ピーターパンの箱庭~さよならの向こう側~

 錆兎と炭治郎が同時に、それぞれ同意のもと、義勇の恋人になる。三人で同棲する。
 そんな常識で考えればありえない関係も、覚悟を決めて受け入れてしまえば、喜びが胸に満ちあふれた。
 とまどいや不安はもちろんある。それでも、今はただ幸せを噛みしめようと喜びにひたっていた義勇と炭治郎が、そろって目を見開いたのは、やっぱり錆兎の一言によってだった。
「あぁ、忘れるとこだった。言っとくが住むのはここじゃないからな。マンション買ったから、引っ越すぞ」
 俺はこんなだから、おまえら引っ越し作業頑張ってくれよ。なんて。こともなげに言う錆兎に、一瞬ぽかんとしたふたりは、すぐに目を見開き錆兎に向かって身を乗り出した。
「マンション!?」
「なんで?」
「なんでもなにも、ここじゃ今の俺が生活するのは無理だろ」
 ケロリとした声で言う錆兎の言葉は、もっともではある。古い家だ。建付けも悪くなってきていて、戸の開け閉めにもコツがいるぐらいだし、階段は急で狭い。縁側もガタがきているのか、腰かけるとギシリと軋んで、三人で座っていると少しヒヤヒヤする。
 リフォームで風呂だけは給湯式だけれど、浴槽は五右衛門風呂だ。うまく体を動かせない錆兎が入るには、相当苦労するのは想像にかたくない。
 古い日本家屋だからか部屋数だけはあるけれど、どの部屋も隙間風が入るから、冬場の今はストーブを焚きこたつに入っていてさえ、ちょっと寒いのもたしかだ。和室しかないから、ちょっとした段差はいたるところにあるし、バリアフリーとは真逆にある家には違いない。
 けれども。
「それはそうだけど……ここは? 錆兎が普通に動けるようになったら、またここに戻るんだろ?」
 少し焦ったように言う炭治郎に、義勇も頷いてじっと錆兎を見た。
 古いし使い勝手は悪いけれど、思い出の詰まったこの家が、義勇も炭治郎も好きなのだ。だが、ふたりのわずかな期待に反して、錆兎はあえなく首を振った。
「いや、ここは売る。っていうかな、もう売れたんだ。土地はともかく上物はいらないらしいから、引っ越した後は更地になる。まぁ、うちは古いからな。リフォームするより建て直すほうが安上がりなんだろう」
「そんな……」
 絶句した義勇と炭治郎に、困ったように苦笑するが、錆兎の顔はサバサバとしていた。
「今すぐってわけじゃない。俺がこんなだからな。実際の引っ越しは4月になる。新しいことを始めるには、ちょうどいいだろ」
「……どうして」
 義勇の眉が少しだけ下がっている。困惑しつつもそこに怒りはなく、寂しさが垣間見えた。
「先のことがわからない俺じゃ、この家を維持するのはむずかしいからな。爺さんと親父には、あっちに行ったときに謝るさ」
「怒るわけない」
 即座に言い返した義勇の隣で、炭治郎もブンブンと音をたてそうなほど勢いよくうなずいた。
 今の錆兎が生活するにはきびしく、また維持するのもむずかしいと言うのなら、錆兎の祖父と父が反対するはずがないと、ふたりは信じている。錆兎が決心しているのなら、義勇たちだって反発する気はない。
 それでも、寂しいという感情は抑えがたく、義勇と炭治郎はそろって庭に視線を向けた。
「……更地になるなら、あの珊瑚樹もなくなっちゃうのか」
 お湯の沸くシュンシュンという音にまぎれて、ぽつりと言った炭治郎の声が小さくひびいた。
 無念さの滲む声に促されるように、錆兎もふたりに倣って、ひときわ高い庭木に眼差しを向けた。
 今時めずらしい木枠の窓が、木枯らしにカタカタと小さくゆれている。長い留守の間にくもったガラスの向こうでは、寒々しい少し荒れた庭のなか、大きな珊瑚樹だけが鮮やかな緑の葉に包まれ立っていた。
 

 生け垣にももちいられる珊瑚樹だが、錆兎の家にあるのは一本きりだ。その代わり、祖父が植えたそれは10メートルほどもあって、株立ちした太い枝がブッシュ状になり、遠目にも目立つ。
 常緑樹の珊瑚樹は、寒々しい冬の庭で青々と葉を茂らせている。三人が木登りしてもびくともせず、いつだってそこに立っている、錆兎の家のシンボルのような木だ。
 庭木としてはめずらしいものではない。樫や金木製などにくらべれば、剪定や病害虫対策もマメにしなければならないし、秋に落ちた実を掃除するのはかなりの手間だ。だが、そんな面倒くささすらも、思い返せば楽しかった。
 アパート暮らしの義勇はもちろんのこと、密集した建売住宅に住む炭治郎も、木登りできる木があるような庭とは縁遠く、この家に遊びに来るたび木登りしたがったものだ。
 公園のように走りまわれる広さはないが、キャッチボールしたって木登りしたって叱られない。競争して登る木登りは、たいてい錆兎が一等賞。初めて炭治郎が勝ったときには、あんまり大喜びするものだから、錆兎も義勇も悔しいのも忘れて一緒になって喜んでしまったものだ。
 炭治郎の妹の禰豆子が一緒のときには、自分も登ると言い張るのを三人で手助けして、どうにか登らせてやったりもした。花の咲くころだったので虫がやたらといて、登ったのはいいが禰豆子はすぐに泣きべそをかいていた。泣きやませるのに往生したのもいい思い出だ。
 三人がすることは全部一緒にしたがったお転婆な禰豆子も、中三ともなった今は行動を共にすることも少なくなった。一緒に木に登らなくなったのは、いつ頃からだっただろう。
 禰豆子や三人が日ごとに成長していっても、珊瑚樹は、いつでもそこにあった。

 誰も言葉を発さず、やかんの立てる湯の沸く音だけが、部屋にひびいていた。今口を開いたら、なんだか泣きそうだ。心にあったのは、三人ともに切なさだっただろう。
 と、不意に義勇が立ちあがった。
「義勇さん?」
「どうした?」
「登ってくる」
 言いながら部屋を出ようとする義勇に、一瞬ぽかんとした炭治郎と錆兎は、次の瞬間にはあわてて義勇を引き留めた。
「お、おいっ。登るって、珊瑚樹にか?」
「ズルい! 俺も登ります!」
 つづいて立ち上がった炭治郎に、おまえもかとギョッとした錆兎が、すぐにわめいて主張したのは、当然の帰結だっただろう。
「おまえら、俺もつれてけっ! 仲間外れ反対!」

 車いすに乗った錆兎をつれて庭に出た義勇と炭治郎は、葉を生い茂らせる珊瑚樹の前に立つと、そろって広がる枝葉を見上げた。幼かったころよりも、少し小さく見えるのは、自分たちが大きくなったからだろう。
 感染症予防のマスクは当然のこととして、義勇と炭治郎によって寒さ対策と称し、ダウンジャケットやらマフラー、ひざ掛けに手袋、厚手の靴下まではかされた錆兎は、少々ふてくされた顔でそんなふたりをじっと見ていた。
 今の錆兎は風邪ひとつ引いても命取りになりかねない。だから、過保護なまでに着込まされたことに文句を言う気はない。ここまでしなくてもとは思うが。
 少しつむじを曲げているのは、負けず嫌いともどかしさゆえだ。
「俺が登れるようになってからじゃ駄目なのか?」
 今すぐに木がなくなるわけじゃないんだぞと、不満の滲む声で錆兎が言っても、義勇と炭治郎も前言を撤回する気はない。
「やる」
「義勇さんがやるのに、俺がやらないなんて選択肢はない!」
 思わずため息をつき、錆兎は苦笑した。不満はあるが、それを引きずるつもりはない。そんな男らしくない態度を見せるよりは、自分も楽しんでしまうほうがいいと、錆兎は、それじゃ競争なと笑った。
 その声に義勇と炭治郎は顔を見あわせ、二っと笑いあうとうなずいた。負けず嫌いはふたりも錆兎と変わらない。ただの思いつきのはずが、グッと木を見やる瞳はすっかり真剣だ。
「じゃあいくぞ? レディ……ゴー!!」
 錆兎の合図とともに、義勇と炭治郎はそれぞれ木につかまり、足をかけた。珊瑚樹の木肌は荒い。灰褐色の樹皮に包まれた幹は、義勇や炭治郎の体重を今でもしっかりと受け止めてくれる。
 幼いころより長くたくましくなった手足を駆使して、ふたりはグイグイと珊瑚樹を登っていった。
 とはいえ、大きくなった体で邪魔な枝をかいくぐるのは、少々手間だ。錆兎が入院していない間にも、ちゃんと剪定はしていたから、むやみやたらに枝が伸びているわけではないのだが、成長速度の速い珊瑚樹のこと、長身の義勇には不利なことに違いはない。
「やった! 義勇さんに勝ったぁ!」
 登れるところまで登りきったら、周囲を睥睨する高さになる。先に到着した炭治郎が、右手を突き上げてガッツポーズをとるのに、義勇は一瞬だけムッと眉を寄せたが、すぐに苦笑した。
「早くなったな」
「へへっ、現役ですから!」
「まだ木登りしてるのか?」
 驚く義勇に炭治郎は、照れくさそうに頭をかいた。
「猫が木から降りられなくなってるときとか、風船が枝に引っかかっちゃってるときに」
 なるほど。炭治郎らしいと義勇は微笑む。妹がいるからか、炭治郎は面倒見がよく世話焼きだ。子どもが困っているのを見かねて手伝うことは、想像以上に多いのだろう。
 思い至ったその結論は、ほんの少しだけ寂しさをともなった。
 もっと小さいころには、義勇の知らない炭治郎の日常風景など、なかった。けれども高校生ともなれば、義勇が知らないことも増えているのだろう。
 炭治郎の成長はうれしいのと同時に、自分の手を離れてしまったようで寂しくもあった。そんな義勇のわずかなもの寂しさに気づかなかったのか、炭治郎はニコニコと笑っている。
「義勇さんと錆兎なら見過ごさないぞ! って思ったら、ほっておけなくなっちゃうんですよね」
 ふたりは俺のお手本ですからと、さらりと笑って言う炭治郎に、義勇の目がしばたく。
 そうだっただろうか。思い返してみれば、たしかにもっと小さい炭治郎の前で、義勇と錆兎は率先して人助けをしていたように思う。炭治郎の尊敬の目が面映ゆくもうれしくて、お兄ちゃんとしていいところを見せなければと、ずいぶんと張り切っていたことを義勇は思い出した。
 出逢ったときには、迷子になって泣きべそをかいていた炭治郎。義勇と錆兎が小二、炭治郎は幼稚園に入ったばかりの春のことだ。あれからもう、十年以上の月日が過ぎ、今も三人ともにいる。
 そういえば、いまだに答えを聞いていないなと思い立ち、義勇は久方ぶりの質問を口にした。
「なんで俺はさん付けで、錆兎は呼び捨てなんだ?」
 最初の内は錆兎くんと義勇くんだったはずの呼び名は、ふたりが中学に上がるころには錆兎と義勇さんになっていた。初めてそう呼ばれたとき、思わずふたりは顔を見あわせ、どうして? と尋ねたのだが、炭治郎はもじもじとするばかりで、理由を答えてはくれなかった。
 しばらくはことあるごとに聞いていたが、今ではすっかり慣れてしまって、理由を聞くのも久し振りだ。
 また答えず照れ笑いでごまかすかもしれない。そう思っていた義勇の想像とは裏腹の反応を、炭治郎は返した。
「錆兎と対等になれたら、義勇さんのこと好きでいても許されるかもと思ったので」
 炭治郎は、けろっとした顔でこともなげに言った。今までだんまりを決め込んでいたのはなんだったんだと、義勇が少し呆気にとられるぐらいには、あっけらかんと言う。
 義勇の呆れを察した炭治郎は、ちょっとだけ照れた様子をみせたけれど、もうごまかす気はないと言うようにすぐに言葉をつむいだ。
「初めて中学の学ランを着てる義勇さんたちを見たときに、俺だけ置いてかれちゃうって怖くなったんです。義勇さんの隣にはいつでも錆兎がいて、俺は三つも下だから義勇さんと同じ教室で勉強したりできないのに、中学と小学校に別れちゃって、一緒に学校に行くことすらできなくなったでしょう? 錆兎は義勇さんと一緒にいられて、うらやましかった。ズルいって思ったことはないんですけどね。錆兎みたいになりたいなって、錆兎と一緒に、義勇さんのそばにいたいって思いました。
 義勇さんに恋してるんだって気がついたの、実はあの時なんです。そしたら義勇くんなんて、それまでと同じには恥ずかしくって呼べなくなっちゃって。それに、自分の気持ちに気がついたら、錆兎の気持ちにも気がつきました。俺と同じだって。
 これでも結構考えたんですよ? どうしたら錆兎と対等になれるのか。呼び方を変えたぐらいでなにが変わるってもんでもないんだけど、宣言みたいなもんかな」
 錆兎と同じ立場で義勇さんを好きでいるっていう、宣言。
 笑って言う炭治郎は、背もぐんと伸びて、木登りだって義勇より早くなった。笑う顔もあのころよりずいぶんと大人びた。けれど瞳の色は変わらない。珊瑚樹の実のようにつややかに赫い、炭治郎の瞳は、晴れやかに、けれどどこか慈しむようなかがやきをたたえて義勇を見つめている。
 その微笑みに見ほれた義勇は、肩の力が、すっ、と抜けたのを感じた。無意識に緊張していたようで、肩のこわばりが解けたことに、義勇はかすかに苦笑する。
 本音を言えば、炭治郎の呼びかけが義勇さんになったのに、当時はかなりうろたえたのだ。錆兎は呼び捨てなのに、どうして自分だけ他人行儀にさん付けになったんだろうと。
 そのころにはもう、義勇は自分の恋心が錆兎と炭治郎に向けられていることを自覚していたから、もしかしたら炭治郎に気づかれて、ここから先に進まないでと線を引かれたのではないかと、内心ひどくおびえていた。
 自分の恋心は、やっぱり炭治郎を困らせるものなのだ。男同士というだけでなく、錆兎と炭治郎のどちらも好きだなんていう不誠実な自分に、思春期の入り口に入った義勇は、かなり自己嫌悪と罪悪感にさいなまれたものだ。
 それでも不安は杞憂でしかなく、炭治郎の瞳にも自分に向けられる恋慕の色があることに義勇が気づくのに、時間はかからなかった。そして、錆兎の瞳に同じ色があることにも。
 ふぅっと軽いため息をついた義勇に、炭治郎が少しあわてる。不安定な木の上で、あわあわとうろたえる様は、どうにも危なっかしい。
 落ち着けと言いながら、義勇は腕を伸ばして炭治郎の頭をなでた。途端にピタリと動きを止め、うれしそうに笑った炭治郎に、義勇も小さく笑う。
 高校生になっても炭治郎の愛らしさは変わらず、義勇の心に愛しさがこみ上げた。
 微笑む義勇に、炭治郎の笑みもますます深まる。大好きと雄弁に語る瞳はそのままに、炭治郎は小首をかしげ、義勇に問いかけた。
「義勇さんは? なんでいきなり木登りしようと思ったんです?」
 錆兎が言うように、この木は今すぐになくなるわけじゃない。登るなら錆兎が動けるようになってからでも十分なはずだ。負けず嫌いで努力家な錆兎のことだから、4月までには意地でも木登りできるぐらいには回復するだろう。
 そんな言葉がつまった炭治郎の問いかけに、今さらかとでも言うように苦笑して、義勇は木の下へと視線を向けた。豊かな緑に隠されてよく見えないけれど、そこには車いすに乗った錆兎がいる。
「さよならしようと思って」
「さよなら?」
 不安を感じたらしい声に、また笑い、義勇は視線を木の下に向けたまま言った。
「おまえと錆兎を、友達だって思い込もうとしていた……諦めることしか選べないと思い込んでた、臆病な自分に」
 顔をあげると、炭治郎の目をじっと見つめる。義勇の澄んだ群青色の瞳が、まっすぐに炭治郎の瞳を射抜いた。
 珊瑚樹の実のように、赫くつややかな炭治郎の瞳が、義勇を映している。深い想いを秘めた赫い瞳に、こうして自分が映しだされつづけることを心のどこかで祈りながら、義勇は言った。
「お別れするなら、この木の上がいいと思った。今よりずっと子どもだった俺たちの、大切な思い出の場所がいい。今日から恋人になるんだから、ちゃんとここでさよならしたかった」
 ほわりと炭治郎の頬が赤く染まった。恋人、と、小さくつぶやく声には、恥じらいと隠しきれない喜びがあった。
「炭治郎」
 そっと呼びかけた義勇の声に、はいと炭治郎が返すより早く、身を乗り出した義勇の顔が近づいて、唇が重なった。
 優しく触れた唇は、ほんの数秒で離れていった。ザワザワとゆれる木の葉の音にまじり、義勇のささやきが、ぽかんとした炭治郎の耳にそそがれる。
「……俺のファーストキスは、おまえにやる。だから、初めて寝るのが錆兎でも許してくれ」
「寝る? あっ、あぁ!! 寝るって、そういう……やっ、えっ、あのっ!!」
 真っ赤になってあわてる炭治郎に、義勇の眉が少し下がった。
「そういうことはしないほうがいいか? 炭治郎が嫌なら、キス以上のことは」
「したいです!! 俺も義勇さんと寝たいです!!」
 義勇の言葉をさえぎって叫ぶ炭治郎に、義勇の肩がびくりと跳ねた。
「おいっ! おまえらなにやってんだ!?」
 下から錆兎の声がして、ようやく炭治郎も、自分の発言の内容と声の大きさに気がついたようだ。首をすくめ恐るおそる上目遣いで義勇を見やる顔は、真っ赤に染まったままバツ悪さをたたえている。
 そんな表情は、昔とちっとも変わらない。義勇と錆兎のかわいい弟分で、今日からは義勇の恋人の、炭治郎。小さいころよりも愛しさを増した、大切な想い人。
 もう、隠す必要もない。恋しい心のままに、抱きしめることも、キスすることもできる。炭治郎も望んでいるというのなら、いつか遠くない未来に、それ以上の行為にも踏み出すのだろう。その日が待ち遠しいような、少しだけ怖いような、不思議な高揚を義勇は感じていた。
 けれども、それもまだ先の話だ。木の下でやきもきしているだろう錆兎と、目の前の炭治郎とで、順位をつけるつもりはない。義勇には、どうしたってふたりに向かう心の順位をつけることなど、できなかった。
 自分の心を偽ったまま、胸に宿った恋心が、乾き干からびて朽ちるまで、友達の仮面をかぶって生きていくのだと思っていた。
 錆兎が示した解決策は、常識外れのとんでもないものかもしれないが、それでも誰一人心を殺すことなく幸せだと笑いあうには、それしかないのだろう。
 未来への不安は消えない。いつまで三人でいられるのかも、三人ともわからなかった。
 いつかはみんな大人になる。錆兎は大人になれるかもわからない。今しかないのだ。子どもでいることを許されるギリギリの、今しか。
 臆病な自分が、恋から必死に目をそむけていた時間は、もう戻らない。けれどまだ遅くはないはずだ。だから義勇は、もう恋しいと伝える炭治郎の瞳から、目をそらさない。炭治郎への愛しさも隠さずに、優しく微笑みながら炭治郎を見つめる。
 炭治郎も、義勇のまなざしから、目をそらすことはなかった。決意は炭治郎の胸にもある。だからこそ、小さな秘密を打ち明けた。たかが呼び方ひとつ。けれど、炭治郎にとっては義勇への恋を、錆兎への友愛のあらわれだ。ふたりに告げることのできない想いでも、なにか形にしたいと必死に考えた、幼い自分が導き出した呼びかけは、今ではもうこれ以外の呼び方はできそうにないぐらい、口に馴染んでいる。
 でももう、隠さなくていいのだ。賽は投げられた。誰一人変わることなく、だけれども、今日から変わる、三人の関係。後戻りはしないと、瞳で義勇に告げる。 

 弱い自分にさようなら。小さくて重い秘密にさようなら。続く道の終着点は見えない。現実に目をそむけた、誰からも非難される選択かもしれない。けれど、きっと行き着くそこは、幸せだ。だからもう悩むのはやめてもいいだろう。三人一緒にいられる場所へ、行こうか。手をとりあって、三人で。

 木枯らしがひときわ強く吹き抜けた。ゆれる枝葉に髪をなぶられ、義勇はわずかに目をすがめた。炭治郎もブルリと体を震わせる。見交わしたまなざしが、やわらかく微笑みあって、義勇がどこかスッキリとした声で言った。
「降りるか。錆兎が待ってる」
「あの、その前に……もう一度、その……急すぎてよくわかんなかったから! だから、あの! キ、キス……してほしい、です」
 もじもじと照れながら、それでも視線をそらすことなく言った炭治郎に、義勇の胸にあふれたのは愛おしさだ。それでも、炭治郎へのあふれんばかりの恋慕のなかにあっても、錆兎に向かう恋しさだって消えない。ずっとそれが苦しかった。罪悪感にさいなまれ、自己嫌悪に打ちのめされそうになっていた。
 でも、もう目をそむけずともいいのだ。愛しさのままに手を伸ばしても、炭治郎と錆兎は許してくれる。伸ばした義勇の手をとり、ふたりとも笑ってくれる。
 だから義勇はためらわず、炭治郎へと身を乗り出した。
 息をつめて待つ炭治郎は、ゆっくりとまぶたを閉じた。かすかに震える炭治郎の唇に、義勇の唇が重なる。
 そっと触れあわせるだけのキスは、冷えたふたりの唇が、互いにどちらの体温かわからなくなるほど溶けあうまで、静かにつづけられた。珊瑚樹の豊かな緑で、世界から隠されたまま。

 木登りは高い木ほど、登るよりも降りるほうが時間がかかる。錆兎のナビで慎重に地面に向かって降りてくるふたりが、次第にまた競争のようになっていくのを、錆兎は苦笑しつつ見上げていた。
 なにやら聞き捨てならない台詞が聞えたときには仰天したが、抜け駆けだとかズルいとか、そんな言葉はみじんも浮かばなかった。
 あぁ、本当に義勇と炭治郎は恋人になったのだ。そして自分も、もう義勇の恋人なのだと、改めて思い、胸に込み上げる喜びをひとり噛みしめる。
 それでも負けず嫌いの自分が、早く自分もあそこへと焦るのはしかたがない。感染症などのリスクに対しての厳重注意は、最低でも1年はつづく。退院したからといって以前の暮らしに即戻れるわけでもない焦燥や、病魔の存在を如実に示す外見の変化は、気丈な錆兎にも重くのしかかってはいる。
 三人で同棲しよう。その提案を口にする寸前まで、錆兎も悩んでいたのだ。ただでさえ自分をサポートするため、ふたりが自身の生活を二の次に、錆兎のために時間を使うことはわかりきっていた。心身ともに気を配りつづける生活は、ふたりの心もすり減らしていくのかもしれない。それを思い悩まぬわけがなかった。
 それでも、口にせずにはいられなかったのだ。先の見えない自分。このまま終われば、自分がこの世を去ったあとにも、きっとふたりが結ばれることはない。義勇と炭治郎は、錆兎抜きに互いの手をとることはないと、錆兎は確信している。ふたりだけで幸せになることをえらべない義勇と炭治郎だからこそ、こんなにも大切で愛おしく、けれども心配でならないのだ。
 俺のことは気にするなと告げても、ふたりはうなずくことはないだろう。ならばどうすればいい。どうしたら誰も傷つかず、三人とも幸せになれるのか。
 錆兎と炭治郎を同時に好きになってしまった義勇を責める気持ちは、どこにもなかった。むしろうれしい。義勇が自分に恋してくれていることも、大事な炭治郎にも同じ想いを向けていることも誇らしく、安堵すら錆兎はしていた。炭治郎だって同じことだろう。
 義勇の苦しみを知りながらも、義勇がどちらかだけをえらべずにいることに、薄暗い喜びを感じることもあった。そんな自分に対する自己嫌悪と罪悪感だって、いつでも胸の奥にあった。時折、炭治郎と見交わした瞳のなかに、同じ暗がりを認め、互いに自嘲の笑みを浮かべたのは、きっと錆兎の気のせいなんかじゃない。
 出逢ったころからかわいい弟分だった炭治郎は、いつしか同じ相手に恋し、同じ苦しさや切なさを抱える戦友とも、共犯者ともいえる存在になっている。義勇へと向かう狂おしいほどの恋心と同じ重さで、炭治郎への友愛も錆兎のなかにはあった。
 ずっと三人で笑いあってすごしてきた。春も、夏も、秋も、冬も、一緒にいた。それぞれの風景のなかに、三人一緒の思い出がつまっている。
 慎重に、けれど先を競って降りてくる義勇と炭治郎は、昔と変わらないように見える。背は伸び顔は大人びても、錆兎が大切に想うふたりは以前とちっとも変わらない。これからも変わらずいてほしいと強く思う。恋心がそれぞれの胸から消えないなら、そんな未来はきっとないとわかっていても。
 深く想い恋愛感情をかかえたまま、三人一緒にいたいならば、関係の在り方を変える以外ないじゃないか。
 どこにも行けず、動けなかった心が描く線を、三角形にしてしまえ。暴論だ。誰が聞いたってきっとあきれ返る。世間一般的な常識という観念からすれば、眉をひそめられ不快感を持たれるに違いない結論だ。
 けれど、それがどうした。錆兎には、義勇と炭治郎より大事なものなどない。家族は大切だけれども、義勇への恋慕と炭治郎への友愛を切り捨てろと強要されたのなら、きっと錆兎は家族を捨てるだろう。
 幸いなことに、妹の真菰は錆兎の気持ちを酌んでくれた。理解を示し、協力すると笑ってくれたことに、心の底から感謝している。
 姿の見えない世間より、真菰の笑顔を、錆兎は信じた。
 そして、この関係の変化が義勇と炭治郎にもたらすものを、信じている。
 幸せになるのだ。三人で。もしも、自分がこの世から去っても、消えない幸せをふたりがつかんでくれたなら、それ以上の喜びがあるだろうか。あるわけがない。これ以上の幸せなんて、錆兎にとって、あるわけがなかった。
 錆兎はそろそろ地面に降り立つふたりを見つめたまま、マスクの下で幸せだと笑った。
 自分が亡くなったあとに、ふたりが手をとりあい生きるのでも、ほかの誰かの手をとるのでも、錆兎はかまわない。義勇と炭治郎が後悔せずに幸せになれるのなら、それでいい。錆兎にとってこれ以上幸せなことなんてなかった。
 世間の目とか常識だとか、正体の見えないものにがんじがらめにとらわれて、後悔と心配だけを残して死んでいく。そんなのはごめんだ。
 義勇は一度決心すれば思い切りがいいし、判断力も優れているが、考え込み過ぎるとドツボにはまって動けなくなる。炭治郎はといえば、思い遣りの深さと融通の利かない頑固さが仇になり、義勇の選択がどれだけ悲しいものになろうと、逆らうことはなく受け入れるのは想像にかたくない。
 それなら、自分が変わるしかないと思ったのだ。変えようと、錆兎が言うよりほかないと思った。未来への確証がない錆兎が言うのなら、ふたりは強固に反対することができないだろうなんて。男らしく正々堂々という信念には、少々もとる手段ではあったが、それすら義勇と炭治郎の……自分たち三人の幸せのためなら、目をつぶるのはやぶさかではない。
 だから、さよなら。固定観念にとらわれていた自分に、さようなら。こんな身になるまで決断できなかったことは、もういい。こんな事態にならなければ、ふたりの決意も固まることはなかっただろう。
 ここから始まるのだ。他人に間違っていると責められようと、自分たちが、義勇と炭治郎と、そして錆兎が幸せでいられる関係に、今日からなる。未来のことは考えない。幸せな今日を、毎日繰り返して生きていく。子どもでいられる、ほんの短い時間でも。胸のなかで永遠に変わらずかがやき続ける、色あせない幸せをくれる日々を、三人で生きる。
 競り合いながら降りてくるふたりの姿を、夢見るような瞳で見つめたまま、錆兎は楽しげに笑った。

 地面に降り立ったのは、僅差で義勇のほうが先だった。やっぱり降りるのは義勇さんに勝てないと、悔しさを隠さない炭治郎に、義勇がムフフと笑っている。あぁ、早く自分もあのなかにまざりたい。焦りは消えないけれど、それでも心は穏やかだ。嫉妬の嵐など錆兎は感じたことがない。
「登りは炭治郎で、下りは義勇か。引き分けだな。俺がいたら、どっちも俺が勝ったけど。引っ越し前に三人で登るか!」
 笑って言った錆兎に、義勇と炭治郎の目がぱちりとまばたき、そろって呆れた顔を見せた。
「錆兎は駄目だ! 感染症怖いんだぞ!」
「こいつには悪いが、錆兎は木や土に触るのは禁止だ」
 ポンっと珊瑚樹の幹をいたわるようにたたいて言った義勇に、錆兎はしかたがないとため息をついた。自分が亡くなったあとを考えはしても、むざむざ死ぬ気はないのだ。生き延びて三人で幸せに暮らし続ける道を模索しつづけるのが、最優先なことに違いはない。
「わかったわかった。木登りで死ぬのは俺もごめんだ。ま、とりあえず、引っ越しまでに自分で身のまわりのことぐらいはできるようになるのが、目標だな」
 かなり本気の意思表示だったが、義勇と炭治郎はそろって眉をひそめ、あきれた声で錆兎をたしなめた。
「無理するなよ。リハビリの終了は、半年ぐらいが目途だろ?」
「たしか150日でしたよね。4月までじゃ早すぎて、見張ってないと錆兎は絶対に無理しますよ、義勇さん」
 そりゃ無理もしたくなるだろう。仲間外れ反対。
 不満顔になる錆兎に、顔を見あわせたふたりは、肩をすくめ錆兎に歩み寄った。
 そのまま炭治郎は車いすの後ろに回り込み、義勇は無言で錆兎の目の前に立った。逆光になり、義勇の目の色はよく見えない。けれど、口元が少し笑っているように錆兎には見えた。
「木登りよりも先に、できるようになってもらわなきゃ困ることがあるんだがな」
「なんだ? 風呂とかなら入院中もリハビリ……」
 錆兎の言葉は、最後までは言えなかった。影を濃くした義勇の顔が近づいて、冷えた唇がマスク越しに錆兎の唇をふさいだから。
 思わず硬直した錆兎の目が見開く。唇はすぐに離れて、義勇はうっすらと微笑んだ。
 じっと錆兎を見すえて義勇が浮かべる微笑みは、錆兎が初めて目にするあでやかさで、言葉が出ない。
「……なるべく早く副作用を克服してくれ。錆兎が役に立たないと、炭治郎を待たせることになるから」
「は? 副作用って……」
 すっと下がった義勇の視線を追って、錆兎の瞳が映したのは自分の足だ。たしかにまだ車いすのお世話にはなっているが、役に立たないと言われるほどのことは……と、考えた錆兎は、ククッと喉をふるわせて笑った義勇に、ようやくなにが言いたいのか悟り、思わず顔を赤く染めた。
「おま、それ……っ」
「ファーストキスは炭治郎にやった。錆兎は……」

 俺の処女をもらってくれ。

 身をかがめて錆兎の耳に直接ささやいた義勇の声が、何度も錆兎の脳裏にリフレインする。 
「ちゃんと使い物になるまでに、俺も勉強しておく」
 だから頑張れと笑う義勇に、錆兎は言葉もない。ハッと気づいて背後の炭治郎に目を向ければ、炭治郎も笑っていた。嫉妬や拗ねる様子などまったくない炭治郎の笑みは、いつもよりもどこか大人びている。
 錆兎が呆然としているあいだに、義勇も炭治郎の隣に立ち、ふたりそろって車いすを押しだした。
 なんてこった。こいつらさっきの今で、俺より覚悟が決まってるじゃないか。
 唖然としつつも錆兎の胸にひょっこりと、負けず嫌いな自分が顔を出す。義勇の恋人として、炭治郎の兄貴分として、負けっぱなしでなどいられない。たしかに、治療の副作用で今のところ役に立ちそうにもない愚息ではあるが、一時的なもののはずだし、義勇がその気ならなにがなんでも早く回復させなくてはとの焦りも生まれる。
 けれどもとりあえずは、してやられた悔しさを、やりかえしておこうか。
「目標変更だな。早いところ買い物に行けるようにする」
「買い物? それぐらいなら俺らがするぞ?」
 車いすを押しながら言う炭治郎の隣で、義勇もこくりとうなずいた。
「ベッドは実物を見てえらびたいだろ。俺と義勇のだけでなく、炭治郎との初夜にも使うベッドだからな、奮発してやるよ」

 サイズはやっぱりキングサイズかなと、こともなげに言い、錆兎はぽかんとしたふたりに声をあげて笑った。

 騒がしくなった庭を、緑の葉をゆらせる珊瑚樹が見下ろしていた。