱と一対一での打ち合いともなれば、一寸たりと気が抜けぬ。
義勇の今日はこれまでの声に、炭治郎はどっと襲いかかった疲労にぺたりと座り込んだ。
全集中の呼吸は取得したが、それでも柱相手に息を切らさずいることはむずかしい。義勇はといえば、平生とまるで変わらず、静かに佇んでいる。秀麗な顔はあくまでも涼しげで、息の乱れなどまるでない。
まだまだてんで敵わない。それがうれしくもあり、悔しくもあった。
「そろそろヂェリーも固まっただろう」
息を整える炭治郎に手を差し伸べ、屋敷に戻ろうと言う義勇の声音には、ほんのわずか、ソワソワとした期待の気配がまじっていた。
なんだかかわいいと思ってしまえば、稽古中は息を潜めていた恋情が、胸の内で騒ぎ出す。
はいと答えて手を取った。ぐっと炭治郎の手を握り締め、疲れた体を引き上げてくれた義勇からは、水の匂いがした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
盥から取り出したぐい吞みのなかで、ふるふると揺れて震えるヂェリーは、赤くきらきらと煌めいていた。
少しばかり緩そうではあるがこれなら上出来であろうと、炭治郎は、義勇と見合わせた顔をほころばせた。義勇もうれしいのだろうか。少しだけ口元が笑んでいる。
エード用の水を汲んでこようとふたたび井戸におもむいて、ついでに全身を濡らす汗を、冷たい水に浸した手拭いで拭う。
大きな巌のようにも見えた義勇だが、上衣を脱いだ姿はやはり細身ではある。だがそれは、鋼の刀身の如き細さであって、頼りなさは微塵もない。
その姿を直視できなくなったのはいつからか。炭治郎にもわからない。
見慣れてもいいほどの日数は、もうとうに経っているのに、義勇の素肌を目にすると、炭治郎の鼓動は速まり居たたまれなさを覚える。
ぞわぞわと総身を走る不思議な痺れや、ずんと重くなる下腹の理由を、炭治郎はまだ知らない。それをもたらすのは義勇だけであることしか、知らない。
義勇の首筋を、汗が一滴伝い落ちた。見惚れる視線を無理矢理にも引きはがし、炭治郎は急いで体を拭き終えると、井戸へ鶴瓶を落とした。
水屋敷の井戸は深い。汲み上げた水はキンと冷たく、炭治郎はいつでも、雲取山の雪解け水を思い出す。思い返せばそれは、義勇の匂いに似ていた。
流れる清流は身を切るように冷たいのだが、たしかにそれは春を告げるものでもあった。
清涼で清廉な、雪解け水のような義勇の匂い。手伝おうと傍らに立った義勇から香る、炭治郎にとっては心安らぎ安堵をもたらすその匂いが、たまらなく好きだと思う。
汲み上げた水を持つ義勇に恐縮しながら水屋へと戻り、また二人並び立つ。
義勇がやると言うので卵白を泡立てるのを任せ、炭治郎は、鍋に入れた冷水に砂糖を溶かし、残った果汁を流し入れた。
用意された硝子のコップも市松柄で、炭治郎が初めてこの水屋で調理したときには、水屋箪笥のなかにはなかったものである。ともに食事をとることが増えた炭治郎のためにとは、期待しすぎだろうか。
勝手に熱くなる頬を持て余し、ちらりと義勇をうかがえば、シャッシャッと軽やかな音を立てながら筅で卵白をかき混ぜている。常の無表情がやけに真剣に見え、年上の兄弟子をかわいいとまた思う。
美しく強く、果てない高みにいる人に、斯様な感慨はおこがましいと思いはする。だが、ともにいるときの義勇は、ときおりこんなふうに子供じみた姿をも見せてくれるので、炭治郎の胸のときめきはそのたび弥増してしまうのだ。
「できたぞ」
ずいと差し出された器のなかで、こんもりと泡立てられたメレンゲが角だっている。積もった新雪のようなそれに思わず目を輝かせ、炭治郎が
「すごいです、義勇さん! きれいに泡立ってますね!」
と褒めれば、義勇は子供のようにムフフと笑った。どことなく自慢げなのは、きっと気のせいではないはずだ。おそらくは子供のころにも、姉に向かってこんな顔を見せていたに相違ない。
あぁ、なんてかわいい人なんだろう。
きっと今、己から立ち昇る匂いは水屋にただよう甘く赤い果実の香りと同じだろうと、炭治郎は思う。恋の匂いが立ち上り、この人を包み込んでいるに違いないと。
けれども鼻が利くのは炭治郎だけであり、目の前のこの人が気づくことはないのだ。
それは寂しく、けれど安堵もする。知られれば斯様な時間は立ち消えて、兄弟弟子として許されたこの近さも、たちまち遠ざかるのであろうから。
悲しみをふっと吐息に紛らせ吐き捨てて、炭治郎は雪のようなメレンゲを匙ですくうと、コップに移したエードにそっと乗せた。
雪といえば、炭治郎が思い出すのは出逢いの雲取山である。
あのときにはこんなふうに穏やかに微笑みあったり、あまつさえこの人をかわいいと思う日がくるなど、想像もできなかった。まったくもって、人の縁とは不思議なものだ。
まさか、恋に身を焦がす日なぞが、自分におとずれようとは。ましてやそれが自分よりずっと大人な兄弟子だなどと、あのころには思いも寄らぬ現状である。
この人の心を得ることができたなら、どんなにか幸せであろう。
思いはすれども、炭治郎はそれを即座に打ち消した。
人の心はままならぬ。己の心ですら己自身どうにもできぬのだ、義勇の心などなおさらに、求めたところで得られるとは到底思えぬ。
幸せなのに切なく、こっそりとため息をついた炭治郎を、義勇が横目でうかがい見ていたのを炭治郎は知らぬ。
二人分のヂェリーを取り出した盥は冷水を入れ替え、残るヂェリーは、土産に蝶屋敷へと持っていくといいとの義勇の言葉に甘える。
ともあれまずは自分らで食そうかと、赤く煌めく苺ヂェリーとエードを盆に乗せ、二人縁側に向かった。
空は青く澄み、まだ日が落ちるまでには間があった。日差しはわずかに汗ばむほどには暖かく、庭先の向こうの竹林からは川のせせらぎに似た葉擦れがひびいている。
盆に乗せられた二人分のヂェリーとエードの器はうっすらと汗をかき、いかにも冷たげに赤い煌めきを放っていた。
穏やかな午後を、二人縁側に腰かけて過ごす。なんと幸せなことだろう。これだけで十分ではないか。高望みなぞしてはならないと、炭治郎は胸のうち言い聞かせる。
「氷があればもっとよかったんですけど」
「十分だ」
笑いながらコップを手に取れば、やはりコップを持ち上げた義勇が、その手を炭治郎に向けてくる。
無表情のまま、ん、と促す仕草に一つまばたきして、炭治郎は明るく微笑んだ。
「お疲れ様でした!」
「……お疲れ」
カツリとコップを触れ合わせる。手のなかで赤いエードとともに淡雪が揺れる。
稽古後の乾いた喉をすべり落ちたエードは、冷たく甘く、炭治郎の顔も知らず輝いた。
「おいしい! 上出来ですねっ、義勇さん!」
笑って義勇を見れば、義勇もうなずき満足げだ。だが。
顔を見合わせた途端に二人揃って目をしばたかせ、くっと喉を震わせる。思わず肩を揺らした炭治郎は、それでも笑いをこらえんとしたが、我慢しきれなくなったのは炭治郎のほうが早かった。
「ぎ、義勇さん、ひげ生えてますよ。白い立派なのが」
「……お前もな」
ぺろりと舌で口についた泡を舐めとる姿にドキリとする間もなく、伸びてきた指先が炭治郎の上唇を拭って去っていく。エードで冷えたはずの喉の奥が、カッと熱をおびるのを炭治郎は感じた。
義勇は事も無げに、指についた淡雪のようなメレンゲを舐めている。その様に炭治郎の体がまた熱を上げた。
「ぎ、義勇さんも、まだついてます、よ……」
ようよう口に出たのはそんな言葉で、返された「とってくれ」との言にうろたえる。けれども兄弟子が言うのなら、炭治郎が否やを唱えられるわけもない。
恐る恐る手を伸ばし、失礼しますと触れた唇に、指先から痺れが走った。
火に触れたかのように慌てて引いたにもかかわらず、指先から広がった痺れと熱はまたたく間に炭治郎の全身に広がった。
義勇のように舐めとるわけにもいかず、震える指を行儀悪く膝で拭えば、義勇から少しばかり不満げな匂いがする。
いや、まさか。そんなことはあるまい気のせいだと、炭治郎はぎこちなく笑った。
「おいしいけど、口につくのが困っちゃいますね。今度はメレンゲなしで作りましょうか。あっ、ヂェリー! ヂェリーも冷たいうちに食べないと!」
自炊をせぬ義勇の屋敷には、冷蔵箱なぞない。冷水にて冷やし固めただけのヂェリーだ。カフェーで供されるものとはきっと比べ物にならぬほど、ゆるゆると頼りなく器のなかで揺れている。
甘露寺の手伝いで作ったヂェリーですら、もう少し固かったような気もするが、赤いそれはそれでも甘い香りを立ち昇らせ、早く食べてと炭治郎を誘う。
炭治郎の恋心と同じ香りの甘い菓子。それを義勇が食すのか。はたと気づいたその事実に、ぐい吞みに入ったヂェリーを手にしたまま炭治郎は動けなくなった。
ちらりとうかがい見る義勇の横顔は、常の無表情だというのに、どことはなし楽しげにも見える。白く長い義勇の指が赤く透けるヂェリーを持つ様は、まるで一服の絵画のようであった。
息を詰めて盗み見る炭治郎の視線の先で、銀の匙の上の赤いヂェリーが揺れ、義勇の唇に運ばれていく。
恋の香をまとった甘い煌めきを、義勇は食べた。
まるで、自分の恋心がそっくり義勇の唇に食まれ、飲み込んでもらえたような錯覚すらして、くらりと目が眩む。
「……甘いな」
少しばかりの苦笑を含んだ呟きをもらすが、気に障る甘さではなかったのだろう。義勇は続けざまに苺のヂェリーを匙ですくっている。
「食べないのか?」
「へ? あ、食べます食べます! いただきます!」
「声が大きい」
我に返り慌てて答えれば、今度こそ義勇ははっきりと苦笑した。
そんな笑みにも見惚れそうになり、照れ笑いを返しつつ炭治郎も、すくい取ったヂェリーを口へと招き入れる。
つるりとすべらせたヂェリーは舌に乗った途端に甘さを伝え、口内に満ちた苺の香りが鼻から抜ける。軽く食めばたやすく崩れ喉を落ちていく、わずかにぬるくなりつつある甘い菓子。
「ほんとだ、甘い!」
出来栄えだけで言うならば、甘露寺の手製のヂェリーのほうが上等であろう。だがしかし、これほどまでに心浮き立たせる味は、きっとほかにない。
義勇とともに作った菓子だ。義勇と一緒に水屋に立ち、義勇と一緒にヘタを取った苺で作った、甘い菓子。炭治郎にしてみれば、どれほど高級なカフェーのヂェリーより、このゆるくぬるんだヂェリーのほうが、おおいに美味であるのは疑いようがない。
喜色を表す炭治郎に義勇も小さくうなずいた。
「久し振りに食べたが、うまいな。お前は料理が上手だ」
姉と作ったのを思い出すと小さく呟いた義勇の目が、柔く揺れる瑞々しい菓子へと愛おしげに注がれている。その横顔のやさしさに、炭治郎の胸中にもときめきと同量の郷愁が湧き上がった。
「……俺も、禰豆子たちと苺を食べたのを思い出しました。あ、俺が食べてたのは西洋苺じゃなくて野苺なんですけど。草苺がうちの近くにいっぱい生えてて、みんなで摘んでおやつに食べてたんです。おいしかったなぁ」
甘いおいしいと喜ぶ茂の顔。棘が刺さったと泣く花子。竹雄と禰豆子が母さんへのお土産にと苺を摘む横で、腕に抱いた六太の口に苺を運んでやったあの日々は、斯様に今でも鮮明に思い出せるというのに、もう遠い。
けれども悲しいと思うより深く、懐かしいとやさしく思い出せるのは、傍らにいる義勇のおかげであろう。
凍てつく冬に出逢った彼の人は、雪解け水のかすかな匂いをまとい、恋という春を炭治郎の元へと連れてきた。
この恋が報われるなど思ってはいない。こうざまに麗しく強く、高根の花との言がひたすらに似合う御仁と、兄弟弟子の枠を越え情を交わすことなど、あり得ぬ話だろう。
けれども、思う端からもしかしてと、わずかばかりの期待もそわりと胸をくすぐるのだ。
たとえばこんなふうに縁側に二人腰かけて、一緒に作った菓子を食しているという、甘く煌めくようなひと時に。
「俺も小さいころにはよく食べた」
「義勇さんもですか? おいしいですよね、草苺!」
玲瓏な青い瞳が優しく炭治郎を見据え、かすかに柔らかい笑みを浮かべた。
雪解け水の清涼な匂いに、ほのかに混じる甘い香は、苺の香りかそれとも。
「食べに行くか? 一緒に」
「え……? えっと、草苺をですか?」
「あぁ。今度一緒に」
静かな声とともに差し出されたのは、右の小指。まじまじと見つめ、炭治郎はおそるおそる己が右の小指でそれに触れた。
絡めとられた小指にとまどいつつも、炭治郎は無意識に口遊む。幼い弟妹にしていたように。
「ゆ~びきぃりげ~んまん、嘘ついたら針千本のぉます」
フッとこぼれ聞えた笑い声に、キョトリと義勇を見返せば、義勇は小さく肩を揺らし笑っていた。
「調子っぱずれだ」
「えーっ! そうかなぁ?」
いまだ小指は絡んだまま。指切ったと離してしまうにはあまりにも惜しく。
高鳴る鼓動が義勇の耳へと届かぬことを、炭治郎は祈る。
「……料理も、今度また一緒に」
また一つ約束を口にする義勇に、いよいよ眩暈がする。
そんな約束をされたなら、小指だけでなくこの手に、この腕に、触れられ抱きしめられる日が、いつか我が身に訪れると期待を抱いてしまうではないか。
そっと離された小指を下ろし、炭治郎は小さく、はいと答えた。
恋の実る日がくるなど思ってはならぬ。言い聞かせても自然頬はゆるむ。
はい。はい、義勇さん。約束しましょう。いくつでも。
甘く赤いヂェリーをすくった匙を、ふと見つめて義勇がささやくように言った一言は
「お前の瞳の色だな」
笑んだ口元に運ばれた、炭治郎の瞳の色した煌めきは、つるりといともたやすく義勇に飲み込まれた。