雲取山に鬼出現の気配ありと報告が入り、ただちに向かったのは、水柱を襲名したばかりの義勇だった。
鬼殺隊の隠はみな優秀ではあるが、柱の足に追いつけるものではない。駆けつけたときにはすべてが終わっていることは多く、この件も隠が到着したときにはすでに被害者は埋葬され、義勇の姿もなかった。
無人となった家は惨劇のあとも生々しく、壁も床も血にまみれていた。
義勇は間に合わなかったのだろう。鬼殺隊が駆けつけたときにはすでに誰一人生き残っていないというのも、よくあることだ。無念ではあるけれど、それを嘆いてばかりもいられない。だから隠たちは、疑うことなく後処理にかかった。
事態がきな臭くなったのは、その家に住んでいた家族の人数と、花をそなえられた土饅頭の数があわないことが判明してからである。
家族は七人。墓は五つ。末の幼子が母親とともに埋められた可能性はあるが、それにしても一家全滅ならば墓が一つ足りない。
ならば生き残りがいることになるが、周囲には人っ子一人いなかった。
義勇が連れ帰ったのかもしれない。隠たちはそう考えたという。生き残りが幼かったり身を立てる術がない場合、保護が必要となるのだから、めずらしいことではない。炎柱の槇寿郎が連れ帰った少年など前例はいくらでもある。
けれど、帰参した義勇は誰もつれてはいなかった。義勇が遺族の保護者として頼れる者など左近次しかいないはずだが、義勇が狭霧山におもむいた気配もない。生き残ったのが子供であれ母親であれ、当座の暮らしや葬儀のためにもふもとの村に身を寄せているだろうに、村人は誰も事件が起きたことを知る様子はなかった。
二人乃至一人の生存者はいるのかいないのか。生き残ったのなら、どこへ行ったのか。いったい義勇はなにを見、なにを行ったのだろう。
そしてそれは、柱を名乗る者にふさわしい行動だったのか。
調査の要不要の判断は、お館様である耀哉に託された。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その報告を聞いたとき、耀哉は、不思議な高揚を感じた。
生き急ぐような生きかたはせずとも、義勇の心から寂寥感や自責の念が消えることはない。痛ましいことだが、義勇が自分の力で乗り越えないかぎり、どうにもならないだろう。
任務や耀哉の命には粛々としてしたがうが、それだけだ。年相応の喜びや楽しみを知らず、寛三郎だけをかたわらに、義勇は淡々と生きている。鬼を狩り、鍛錬し、また鬼を狩る。その繰り返し。年老いた鴉のほかには、親しく語る者もない。
そんな義勇だからこそ、より疑いを深めたのは言うまでもないだろう。
鬼とだって仲良くなれるのではないかと公言してはばからない花柱は、それでも隊士や隠の疑いをまねくことがない。カナエの人柄が、あからさまな批判や疑念を抑止している。
けれども義勇は無口で口下手だ。人づきあいがうまくないところに持ってきて、自ら交流を拒んでもいる。そのせいか義勇の誠実なやさしさを知る者は多くない。現在の柱のなかでは襲名までの期間がもっとも長くかかったことを揶揄する声も、心根のよくない隊士たちからはあがっているようだった。柱になったとたんに不審な行動をとったとなれば、疑う者が出てくるのも道理である。
しかし耀哉の見解はみなとは異なる。耀哉は義勇の情の深さも、悪鬼滅殺の願いの強さも、そしてまた、鬼に対しての葛藤も、知っている。義勇本人の口から聞いたわけではなくとも、寛三郎からもたらされる義勇の日々の言動から、それは容易に知れた。
なにか考えがあってのことに違いない。そしてそれは、けっして鬼殺隊への離反によるものではないだろう。
義勇の選択で、またなにかが変わるかもしれない。ここ百年ばかりは上弦の鬼を倒した隊士はおらず、戦況はいっこうに優勢とは言えなかった。けれども、そんな停滞する状況が変わる予感が、近年耀哉にはしていた。
義勇の此度の行動も、その兆しの一つなのではないかとの期待が、耀哉の心をさざめかせた。
とはいえ、隊士たちの不審を招くことに違いはなく、なにもせずというわけにもいくまい。いや、本音を言えば義勇のかたくなな心を動かしたものを、耀哉も知りたかったのだ。
そんな耀哉が選択したのは、寛三郎との対面だった。
義勇本人を問いただしたところで、あの子は黙して語るまい。
そうして耀哉は寛三郎を呼び出し、今、寛三郎は耀哉の前にたたずみ、力なくうなだれている。
「なぁ、寛三郎じいさん。耀哉様はなにもじいさんや義勇を責めているわけじゃないんだよ」
耀哉の鴉がやさしくうながしても、寛三郎はなにも言わない。ふるふると小刻みに震えているのは、高齢のせいばかりではないだろう。
「寛三郎」
耀哉の呼びかけに、ゆっくりと寛三郎の首があがった。じっと見つめてくる瞳には懇願が見てとれる。
「義勇は鬼殺隊に仇なす行動をしたわけではないんだろう? あの子はそんなことができる子じゃない」
「……義勇ハ、イイ子デスジャ」
ようやく口を開いた寛三郎の言葉は、いつもと変わらぬ一言だった。
「じいさん、それは耀哉様もわかっているよ。だからこそ、素直に申しあげたほうがいい。黙っているのは義勇のためにならない」
鴉が言えば、また寛三郎はうつむいた。また沈黙が座敷に満ちる。
どれだけ静寂がつづいただろう。ぽつりと、寛三郎がつぶやいた。
「義勇ハ……」
「うん、義勇はなにをしたんだい?」
急いた鴉の問いかけを聞いているのかいないのか、寛三郎はゆっくりと頭をもたげ、耀哉を食い入るように見つめて言った。
「義勇ハ、覚悟ヲ決メテオル……ワシハ義勇ヲ信ジテオリマスジャ」
それだけ言うと、寛三郎はまた黙し、もう口を開こうとはしなかった。
つくねんと立ちつくし憐れに震える老いた鴉を、耀哉もつくづくと見つめ、そして愛情を込めた声で言った。
「それなら、問題はないね」
「耀哉様! よろしいのですか?」
「義勇のことを一番知っているのは、ほかの誰でもない寛三郎だろう? しかも寛三郎は熟練の鎹鴉だ。その寛三郎が信じているのなら、なにも問題はない。違うかい?」
ぽたりと、小さな雫が畳に落ちた。
寛三郎は、ほとほとと声もなく涙を落とし、やがて言った。
「オ館様……義勇ハ、トテモイイ子デスジャ」
「うん、寛三郎。知っているよ。義勇へのおとがめはなしだ。安心おし。義勇には今日のことは伝えなくていいよ。あの子はきっと気に病むだろうから」
こくりこくりと必死にうなずく寛三郎に微笑みかけて、耀哉は退出をうながした。話すべきことはもうなにもない。詳細を知るのはかなわなかったが、些末なことだと思った。
義勇に変節はなく、覚悟のうえでの行動ならば、鬼殺隊の理念に悖りはしないはずだ。
「不満かい?」
黙り込んだまま寛三郎が飛び立った先を見すえている鴉に苦笑したずねると、鴉は小さく首を振った。
「いえ。耀哉様のなさることを信じておりますから」
そう言って耀哉の膝にすり寄る鴉は、それでもどこか不安げだ。きっとこの子も、なにかが動きだす気配を感じているのだろう。
「義勇の決断がなんなのかはまだわからないけれど、それはきっと一滴の水だ。私たちそれぞれの選択や、起きたすべての悲劇や喜びも同じこと。やがて集まり川となる。川は激流となって海へ流れ込み、いずれ怒涛が無惨を襲う……」
耀哉は光さす庭へと視線を向けた。身を凍えさせるような師走の風が、庭を吹き抜けている。
じきに年も変わり、耀哉はまた一つ年をとる。その昔、一休禅師は正月を冥土の旅の一里塚と詠んだが、短命を運命づけられた耀哉にとっては、その句は身に迫るものがあった。
しかし、めでたくもなしとは、思わない。
耀哉の死によって、鬼殺隊はまた無惨討伐へと近づく。これ以上めでたいことなどないではないか。
お館様と呼ばれ尊ばれようとも、耀哉でさえ大局のなかではただの一駒。寛三郎が落とした涙よりもわずかな、一滴。いわんや道半ばにして命を散らしてきた隊士たちなど、歴史に名すら残らない。
それでも、捨て駒になどするものか。ただの一人も無駄死にだなどと言わせはしない。
数えきれないほどの隊士たちの墓石は、すべて大波を生む一滴だ。その死に無駄だったものなど、一つもない。
出逢いがあれば別れがあり、そうして時は進んでゆく。一歩一歩、大願成就のその瞬間へ向かって。
ふと、耀哉は膝に頭を乗せる鴉へと視線を落とした。
「そう言えば、おまえは一度も私をお館様とは呼ばないね」
「……私は、お館様の鴉ではなく、耀哉様の鴉でございますから」
言葉の裏にある決意は、なにがしか悲しく、耀哉は小さな笑みを口元に浮かべた。
「そうか……おまえといい寛三郎といい、本当に鴉の献身とは深いものだ」
「ですから鎹鴉と」
違いますか? と少しばかり笑んだ声で答えた鴉に、耀哉ははっきりと笑った。
違いないと笑う声をさえぎるように、座敷に柔らかな声がかけられた。
「楽しそうでなによりですが、風が強くなってまいりました。耀哉様、お体に障ります。もう一枚お召し物を」
座敷の入り口で丹前を手にあまねが座っていた。
耀哉に上着を羽織らせ、そのまま立ち去ろうとするのを呼びとめて、たまには一献交わそうかと誘う。
「めずらしいこと」
「嫌かい?」
ただいま用意させますとの言葉で答えたあまねにうなずき、耀哉はまた庭へと視線を戻した。
夕暮れが近づいている。冬の日暮れは早い。夜がくれば、またどこかで人が死ぬ。耀哉の大切な子供たちが命を散らす。
「……君に勧む 金屈巵」
そっと紡いだ声に、鴉がことりと首をかしげた。
「于武陵でございますね」
「よく知っているね。おまえは博識だ」
うれしげなひびきとなった耀哉の声に、鴉は恐れ入りましてと、言葉ほどには謙遜する風情でもなく羽を広げ、耀哉をうながした。
「詠唱をさえぎりまして申し訳ございません。つづきをお聞かせください」
菩薩のごとき笑みを浮かべて、耀哉は薄暗くなった寒風吹く庭に向かい誦する。
――君に勧む 金屈巵
満酌 辞するを須いず
花発けば 風雨多し
人生 別離足る――
会者定離は世の習い。別離を惜しむよりも、一期一会を心に刻み、想いをつないでゆく。
跡継ぎにも恵まれた。よしんば今輝哉が命を落としても、息子の輝利哉が当主を継げるようになるまでは、あまねが立派に代理をつとめてくれるだろう。柱をはじめとする隊士たちもみな、立ち止まりはすまい。だから不安も未練もない。
露ほどの命だろうと、大海の一滴たりえるのならば、それでよい。
風が吹く。身を切るようなこの風も、かわいい子供たちへの追い風となるのなら、心地好くすらあった。
惜しむらくは、左近次の言う義勇の愛らしい笑みをこの目で見るのは、かないそうにないことか。せめてその笑顔を見るまでは、生きていられるといいのだけれど。
だが多くは望むまい。義勇は芯の強い子だ。いつか必ず微笑み寄り添いあえる誰かに出逢い、その手をとる。それを耀哉は信じている。
今はまだ、寛三郎ただ一羽をかたわらに、一人みなから背を向けようと、必ずその日は来るだろう。
さしあたって問題があるとすれば、耀哉の耳に届くかぎり、どうにも義勇は色恋にはうとい朴念仁だというところだろうか。自身に送られる秋波に鈍感なだけならまだしも、自分の想いにも気づかぬ可能性はありそうだ。
合縁奇縁は見てわからぬとは言うが、義勇が出逢いをむざむざとのがさぬことを祈るとしようか。
クスリと笑う耀哉を、鴉がきょとりと見あげていた。
左近次からの書状が届けられたのは、それから二年後のことだ。