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静かな縁側で寛三郎をなでながら、義勇は胸に去来する寂しさや幸せを噛みしめた。
いろんなことがあった。経験した別れは数えきれない。名すら覚えていない仲間たちも多く、記憶に残らぬ者のほうがきっと数は勝る。けれどその想いはつながって、穏やかな日々を過ごす義勇の胸に今も息づいている。
月明かりすらささぬ闇のなかを駆け、刀をふるいつづけた日々のなかで、喪失感はあれど孤独の底に沈むことなくいられたのは、膝のうえの小さな命のおかげだった。
寛三郎のやせた体は、まだ温もりを義勇に伝えてくれる。けれどその愛おしい温もりとも、そろそろ別れのときがきたようだ。
炭治郎と出逢い、その才と心根を信じて決意した選択は、いつしか義勇に人を愛し寄り添いあう日々をもたらした。
恋をした。激しい波にもまれるがごとき人生のなかで、ただ一度の恋を。いや、その想いはけっして一瞬の花火のようなものではない。来世も、そのまた次の来世も、この魂とともに想いはつづく。永劫変わらぬ恋を義勇は手にしたのだ。
姉の死が、また、錆兎の死が、巡り巡って義勇を炭治郎に出逢わせてくれた。そして、寛三郎が。寛三郎がいてくれたからこそ、義勇は今ここにいる。炭治郎とともに。
義勇はやさしく寛三郎のやせ衰えた体をなでた。
お館様が義勇の鎹鴉に寛三郎を選んでくれなければ、おそらく自分はとうに死んでいたに違いないと義勇は思う。
ただ一人であれば、自分が死んでも代わりなどいくらでもいると、弱い自分は誰かの盾になるぐらいのことしかできないのだと、無造作に命を投げ出すばかりの戦いかたをしてきたかもしれない。寛三郎が常に近くにいたから、相棒を守らねば、生きてやらねばと、目前に迫る死を斬りはらいつづけられたのだ。
お館様の采配に、無駄なことなどひとつもなかった。深謀遠慮に頭がさがると微笑みつつ思い浮かべる耀哉の顔は、莞爾として笑っている。
義勇大丈夫かと、いつも問いかける寛三郎の声があったればこそ、今、義勇はこうして生きているのだ。寛三郎の大丈夫かとの問いに、大丈夫だと答えてやるため、生き延びてきた。姉や錆兎のもとへと逝ける誘惑に、打ち勝つことができた一因が、寛三郎の存在なのはたしかだ。
今もときおり寛三郎は、義勇に大丈夫かと問いかける。悩み惑ったときには、なぜだか敏感にそれを察し、すりすりとその身を寄せて、大丈夫かと義勇を労わるのだ。
はたしてそこまでを耀哉が読んでいたかはわからないが、義勇が人を恋うる日がくることを、人として生きることを、真実望んでくれたのに変わりはないだろう。
「義勇……」
老いたかすれ声が、小さくひびいた。寛三郎がじっと義勇を見あげている。
どうしたと問うより早く、寛三郎は言った。
「モウ、大丈夫カ……義勇」
その静かなやさしい声に、義勇の胸を刺し貫いたものはなんだったろう。
あぁ、逝くのだな。
おまえは最期まで俺を案じて逝くのだな。
またひとつ、義勇の腕から大切なものが去ってゆく。けれど義勇が浮かべたのは、涙ではなく笑みだった。
「あぁ、大丈夫だ、寛三郎」
もう心配いらない、安心しろとの思いを込めて、力強く言ってやれば、寛三郎は幸せそうに笑ったようだ。
そしてそのまま黒い瞳は閉じられて、すぅっとろうそくの火が消えるように、老いた鴉は息を引きとった。
穏やかな……凪いだ海のように穏やかな旅立ちだった。
襖に手をかけたまま、炭治郎は、縁側に腰かける義勇の背中を見つめて立ちすくんだ。
今日は近所の子供たちがにぎやかにしていたから、このところとみに元気がなかった寛三郎も心なしか元気に見えた。久方ぶりに寝床から出てきて、はしゃぐ童を好々爺のように見ている姿に、あぁまだ大丈夫と思って安堵したのは、ほんの数時間前のこと。
ここ数日はまったく食欲がなくて心配だったけれど、寛三郎は大丈夫。もうじき生まれる禰豆子のややを、寛三郎も楽しみにしている。元気な泣き声をあげる赤ん坊に、いい子じゃと笑ってくれるだろうと思っていた。
手にした皿がカタカタと震えた。皿のうえには、寛三郎のために取り置いていた桜桃が光っている。
つやつやと赤く光る洗ったばかりの桜桃は、いかにもおいしそうで、きっとこれなら寛三郎も食べられるだろうと思ったのに。
甘い桜桃の香りにまじり、炭治郎の鼻に届くかすかな死臭が、ただ悲しい。こんなときでもスッと伸びた義勇の凛とした背中が、なぜだかとても小さく見えることが、ただただ悲しい。
「泣くな、炭治郎。最期は笑うんだろう?」
毅然とした、けれども途方もなくやさしい声に、炭治郎はぐっと息をのんだ。義勇は振り向かない。
ごしごしと涙をぬぐい、はいと答えた炭治郎の唇が、ようよう弧を描いた。
「うん、笑ってやってくれ。寛三郎も喜ぶ」
義勇はまだ振り向かない。どこまでも穏やかな声で言いながら、義勇も微笑んでいるのだろう。けれどもその瞳にはきっと涙がある。真っ直ぐに伸びた背しか見えずとも、炭治郎にははらりと落ちる義勇の涙が見えた。
竹林の葉擦れが静かにひびく。アブラゼミの鳴き声がした。今宵は七夕。梅雨どきとはいえ今日はよく晴れている。夜明けの晩(午前1時~2時ごろ)には牽牛と織姫が束の間の逢瀬を果たすだろう。
昼前には、近所の子らがワイワイとにぎやかな笑い声を竹林にひびかせていた。もうしばらくすれば、炭治郎も七夕飾りを軒に飾るつもりだ。過ごしやすい風が吹く夏の午後。こんな日に寛三郎は旅立った。温和で慈しみ深い老鴉の旅立ちにふさわしい、いい日だと、炭治郎もようやく心から微笑んだ。
不意に義勇の声がした。
「花発けば、風雨多し……人生、別離足る」
「なんですか?」
「唐時代の漢詩だ。別れを惜しむ惜別の意とも、別れがつきものの人生だからこそ一期一会を大切にしようとの意とも言われる」
かすかに漂う死の匂いのなか、義勇から発せられているのは悲しみの匂いだ。
炭治郎は、こんなにも美しく純粋な悲しみの香を嗅いだことがない。怒りも恨みもなく、後悔も不安もない純化した悲しみは、ただやさしかった。
「どういう詩なんです?」
「……君にこの金の杯を勧めよう。なみなみとついだこの酒を、遠慮しないで飲んでくれ。花が咲けば嵐も吹く、人生に別れはつきものだ……まぁ、そんな詩だな」
静かな声は子守唄のように和らかかった。
朴念仁とからかわれる義勇が詩歌を誦するとはめずらしい。炭治郎へとつむがれる睦言と同じくらい、その詩は温かく心にひびいた。
「……今夜は酒を用意しましょうか」
「うん……そうだな、そうしよう。おまえも飲むだろう?」
はいと答えて、炭治郎は踵を返した。義勇は炭治郎が隣に座るのを拒まないだろうけれど、長年にわたる相棒との最後の対話を邪魔するのは忍びない。
明日になったら、隊士たちの墓地に埋葬してやろう。立派な殉死を遂げた鴉たちと同じように、義勇が常々望む場所で寛三郎を眠らせてやるのだ。それまでは、日の当たるお気に入りの縁側で、義勇の膝に抱かれていればいい。義勇の声を寝物語に、幸せそうな寝顔で。
「炭治郎」
不意の呼びかけに炭治郎は足を止めた。
「おまえは、ゆっくり来い。うんと楽しんで、幸せだと笑って、存分に生きてからでかまわない。ゆっくり、ゆっくりおいで」
義勇の声はただやさしい。やさしくて、やさしくて、あまりにもやさしすぎて、浮かぶ涙は止めようなくぽろりと炭治郎の瞳から落ちた。
義勇はもう、寛三郎と同じ側に向かっている。義勇は二十四だ。いつなんどきこと切れてもおかしくなかった。
互いにそれを承知で一緒にいる。覚悟はとうに定まっていた。けれども義勇がそれを念押すような文言を口にしたことは、もうずいぶんとなかった。
言葉にも声にも、穏やかな慈しみと、かぎりない愛情だけがある。どうしてそんなことを言うのだと、責める気持ちは炭治郎にもかけらもなく、自然に浮かんだ涙の理由は炭治郎にもよくわからなかった。
義勇のやさしさをうれしいと思っているのか、目前に迫った惜別を悲しんでいるのか。それともあふれかえって抑えきれない恋慕だったのか。どれもうそ偽りのない炭治郎の本心だから、もしかしたら涙に理由などないのかもしれなかった。
寛三郎の黒い翼が大きく広がる様が、不意に脳裏に浮かんだ。
牽牛と織姫の逢瀬のおりに、天の川を渡すカササギは鴉の仲間だというから、炭治郎が向こうに渡る日には、寛三郎がカササギ役を務めてくれるのかもしれない。元気な黒い翼を広げ、微笑む義勇のもとへと炭治郎を渡してくれるのだ。
信じて疑わないから、炭治郎も涙はそのままに微笑むことができる。いつか来るその日にも、義勇に笑顔だけを見せてやれるだろう。
「はい。のんびり行きますから、寛三郎たちと待っていてくださいね」
「うん、今度はもっとみんなと仲良くやれると思う。心配せずゆっくり来い」
何気ない日常の会話と変わらぬ調子で、炭治郎も義勇も、別れのあとを語る。さよならを悲しむよりも、出逢えたことを喜んで。
義勇が口にした詩は、寂寥よりも出逢えた僥倖を寿ぐものなのだろう。そう思った。
いつか必ず別れはくる。生まれた命は必ず死を迎える。それは永劫変わりなく、誰の身にも巡り巡るのだ。
そう、輪廻を巡りまた逢う日まで、束の間この世にお暇するだけのこと。だから笑ってまたと言う。出逢いを喜び思いを託す。それでも悲しみは生まれるから、微笑みながらも涙は落ちた。
「おまえが、俺の鴉でよかった……」
ぽつりと聞こえた声は応えを求めぬ独り言だ。
義勇はとつとつと寛三郎に語りかける。
袖振り合うも他生の縁というから、おまえとも来世では出逢うのだろうな。生まれ変わるのならば、犬だけはやめてくれ。おまえは間違いやすいから、ちょっと不安だ。でも心配するな。もしも犬に生まれたとしても、おまえの生まれ変わりならきっと俺は好きになるだろうから、なでてやることもできるはずだ。
問わず語りに少し楽しげにすら聞こえる声で、義勇は寛三郎に話しかけている。
来世の光景を思い浮かべて、微笑ましく思いつつも聞かぬふりで、炭治郎は厨へと向かった。
廊下の暗がりに、松衛門がぽつんと立っていた。いつだってさわがしく、偉そうな態度をくずさないというのに、黙りこくって立っている。
寂しげな風情が悲しくて、声をかけようとした炭治郎より先に、松衛門は小さく言った。
「ジイサン、逝ッタノカ」
「……あぁ。苦しまなかったよ」
「ソウカ……」
言葉につまった松衛門は、けれどもすぐに顔をあげ、爺さんもようやくお役御免だと笑った。
「不甲斐ナイ相棒ヲモツト、鴉ハ苦労スルカラナ。長々トゴ苦労様ナコッタ」
相変わらずの憎まれ口をたたきカッカと笑う松衛門は、それでもやっぱり寂しそうで、炭治郎は思わずその小さな頭をなでた。
「お前も長生きしてくれよ?」
「当タリ前ダァ! 不肖ノ弟子ヲ残シテウカウカ死ネルカッ!」
「あいたっ! ちょっ、松衛門、痛いだろっ! つつくなってば!」
「ウルサイ! オマエハ義勇ノタメニ精々張リ切ッテ、精ノツク飯ヲ作ッテヤレバイイノダ!」
ギャアギャアとうるさく言い立てる松衛門につつかれながら、炭治郎は心にわきあがる温かさに笑った。
「俺も、おまえが俺の鴉でよかったよ、松衛門」
「フンッ、当然デアール。俺様ガ面倒ミテヤラナキャ、オマエナンカ、コウシテ呑気ニ暮ラセルモノカ」
そうだなぁ、そうかもなぁと笑いながら、炭治郎は桜桃の乗った皿を松衛門の前にことりと置いた。
閉口することも多いけれど、この鴉もまた、穏やかで楽しい暮らしに欠かせぬ家族だ。寛三郎ほどに長生きするのなら、炭治郎を看取ってくれるのは松衛門かもしれない。居丈高で見栄っ張りだけれど、この子がいてくれるなら、きっとこの先もにぎやかに楽しく暮らしていけるだろうと思った。
炭治郎の鬼殺隊としての歴史は、松衛門とともにある。義勇と寛三郎が歩んだときよりも長く、この鴉との暮らしはつづくのだろう。義勇が亡くなったあとにも。
「寛三郎の代わりに食ってくれ。松衛門がいっぱい食べて元気で長生きしてくれたら、寛三郎もきっと喜ぶよ」
金の杯に満たした酒ではないけれど、この生意気な鴉との出逢いも寿ぎだ。家族であり、縁あってつながる友である。だから代わりにと勧めた桜桃を、松衛門はフンっと鼻息を荒くしてガツガツと食べた。
その食べっぷりを、炭治郎はうれしげに笑って見ていた。
別れと出逢いを繰り返して、止まることなく時はゆく。
悲しみの涙もいつかは乾き、笑いあって日々を過ごす。
さよならを嘆く必要などない。出逢いはまた必ず来る。
だから今は、さようなら。どうかまた逢う日までお元気で。
花に嵐のたとえもあるが、さよならだけが人生だ。