座敷に一人座る耀哉のもとへともたらされた報告は、目を見張るものであった。
最終選別試験、脱落者一名。簡潔な事実のみで言うならば、なんともまぁ優秀な者がそろったものだと、感心し誇らしく思える報告ではある。
けれど、その内実はといえば、あまりにも無念を感じさせた。
いまだかつてないほど多くの鬼を斬り伏せた少年がいる。そしてまさにその少年こそが、たった一人の脱落者だったのだ。
「動けないほどの怪我を負った者も、一名きり。その者も命に別条はございません。ですが……」
「うん、惜しいね。鬼殺隊の歴史に名をはせる剣士になれただろうに、無情なものだ」
鴉の言葉に答え、耀哉はかすかに嘆息した。
「怪我を負った者は、まだ意識がはっきりとはしておりませんが、どうやら脱落した少年と同門のようです。左近次のもとでともに鍛錬していた者だと聞きおよんでおります」
「名前は?」
「冨岡義勇と。耀哉様、試験に合格したとはいえ、この者……はたして立ち直れますやら。いささか不安が残ります」
思案気に言う鴉に、耀哉は小さく首を振った。
「左近次が見込んで最終選別に送った子だよ。どんなに打ちのめされようと立ちあがる気概がある子だと、左近次が信じているのなら、疑う余地はない」
「はい、出過ぎたことを申しました」
かまわないと鷹揚に微笑み、しばらく考えをめぐらせていた耀哉は、やがて穏和な声で鴉に命じた。
「寛三郎を義勇につけておくれ」
「寛三郎を、ですか? しかし、それは……」
「心配かい? 大丈夫、きっと義勇と寛三郎はいい相棒になれると思うよ」
鴉はうたがわしげに首をかしげたものの、それでも反論することなく御意と頭をさげ、飛び立った。
青い空へと羽ばたいた鴉は、たちまち点となり消えていく。
吸いこまれるように鴉が飛んでいく空を見あげたまま、耀哉はまた一人、静かに微笑んでいた。
鬼殺隊当主である耀哉のもとには、毎日膨大な数の報告がもたらされる。それはすなわち、毎日どこかで大切な誰かを鬼に食い殺された人々がおり、毎日、隊士たちの命がうばわれていくことを示していた。
もちろん、報告は痛ましいものばかりではなく、隊士たちそれぞれの動向などにもおよぶ。十五歳という若さではあるが、当主となったからには耀哉はすべての隊士の父だ。我が子の成長を見守り、悩みを抱えているのならばそれを解決に導いてやるのも、父である耀哉の務めだった。
当然のことながら、数も多く、また入れ替わりも激しい隊士たちすべてに、心くだいてやることは不可能だ。釈迦尊ですら救えぬ者がいるのだから、ただ人でしかない己が身にできることなどたかが知れている。
それでも救えるものならば救いたい。そうして、できることなら自分の代で先祖代々つづく永年の願いをかなえ、鬼によって生まれる数多の悲劇を終わらせたかった。
幸いなことに、新たに柱に襲名した行冥、天元と、ここ数年で傑出した逸材が現れている。とくに行冥は鬼殺隊の歴史史上でもまれにみる傑物だ。
希望はそれだけではない。無惨に支配されず、それどころか人を救わんとしている鬼がいるらしいとの報告も受けている。よほど巧妙に足跡を隠しているものか、いまだ素性や所在はあきらかではないが、その報告は一条の光とも思えた。
風が変わりつつある。大願成就への追い風が吹きはじめている。それを耀哉は感じていた。
だが、懸念の種がないわけではない。耀哉の肉体は、呪われた産屋敷家の血筋ゆえ日ごと夜ごとに弱り、病は確実に耀哉をむしばみつつある。まだ直截な不安はないにせよ、少しでも激しい運動をすればすぐに脈が乱れ、満足に立ってもいられない。なんとも脆弱な体だ。
危惧は自身の健康面だけではない。炎柱の槇寿郎は妻の瑠火が没して以来、少しずつ捨て鉢な言動が目につくようになってきている。かてて加えて、毎日続々と鬼籍に入る隊士たちを補充せんとはやるのか、育手が送り出す隊士志願の者たちの質が落ちてきているらしい。顕示欲や金銭欲だけで入隊する者も、わずかながら目立つようになってきていた。
槇寿郎に関して言えば、当人の希望によっては除隊を受け入れねばなるまい。壮健な柱の引退はかなりの痛手ではあるが、無理強いしたところであたら命を散らすだけだろう。槇寿郎の命には代えられぬのだから、心積もりはしておかねばなるまい。
子息である杏寿郎は順調に後継として育っているようだし、槇寿郎が助け出した小芭内という少年も、陰惨な出自に打ちのめされることなく、隊士への道を着実に歩んでいるようだ。先を思えば、それで良しとすべきだろう。
そんなことをつらつらと考えていた耀哉が、ふと思い出したのは、先日の最終選別試験の結果報告だった。
脱落者一名という快挙は、字面ほど喜ばしいものではない。ただ一人殺された錆兎という少年は、ともすれば行冥と肩を並べる剣士になれたであろう才覚の持ち主だったと聞く。錆兎の訃報を聞いた左近次の嘆きはいかばかりだろう。ここ数年、左近次が育てた少年少女に、合格者は出ていない。
このたび生き残った冨岡義勇という少年が、久方ぶりの合格者となる。
義勇は意識をとり戻したその日から、しばらく泣きあかしていたと聞くが、それでも隊服に袖を通し、日輪刀を手にとった。その一事だけみれば、立ち直り決意を新たにしたのだと喜ぶべきなのだろう。けれど人の心とはそう簡単なものではない。錆兎のぶんも励むとの決意のあらわれならばいいが、ことはそう単純なものでもないと耀哉には思われた。
義勇は争いごとを好かぬたちだと聞いている。剣士としての資質は十分にあるが、同門の錆兎に対して強く打ち込むことをためらうような子であったらしい。
そんな穏やかで思いやり深い子供が、刀をふるい鬼を斬る。
俺に隊士を名乗る資格などない。錆兎を守れなかった。そう泣きつづけた義勇が、刀を手に、背に滅の字を背負う決意をかためた一因には、左近次の存在があったのだろう。
左近次の期待。受けた恩。親友を失い悲嘆にくれる絶望の縁にあってすら、それらを無下にできる子ではないらしい。
それはすなわち、義勇のやさしさであり、強さなのだろう。
もちろん、肉親や錆兎の敵を討ちたいとの願いや、無惨への怒りが刀をふるう原動力ではあるだろう。それゆえ義勇は隊士として鬼を屠ほふる道を歩みだした。
だが、それだけでは生き残ることはむずかしい。なにより、生きることができない。
ただ生存するだけでは、人は生きられないのだと耀哉は思う。息をし心臓が動いているだけでは、生きているとは言えないのだ。
生の喜びや楽しさを知らず、鬼を狩るだけの存在なら、からくり人形と変わらない。この先、義勇が人として生きていくためには、慈しみ守りたいと切願する存在が、かたわらになければならないだろう。
悲しみと怒りで閉ざされて、固く凍りついた義勇の心に寄り添う者。冷たい雪を解かす日の光のような、そんな存在が義勇には必要だ。
沈黙のなか思考にふける耀哉の耳に、鳥の羽音が聞えてきた。
「輝哉様」
羽ばたきととも呼びかけてきた声に、耀哉は視線をそちらへ向けた。
「ご苦労様。義勇と寛三郎はどうだい?」
「それなりにうまくやっている……と、言いたいところですが、さて。なにぶん寛三郎は高齢ですので。なかなか意思伝達はうまくいかぬようです。寛三郎をあてがわれたのは自分が隊士として不出来なせいだと、義勇も思い込んでいるふしが見受けられます」
「なるほど。一度義勇と話をしたほうがいいかもしれないね」
「それがよろしいかと存じます」
うやうやしく述べる鴉に一つうなずき、義勇を呼び出すことを決めた耀哉が、実際に義勇と対面したのはそれから一月ほど経ってからのことだった。
隊服をまとい座敷に座る義勇の姿は、凛としていた。体格は子供のそれであり、きびしい鍛錬を乗り越えたとはいえ、のぞく手首やうなじはまだまだ細い。けれども、すっと伸びた姿勢の正しさは気持ちいいぐらいで、義勇の素直で生真面目な気質のありようを示していた。
白くまろい頬にはすり傷があり、左手には包帯がまかれている。任務明けにそのまま隠につれてこられたのだろう。迎えにやった隠にも呼び出した理由は告げていないのだから、不安や緊張はあるだろうに、顔には出さない。
静かに座す義勇の瞳には、子供らしさなど露ほども見られず、暗く沈んでいた。美しい瑠璃の瞳をしているというのに、諦観と呵責の念が、義勇の瞳から輝きをうばっているようだった。
「よく来てくれたね」
「……お館様のお呼びとあらば」
恭順を示す言葉や深々と頭をさげる姿に、耀哉に対しての敬愛や親しみはまだない。礼を尽くす相手であるとの認識からくる、儀礼の所作である。
それも致しかたなかろう。はたから見れば、耀哉とてまだ頼りない子供でしかないのだ。さして年も変わらぬ少年を父と恃めと言われても、当惑するのは当然のことだ。
ともすれば慇懃無礼ともとれる義勇の態度に気分を害することもなく、耀哉は微笑みながらたずねた。
「寛三郎とはうまくやれそうかな?」
「……はい」
一瞬返答につまった義勇に、耀哉は声をあげて笑った。
「義勇は嘘が下手だね」
いよいよ返答に窮したか、義勇からわずかばかり困惑の気配が漂ってくる。たいそう美しい子だが、整った顔は人形のように表情が動かず、感情の機微は読みとりにくい。左近次は笑顔の愛らしい子だと述べていたが、さて、いつか自分にもそんな愛らしい笑みを向けてくれるであろうか。
「寛三郎は年寄りだから、伝令がうまく通じないこともあるだろう?」
「……私の未熟さゆえ、任務到着が遅れがちなこと、申し開きの余地もございません」
年に似合わぬ流暢な言は、借り物ゆえだろう。義勇自身の胸のうちからほとばしる言葉は、きっと、ずっと幼くつたないに違いない。ずいぶんと達者な言葉遣いだと感心はすれど、年相応にはしゃぐ姿を望めぬ現状は、痛ましさのほうが勝る。
しかし、礼節重視の文言の裏側には、義勇の本質がひそんでいる。すべては自分の力量不足がゆえとは、義勇にとっては真実なのだろう。けっして年老いた鴉のせいではない。そんなやさしさがもたらした言葉に、耀哉の口元には常よりもやわらかな笑みが浮かんだ。
「叱っているわけではないよ。義勇のせいでもない。そして、寛三郎のせいでもない。老いはどんな生き物にもおとずれるものだ。不老不死を望み、実際にそれを手にしたものは、もう生き物とは言えない。儚いほどにいつかは死ぬからこそ、人は人たりえるのだからね」
耀哉の言葉がさし示すものを、あやまたず察したのだろう。義勇がわずかに息を飲んだのがわかった。
いっそ生気のないと称してもよかった瞳が、爛と燃えたつ。無惨への怒りの焔が、細い体躯を包んでいるのが目に見えるようだ。
けれど、それだけでは足りない。義勇がこの先隊士として戦いぬき、生き延び、そして人として生きていくためには、怒りだけでは足りぬのだ。
喪失感や絶望から立ちあがろうとする者には、ことさら笑みが増える者もいる。空元気もつづけていれば真実になると、あえて戯言や冗句を口にしては快活に笑い、悲嘆を吹き飛ばすのだ。
しかし義勇は、その真逆を選んだようだった。
罪悪感や自責の念で己を戒め、自身の幸福を許さない。そんな負の誓約を、その身に科しているように見える。
清廉であっても悲愴な覚悟は、修道者というよりも、いっそ囚人めいて見えた。
鬼殺隊隊士として突き進むならば、先の命の確証はない。だが義勇はまだ若い。幼いと言ってもいい年齢である。ゆめゆめ生き急ぐようなことがあってはならないのだ。
死を覚悟することと、生き急ぐことは違う。懇々と教えさとせば、この利発な少年は一応の理解を示してみせるだろう。だが、それだけだ。理解し納得したところで、義勇がそのように生きることを自身に許すかは、また別問題である。
「寛三郎はね、義勇の前にも何人もの隊士の鎹鴉を務めていたんだ」
その意味がわかるかいと問うた耀哉に、義勇の目から、すっと光が消えた。鎹鴉が言ったとおり、そしてまた先の言葉が示すように、義勇は自分自身の力量を認めていないのだろう。
寛三郎は、よく言えば熟練、けれども実際は記憶力や判断力も低下しつつある老齢の鴉だ。血気にはやる若く優秀な鴉たちにくらべれば、数段劣る。なぜこんな老いぼれた鴉が相棒なのかと、腹を立てたとしてもしかたあるまい。実際、義勇以前に寛三郎が組んだ隊士のなかには、不満を隠さぬ者もいた。
だというのに義勇は、寛三郎ではなく自分が劣っているからだと考えている。
「……寛三郎では、隊士についていくのは困難です」
それゆえ自分のような力およばぬ者と組まされることとなったのだろうと、義勇は言いたいようだ。そこには寛三郎への不満ではなく、申し訳なさばかりがにじみ出ていた。
「一度組んだ鎹鴉と隊士は、生半なことでは離れることはないよ」
ではなぜとの疑問が、かすかに寄せられた義勇の眉にあらわれている。そんな義勇に、耀哉は泰然自若とした微笑みをたたえたまま言った。
「みんな死んだからだよ。寛三郎が組んだ隊士は、みな寛三郎を残し鬼に殺された」
ヒュッと息を吸い込む音がわずかに聞こえた。初めて義勇の顔に動揺が浮かぶ。
義勇の瞳が、刹那おびえるようにゆれた。一度ぎゅっと唇を噛みしめた顔は幼いながらも深い決意があらわだった。まなじりを決し義勇が口を開いた。
「寛三郎を、俺の担当から外してください」
「おやおや、生半なことでは離れないと、たった今教えたのにかい?」
「俺では……俺みたいな弱虫と組んでいては、寛三郎まで死んでしまう。俺は試験で一体も鬼を斃していません。俺じゃ駄目です」
型にはまった文言を忘れ、自身の言葉で懇願する義勇は真剣そのものだ。自分も死ぬのではと不安になるよりも先に、まず年老いた寛三郎を案じる。そのやさしさこそが、義勇を苦しめるものであり、同時に、義勇を強くするものなのだろう。だから耀哉は、微笑みを消すことなく静かに義勇をさとした。
「義勇、寛三郎と組んだ隊士が亡くなったのは、隊士たちの力量が劣っていたからとばかりは言えない。老いた寛三郎を信用せずに、功にはやって自ら窮地に追い込まれた者もいるんだ。残念なことだけれどね。それに、相棒というべき隊士に先立たれた鴉は、寛三郎ばかりじゃないよ。逆もまたしかり。自分の鴉が殺された隊士だって少なくはない」
「だけどっ」
つめ寄らんばかりの義勇に、耀哉は小さく首を振った。心には喜びがある。この子はやはり左近次が見込んだだけはある。他者を思いやれぬ者は、隊士にはなれても柱にはなれない。
義勇は恵まれた体格をしているわけではない。目を見張るような才能を感じさせるわけでもなかった。育ちの良さがわかる言動からも、以前は荒事などとんと縁がない生活を送っていたはずだ。錆兎のように卓抜した才能を持つ少年と並べば、かすんで見える子かもしれない。
それでも左近次は、義勇ならば生き残り合格すると、立派な隊士になる器だと信じたからこそ、選別試験へと送りだした。
水の呼吸には、ほかの呼吸にはない慈悲の型がある。鬼に対してだろうと場合によっては慈悲を垂れるのが、水の呼吸のありかただ。
それは義勇の本質に通ずると、左近次は見抜いていたのだろう。
おそらくは、この子は守るべき者がいてこそ真の力を発揮できる。自身に向けられる悪意より、他者に向けられる悪意にこそ、怒りを覚えるのだ。
義勇が立ちあがり刀をにぎった理由は怒りだとしても、強くなるために必要なものは庇護の念に違いない。守る対象がそばにいてこそ、義勇はきっと強くなる。
「義勇は寛三郎では不満かい?」
ぶんぶんと幼い仕草で首を振る義勇に、ゆるやかにうなずいて、それなら、と耀哉はやさしく言った。
「どうかあの子を守ってあげておくれ。寛三郎は、鎹鴉としての自信もなくしかけているんだ。老齢とはいえ、鴉の寿命は長い。三十年は生きるものもいる。寛三郎の年ならばまだまだ働けるはずだ。けれどかわいそうなことに、すっかり自分が疫病神なのではないかと落ち込んでしまっていてね。疫病神な自分が若い義勇と組むのはあまりにも義勇があわれだと泣くのを、どうにかお願いして任についてもらったんだ。あの子はとてもやさしい子だよ。君と同じだね、義勇」
鴉は群れで暮らす鳥類のなかでも、とくに仲間想いだ。その絆は強い。そんな鴉たちにとっては、自分の仲間や家族を殺された恨みや怒りは隊士たちにも劣ることはない。高い知能と仲間への絆。だからこそ、鴉は隊士たちの鎹となりうる。鬼殺隊と隊士をつなぐだけではない、隊士を生につなぎとめる鎹。それは寛三郎だってなにも変わりはない。
「寛三郎には、家族も仲間ももういない。鬼殺隊の仲間はいるけれど、なにせ高齢だからね。邪険にされることはないが、少しばかり嫌厭する鴉もいるようだ。伝令も間違いがちだし、飛ぶ力も若い鴉にはおよばない。それでもね、志もやさしさも、ほかの鴉に劣るものではないよ。むしろほかのどの鴉よりもきっと強い。君を守るために、寛三郎は力のかぎり働いてくれるだろう。義勇、君たちはいい相棒になれると、私は思っているよ」
耀哉の言葉を聞くうちに、しだいに力なく肩を落としていった義勇は、すっかりうつむき膝のうえで拳をにぎりしめていた。
「……大丈夫かって」
ぽつりとこぼれた声は、小さいけれどもはっきりと耀哉に届いた。
「任務が終わると、寛三郎はいつも、大丈夫か義勇って、俺にすり寄るんです」
「うん、とても思いやり深い子だ」
「怪我をするとすごく心配して、無事だといい子じゃって……義勇はいい子じゃって、とてもうれしそうにします」
「支えあって戦える相棒に出逢えて、寛三郎も喜んでいるんだろう。義勇、寛三郎のためにも強くなって、生き延びてあげてくれるね?」
あげられた義勇の顔は、やはり感情が読めない無表情だ。けれど、耀哉をまっすぐに見つめる瞳には、先ほどよりも強い光があった。
「……若輩者がお館様に対し礼を失し、不躾な真似をいたしました。お詫びのしようもございません。浅才なる身ながら、心して拝命仕ります」
ふたたび深々と頭をさげて述べる口上によどみはない。けれど心のこもらぬ先の言とは、声の張りが違う。
きっとこの子は大丈夫だ。少なくとも死に急ぐことはないと確信しつつ、耀哉は悠然とうなずいた。
おそらくは、義勇がこの一事で自信を持つことはないだろうし、己に科した罰のような誓約をくつがえすこともないに違いない。それでも、これは鬼殺隊隊士として、いや、人としてこの子が生きていくための、大事な一歩だ。
いつかやさしさや慈しみを惜しみなく与えあえる存在に出逢い、笑ってくれるのならば、それでいい。いきなり多くを望むのは酷だろう。心の傷はたやすく癒えるものではないのだから、今はその才を伸ばし、守る強さを身につけていくことが肝要だ。
さて、この命がつづくうちに、義勇の笑みを見られるといいのだが。先見の明にすぐれた耀哉とはいえ、こればかりは神ならざる身ではわかりようもない。
辞去した義勇を見送り、一人座敷に残った耀哉のもとへ、羽音が近づいてくる。
「耀哉様、義勇と寛三郎が生き延びる可能性が高まりましたこと、さすがでございます」
「おや、お世辞はいらないよ?」
「さて、私はお世辞など生まれてこのかた口にしたことはございませんが」
澄ました声で告げ、そっと膝に寄り添ってくる鴉に、耀哉が浮かべた笑みは少し苦笑めいていた。
「おまえが甘えるとはめずらしいね」
「寛三郎に倣うわけではございませんが、耀哉様には御身をお労りいただき、幾久しくご壮健であらせられることを願っておりますので」
少し気取った声ながら、鴉の言葉に心からの懇願があることを感じとり、耀哉はやさしく鴉の頭に触れた。
「そうだね。まだ逝くには早い。おまえのためにも精一杯生きることとしよう」
目を細める鴉をやんわりとなでながら、耀哉は、また風が変わるのを感じた。
この風は、はたしてどちらに向かって吹く風だろう。この世の一切合切は、ほんの些細な選択の積み重ねによって成り立つ。耀哉の、そして義勇の選択によって進むこの道の先が、吉と出るか凶と出るか。吹く風ははたして追い風か、はたまた逆風となるか。それはまだ、耀哉にもわからなかった。