お題:いってきますのチューをしている義炭 ※無自覚両片想いからの自覚。義勇さんのご両親を捏造しています。800字2/24分。
出がけに義勇が炭治郎の顔に唇を寄せたのに、特別な意味はなかった。
炭治郎が水屋敷で起居するようになってから、そろそろ一月になろうかという日の朝のことだ。
義勇の元へたどり着いた隊士はいまだ炭治郎だけで、鬼の出ない今、ふたりの暮らしは朝から晩まで鍛錬で埋めつくされてはいるが、穏やかと言ってよかった。
同居の理由は単純だ。禰豆子がお館様に保護されている今、いちいち通ってくるのは鍛錬の時間が減るし、ともに暮らせば義勇が柱稽古に臨む際には見取り稽古をさせてやることもできる。
ほんの思いつきではあったが、理にかなった提案だと義勇は思ったし、炭治郎にとっても有り難い申し出だったようで、ひとつ返事で同居は決まった。
義勇が誰かと寝起きをともにするのは、狭霧山以来ではあったが、炭治郎との同居は思ったよりも快適だった。料理は得意だと豪語するだけあって、毎食供される食事は義勇の口に合ったし、掃除が趣味だと言って、炭治郎は鍛錬の合間をぬって屋敷を磨き立てる。寝起きするだけだからとろくに掃除もしなかった屋敷には、今やほこりひとつない。
おしゃべりに閉口するかと思ったが、受け入れてしまえば炭治郎の話は存外楽しく、雨露をしのげる屋根さえあれば重畳とすら思っていた屋敷は、すっかり居心地がよくなっている。
なによりも、いってらっしゃい、おかえりなさいと告げられる挨拶は、義勇の胸に郷愁をよみがえらせた。
炭治郎との暮らしは、狭霧山よりももっと前、姉と暮らしていた野方の家を思い出させる。
だからきっと、そのせいだ。
いってらっしゃいと笑顔で見送られたから、いってきますと顔を寄せた。懐かしい日常の仕草。それがふとよみがえってきただけのこと。
頬に唇で触れた義勇に、炭治郎はキョトンとしていた。なにをされたかもわかってはいまい。頬への接吻を日常的にしている家庭など、ほとんどないことぐらい、義勇とてわかっている。
けれども義勇にとっては、子ども時代の慣れ親しんだ行為だ。
姉と、父や母が存命のころにはふたりとも、情愛を込めて抱きしめあい、頬に接吻してきた。
洋行帰りの両親は、家こそ洋館ではなかったが異国の習慣に馴染んでいて、姉や義勇にも頻繁に接吻してくれた。ふたりが亡くなって以降は、代わりに姉がたくさん義勇を抱きしめ、大好きよと頬にやわらかな唇を寄せてくれていた。義勇もまた、ねぇね大好きと接吻を返したものだ。
そんな懐かしい習慣は、錆兎といたころですらよみがえることはなかったというのに、なぜだろう。やわらかな笑みと、いってらっしゃいのやさしく明るい声に、自然と引き寄せられるように義勇の唇は炭治郎の頬に触れていた。
炭治郎もパチクリとまばたきしているが、義勇もまた、自分の行動が信じられず、無言でパチリと目をしばたたかせた。
チチチと雀の鳴く声がする。静かな朝だ。朝餉に出されたみそ汁の匂いも、まだほのかに漂ってきそうな、和やかで平和な朝である。
義勇の心中も、ほんの数瞬前までは、至極穏やかだった。
空は晴れ、明るく日が照っている。冬の空気は身を切るように冷たいが、今日は風がないぶん過ごしやすいだろう。
鬼の出ない夜の眠りは健やかだった。身支度を済ませれば、すでに用意されていた豆腐とねぎのみそ汁に、青菜のおひたし、炊き立てのご飯。朝の陽射しが差し込む座敷で差し向かい、炭治郎が朗らかに笑いながら話す声を聞きながら、静かに箸を進めたのはほんの数分前のこと。
いつもの朝だった。ほんの一月前までは、二度と自分には訪れまいと思っていた、穏やかな朝だった。
炭治郎は弟弟子ではあるが、ともに鱗滝に師事したわけではない。一緒に過ごした時間はそう多くはない。一月前までは構うなと避けてさえいた。
友でもなければ、ましてや家族などではないのに、なぜ接吻などしてしまったのだろう。誰よりも心開き、親愛の情をいだいた錆兎にすら、こんなことしたことはないのに。
自分で自分が信じられず、義勇は、呆然としていた。
戦闘においては一瞬の決断の差が生死を分ける。だからこそ判断の素早さを身につけてきたというのに、それはあまりにも思いがけない出来事で、自分がしておきながら驚きが隠せない。
「えっと、今のなんですか?」
炭治郎の問いはもっともだ。だがなんと答えていいものか。とっさには言葉が見つからず、義勇は、つい口をすべらせた。
「大好きの挨拶だ」
言ったその場で、なにを言っているんだ俺はと後悔に見舞われたが、頭を抱えてしゃがみ込むわけにもいかない。それぐらいの矜持は義勇にとてある。
いつも姉が口にしていた文言が、そのままするりと口をついた格好だが、言うに事欠いて大好きはないだろうと、義勇は無表情のまま途方に暮れた。
頑是ない子どもでもあるまいし、いい年をした、しかも炭治郎にとっては兄弟子である自分が、口にするような言葉ではない。
だが、義勇の内心の焦燥などまるで気づいていないのか、炭治郎はパァッと顔を輝かせて、そうなんですね! とうれしげにうなずいた。
そして、こともあろうことかひょいと爪先立つと、義勇の頬にチュッとかわいらしい音を立てて接吻したのだ。
「俺も義勇さんが大好きです!」
「……そうか」
「はい!」
チチチと鳴く雀の声がする。先ほどまでとなにも変わらぬ和やかな朝だ。
けれども、義勇の心中は嵐が吹き荒れていた。顔には出さない。手を振る炭治郎に見送られて家を出たあと、珍しくも二度ほどつまづきかけるほどには、驚いていたし鼓動は早鐘のようであったけれども。
大好きなんて、特に意味のない言葉だ。炭治郎にとっては誰だって大好きな人だろう。ましてや義勇は兄弟子だ。柱だ。炭治郎曰く禰豆子の恩人だ。意味などないのだ。大好きなんて。
自分に言い聞かせても、鼓動は治まってはくれない。柱合会議の場でこそ常の冷静さを取り戻しはしたが、帰宅の足は自分でも愚かだと呆れるほどに速まった。
大好きの挨拶と、なんども姉に接吻された。義勇も大好きと接吻した。記憶はおぼろだが、父や母の接吻もやさしかった。大好きだった。
父と母は、ときどき唇同士で接吻することもあった。義勇と姉へは頬や額、鼻先になのに、幸せそうに唇を軽く触れあわせる父と母の姿は、幼い義勇の目には羨ましく映ったものだ。
僕にも口にしてと、せがんだこともあったような気がする。
あのとき、母はなんと言っていただろう。
思い出せないまま、義勇はひたすら歩みを進める。胸の奥のざわめきは消えない。脳裏にあるのは朝の一幕ばかりだ。
炭治郎に送った接吻は、家族に対する接吻とはなにかが違った気がするのだ。炭治郎からされた接吻もまたしかり。
炭治郎にも他意はなかっただろう。義勇がしたから、お返しにしただけのことだ。だが受け取った義勇の心情は、素直に好意を甘受するには乱れに乱れている。
パッと心に花が咲いたかのようにうれしかった気もするし、叫びだしたいほどに周章してもいたと思う。家族の接吻と変わらないと思うそばからなぜだかチリリと胸が痛むし、ソワソワと落ち着かなくもなる。
これはいったいなんだろう。自分になにが起きたのだろうか。
常に心を静かに穏やかに。先生からの教えは深く義勇の心に刻み込まれている。たやすく乱れることはない。なのになぜ、たった一度の、挨拶でしかない頬への接吻ごときに、大好きの言葉ひとつに、こんなにも心が千々に乱れるのか。
そして、不意に義勇は思い出した。やさしい声を。
『唇への接吻は、恋しい人のためにとっておきなさい。義勇にもいつか誰よりも恋しいと想う人が現れるわ。お母さんがお父さんと出逢ったようにね』
あぁ、そうか。ストンと腑に落ちたその文言が、ほんのりとした温かさを義勇の胸に宿らせる。
恋をしたのだ。恋していたのだ。俺は、炭治郎を、恋しいと想っている。
義勇の足が止まった。静かに目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、炭治郎の笑みだ。朗らかな笑み、やさしい慈愛の笑み、太陽のように明るくて温かい、その笑顔。
凪いでいく心に浮かび上がる言葉は、たったひとつ。
大好きだ。
義勇はそっと目を開けた。屋敷はもう目の前だ。夕暮れが近い。炭治郎はひとりで鍛錬したあとで、屋敷を掃除して回っていただろう。買い物に行き、今ごろはきっと夕餉の支度をしているはずだ。
今夜は鮭大根にしますねと、朝餉のときに言っていた。玄関戸を開ければ、クツクツと煮える鮭大根の匂いがしてくるに違いない。
それは幸せの光景だ。二度と自分のものにはならないと、義勇が思っていた失われて戻らぬ、愛の図だ。
そして今、義勇の胸には小さく芽生えたばかりの恋がある。
炭治郎の唇に接吻する日が来るかは、わからない。この恋が実るかなど、義勇の一存で決められるものではないことぐらい承知している。炭治郎の気持ち次第なのだ。
告げるか、告げまいか。決断には時間を要するだろう。判断が遅いと先生には叱られるだろうか。義勇の唇に微苦笑が浮かぶ。
それでも焦ることはない。恋しさはあれど、互いの優先事項はあくまでも無惨討伐だ。その大義が心から薄れることはない。
今はただ、炭治郎を守り抜く。その先に、いってらっしゃいと義勇の唇に接吻してくれる炭治郎がいるかは、わからない。それでもいい。義勇はクッと唇を引き結ぶと、一歩踏み出した。
穏やかで平和なその日が、いつ訪れるかも知れず、そのとき自分が生きているかすら定かではない。それでも。
「おかえりなさい!」
玄関を開ければ、義勇の『幸せ』が笑んで、頬に大好きの接吻が贈られた。
「ただいま」
接吻を返した炭治郎の頬は、まだ幼さを残してまろく柔らかい。自然と浮かんだ義勇の笑みに、触れたばかりの炭治郎の頬が真っ赤に染まる。
今はただ、これだけで幸せだ。そしていつか。
「林檎みたいだな」
ちょんと指先で頬をつついてやれば、炭治郎はますます熟れたように頬を赤くした。
あわあわとうろたえてうつむいた炭治郎に、義勇の胸で恋がまた育っていく。
「……そんな笑い方するの、ズルいです」
少し拗ねたように尖らせた唇に、いってきますと唇で触れるその日は、もしかしたらそう遠くないかもしれない。