ピーターパンの箱庭~正三角形の始まり~

「なぁ、おまえらの5年間を、俺にくれないか?」
 久しぶりに訪れた錆兎の家の茶の間で、こたつを囲んだ幼馴染の三人が、そろってホッと一息ついたとたんの一言が、これだ。
 予想すらしていなかった錆兎の言葉に、義勇と炭治郎は、なにを突然と言わんばかりにそろって目をしばたたかせ、ぽかんと口を開いた。
「間抜け面」
 ふはっと吹き出した錆兎に、義勇の眉がわずかに寄せられる。炭治郎はといえば、まだぱちぱちとまばたきを繰り返して、なかなか錆兎の言葉の意味を酌みとれないようだ。
「錆兎、冗談は」
「冗談じゃないし、思いつきだけで言ってるわけでもない」
 義勇の言葉をさえぎるように言った錆兎は、以前よりかなり痩せて、精悍な顔立ちは面やつれしている。長めだった宍色の髪はほぼ抜け落ちて、1月半ばの今、見るからに寒々しい。最近少し生えだしてきたと、錆兎はカラリと笑ったが、やはり外見の変化は自分自身落ち着かないのか、部屋のなかでもキャップをかぶったままだ。
 笑みを消して、真剣な面持ちで言う錆兎に、炭治郎がごくりと喉を鳴らした。
「俺と義勇さんの5年間って……具体的にはどうすればいいんだ? サポートなら元々するつもりだったぞ?」
 錆兎の真意はわからないまでも、真剣さは理解したのだろう。炭治郎の表情は改まったものになっている。

 急性骨髄性白血病。その病気についての義勇と炭治郎の知識は、同世代のなかではずば抜けて多いだろう。ここ8ヶ月ばかりは、ふたりとも時間があれば白血病について調べていたのだから。
 その期間はすなわち、錆兎の白血病が発覚し入院してから、今日までの月日だ。
 5年間。錆兎が提示したその意味も、だからわかる。
 白血病が治癒したと判断されるのは、治療終了から4年以内に再発しないことが条件だ。それすら、完全とは言い難い。とはいえ、4年目以降の再発率は1%以下だから、5年なんともなければ、一安心というわけだ。
 そもそも、錆兎をむしばんだ白血病細胞は、通常の化学療法では再発率が高いものだった。幸いなことにドナーが見つかり、骨髄移植を行うことができたから、こうして退院するまでにいたったが、感染症のリスクは未だある。
 しばらくは1、2ヶ月に一度の通院は必須だし、免疫抑制剤の服用はかかせない。
 退院したとはいえ、もとの生活に戻るまでには1年ほどかかるということも、もう義勇と炭治郎は知っている。
 病気の発覚前に勤務中の事故で亡くなった錆兎の父と、錆兎は二人暮らしだったから、生活面のサポートは自分たちで請け負う予定でいたのはたしかだ。
 まだ高校生の炭治郎は通いになるけれど、義勇は錆兎としばらく同居するつもりですらいた。相談したわけではないが、ふたりがそう考えるのは至極当然のことだった。
 祖父の代に建てられた錆兎の家は、それなりに広く居心地のいい家ではあるが、バリアフリーには程遠い。階段は急だし、なんと風呂は五右衛門風呂だ。
 もちろん、昔ながらの薪で焚くようなものではなく、錆兎の父が生前に給湯式へとリフォームしてはいる。それでも当分は、一人で入浴するのもままならないだろう。長い入院生活での関節拘縮こうしゅくで、日常動作すらつらい錆兎が一人暮らしするには、不便なことに変わりはない。
 それでなくとも腹に溜まればそれでいいと、父と二人暮らしだったころからろくに炊事などしてこなかった錆兎のことだ。体の不具合をかかえたまま、今更三食きちんと栄養バランスを考え自炊し、調理器具などの衛生面にも気を遣うなど、かなりの無理難題だ。
 洗濯や掃除だって、うまく体を動かせない状態では、医師から推奨されるレベルを維持するのは困難だろう。
「もちろん、錆兎が自炊できるとは思わないから、俺がご飯作りに行くつもりでいたけど……」
「掃除や洗濯ぐらい、俺だってできる。入浴介助も勉強した」
 しかしそれは、錆兎が社会復帰できるまでの想定だ。1年程度のものである。だから、錆兎の言う5年間というのは、ふたりが考えているような生活をサポートするという意味ではないのだろう。5年間は長すぎる。
 入学してすぐに休学する羽目になった錆兎が、大学に戻るのは、どれだけ早くとも来春だ。それを考えれば、錆兎が大学を卒業し就職するまでの期間ということになる。
 大学一年の錆兎と義勇は、1月の今は18歳。夏に16になった炭治郎は高一。今はまだ、錆兎のフォローのための時間を融通するのは、さほど困難ではない。
 けれど5年の間に、炭治郎は大学なり専門学校なりに進学するだろうし、義勇だって就職するだろう。環境はガラリと変わる。それぞれ大人にならなければならなくなるのだ。
 困惑する義勇と炭治郎に、錆兎は痩せた頬をゆるませ、こともなげに言った。
「なんだ、義勇は最初から俺と同棲してくれるつもりがあったのか。で、炭治郎は通い妻か」
「ど、同棲っ!? ち、違うっ!!」
「通い妻!?」
 軽口めいた思いがけない言葉に、義勇と炭治郎は目を見開き、あわてふためくが、錆兎はまるで動じた様子がない。
「俺からすれば、義勇が一緒に暮らしてくれるなら同棲だ。あぁ、炭治郎は俺の通い妻じゃなくて、義勇のだよな。けど、残念ながら通いは却下だ。炭治郎も一緒に同棲するんじゃなきゃ意味がない」
 できるなら同棲じゃなく義勇と結婚したいけど。炭治郎もそうだろう? と言って笑う錆兎の瞳は、冗句めいた言葉とは裏腹に、静かで真剣だ。
 言葉をなくしたふたりに、錆兎はなおも言った。
「義勇が好きだ。恋愛感情って意味で。知ってただろ? 炭治郎、おまえだって義勇のことが好きなんだろ。俺と同じ意味で、おまえは義勇が好きなんだ。俺はそれを知ってるし、義勇、おまえも知ってるはずだ」
 錆兎の声から軽さが消えた。瞳も声も真剣そのものだ。
 ぐっと息を飲んだ炭治郎が、泣きだしそうに瞳をゆらせた。義勇も無表情ながらわずかに血の気が引いている。

 知っていた。知っているのだ。三人とも。錆兎と炭治郎が、義勇に恋いこがれていることも。

 そして、義勇が、そんなふたりを同時に恋しいと想っていることも。

「……おれは、5年後生きているかわからない」
「錆兎っ!!」
「そんなこと言うなっ!!」
「事実だ」
 とっさに激高した炭治郎と義勇を見つめ、やせ細りすっかり筋肉の落ちた腕を持ち上げて、錆兎は静かに笑った。
「こんな体になった俺が告白したら、義勇は断り切れないだろうなって思ったよ。炭治郎は黙って祝福してくれるだろうとも。でも、それじゃ駄目だ。俺ら三人とも駄目になる。入院中考える時間だけは、山ほどあったからな。さんざん考えた。どんなにシミュレーションしてみても、俺とつきあっても、炭治郎とつきあっても……三人とも、別の誰かとつきあうことになっても、今みたいな関係ではいられなくなる未来しか浮かばなかった」
 錆兎の落ち着いた声に、自嘲のひびきはない。事実を淡々と突きつけられて、義勇と炭治郎の瞳がゆれる。動揺を隠せずにいるふたりをじっと見つめ、錆兎はなおも言った。
「義勇が俺のものになったとしても、半分だ。おまえの心の半分は、俺といても炭治郎にむかうんだ。炭治郎のものになっても、同じことだろ? だっておまえは、俺のことも好きだから。違うか? 義勇」
「錆兎っ、やめろよ!!」
 声をあげたのは、詰問されている義勇ではなく炭治郎だった。だってそんなこと、今更言われなくてもわかっているのだ。わかっているから、誰も口にはせずに、過ごしてきた。見ないふりをしつづければ、認めなければ、いつまでも一緒にいられる。義勇がそれを望んでいることを、知っていたから。
 なのになぜと、炭治郎は目をいからせて錆兎につめ寄った。義勇を苦しめるようなことを言うなら、錆兎だって許さない。炭治郎の表情がそう告げている。
「責めてるわけじゃない。義勇はそれでいいんだ。俺と炭治郎を、同時に同じだけ想っているって、認めてくれるだけでいい。それを飲みこんで、受け入れる度量があるか……試されてるのは俺たちのほうだぞ、炭治郎」
 ニヤリと笑う錆兎の顔は、真剣というよりも、鬼気迫るものを感じさせて、炭治郎はごくりと喉を鳴らした。
「俺は、義勇を想うのと同じくらい、炭治郎のことも大切なんだ。本当の弟みたいに思ってる。だから、炭治郎が少しでも傷つくなら、義勇とつきあうことなんてできない。炭治郎だって俺と同じだろう? 義勇のことが誰より好きで、けど、俺のことも義勇と同じくらい大事なんだ、おまえは」
 錆兎の声はどこまでも静かだ。けれど、有無を言わせぬ強さがあった。
 ごまかすな。本音をぶちまけろ。見据える瞳がはっきりと語るそれに促され、炭治郎は視線を義勇へと向けた。
 まだ幼さの残る顔をゆがませて、炭治郎は潤んだ瞳で義勇をじっと見つめる。
 言うな。念じる義勇の心に従うことなく、炭治郎は口を開いた。
「……好きです。俺も、義勇さんのことが誰よりも好きです! ずっと、ずっと、大好きでした! これからも義勇さんだけが好きです!」
 叫ぶような声で言った炭治郎から、義勇は、目をそらすことができなかった。
 感情表現豊かで涙もろい炭治郎の瞳は、泣きだしそうに潤んではいるものの、涙がこぼれることはなかった。涙の膜が張られた赫灼の瞳には、固い決意が燃えている。
「義勇さんが俺のこと好きなのも、錆兎のことも同じくらい好きなのも、俺、知ってました。錆兎が俺と同じように義勇さんのことが好きだってことも、けど俺のこともすごく大事に思ってくれてるのも、全部、知ってました。俺も同じだから。俺も義勇さんが好きで、錆兎も大事だから。
 だから、俺が義勇さんを独り占めする日なんて絶対にこないって……ちゃんと、知ってるんです。
 だけど……だけどっ、もし俺と錆兎を一緒に義勇さんが受け入れてくれるなら、俺、義勇さんの恋人になりたい! 義勇さんを、錆兎と一緒に愛したいし、錆兎と一緒に愛されたいです!!」
 炭治郎は泣かない。三人のなかでは一番よく泣くのに。それを慰めて涙を拭ってやるのは、いつだって義勇のほうだったのに。
 エアコンのない茶の間で、赤々と燃えるストーブの上のやかんが、シュンシュンと音をたてだした。緊迫した三人のあいだに流れる非現実めいた空気感とは裏腹に、日常は今も続いているぞ、これは現実だと教えるように。
「泣くなよ……義勇」
「……駄目だろ、そんなの。二人とも好きだなんて、そんな不誠実な男が……俺みたいな最低の男が錆兎と炭治郎の恋人になるなんて、許せるわけないだろっ!!」
 涙がこぼれたのは、義勇だけだった。瑠璃色の瞳が濡れて、叫ぶ声が悲痛にひびいても、錆兎はこともなげに笑った。
「俺が許す。俺と炭治郎が許すよ、義勇」
 はらはらと落ち続ける義勇の涙をうっとりと見つめて、錆兎は優しく、けれど強い声で言う。
「俺と炭治郎と義勇っていう点の関係は、今までは一本の線だったと思うんだ。義勇を真ん中にした一本の線。天秤……ってほうが、わかりやすいかな。義勇がどっちにずれても、バランスが崩れて壊れる線なんだ。でも、三角形なら崩れない。知ってるか? 単純な図形のなかでは三角形がいちばん安定していて丈夫なんだ」
「三角形?」
 炭治郎の言葉に、そう、とうなずく錆兎を泣きながら見つめて、義勇は首を振った。
「三角関係なんて……図形と同じにはならない。そんな単純なもんじゃないだろ」
「単純さ。三角関係でいようなんて言ってないぞ、義勇。三角関係ってのはようはアメリカンクラッカーみたいなもんだろ? 義勇っていう支点の先で、二つの点がぶつかりあうんだ。俺と炭治郎はそうじゃない。俺と義勇と炭治郎は正三角形だ。どれも同じ長さの線でつながってる」
 義勇と錆兎。義勇と炭治郎。そして、錆兎と炭治郎。すべて等しい想いの深さで繋がりあった、正三角形。それが俺たちだと、錆兎は笑った。
 四角形のように斜めにゆがむこともなく、円や五角形や六角形みたいに転がることもない。綺麗な等辺で描かれた、正三角形。
「でも……そんなの、つづかない。男同士で、しかも三人一緒なんて……そんな関係が許される未来なんてくるわけがない」

「俺には未来自体ないかもしれないんだよ、義勇」

 そう言って笑い、錆兎は、息を飲み瞬間血の気をひかせた義勇と炭治郎に、だから期限付きなんだとしれっとして言った。
「死ぬ気なんて俺だってないさ。石にかじりついても生き延びてみせるって思ってるよ。再発しようがしなかろうが、いつかは将来を考えなくちゃいけない日がくることだって、ちゃんとわかってるさ。
 けど、俺らはまだ子どもだ。成人しても、社会に出るまでは半人前の若造だ。俺たちの関係が許されるのは、きっと大人になるまでだ」
 だから5年。5年という期限付きで、三人で恋をしようと、錆兎は笑う。
「5年後には炭治郎だって成人してる。そこが限界だろうな。モラトリアムでいられるのは」
「義勇さんが不安なのは、未来だけですか? それなら、俺、錆兎の言う5年だけでもかまいません。一生のうち5年だけでも義勇さんの恋人になれるなら。期限が終わったら、ちゃんと大人になるから……だから、今だけ……駄目ですか?」
 未来のない関係。義勇をためらわせるものはそれだけだろうか。
「半分なんて……嫌だ。おまえたちは俺に恋心を全部くれるのに、俺は半分しか返せないなんて……そんなの、自分が許せない」
 そっとまぶたを伏せた義勇の濡れた目元に、まつ毛が濃い影を作る。義勇は泣き顔も綺麗だ。錆兎と炭治郎は、うっとりとそれをながめて笑う。
「大丈夫ですよ、だって義勇さんの心は海みたいにとっても大きくて広いって、俺、知ってますから」
「そうだぞ、義勇。おまえのイメージってさ、青と白なんだよなぁ。真っ白な雲が浮かぶ、真っ青な大空……義勇の心が空みたいに広くて大きいからなんだろうな」
「あ、空もわかる! 海も青と白なんだ。綺麗な青い海に波の白い線が描かれてる感じ」
「あー、わかるわかる。海も義勇だよな」
 ふたりが義勇を置き去りに盛り上がりだすのを、義勇は泣きながら見つめた。呆然とする濡れた瞳は、海と空の青。地球の写真に見る、綺麗な瑠璃色だ。
「海や空を独り占めしようなんて欲張っても、無駄なことぐらい承知してるよ」
「それに、海や空の半分なら、俺たちの全部より大きいかも」
 だからなにも心配なんてしなくていいんだよと、錆兎と炭治郎は笑った。
「いいのか……? ふたりを同時に愛しても」
 勿論! と笑うふたりの瞳には、真剣な色がある。義勇の苦痛を軽くするためなら、錆兎と炭治郎は笑うのだ。涙を流したり、追いつめるような固い表情なんてけっして見せない。
 それでも隠しきれないふたりの緊張の色に、義勇は、そっと微笑んだ。
「好きだ……。俺も、錆兎が好き。炭治郎が、好きだ。ふたりとも、同じくらい……愛してる」

 赤々としたストーブで、部屋は大分暖まっていた。シュンシュンと湯気を立てるやかん。こたつはぬくぬくとして、窓の外では庭の植木にとまったツグミが、クイックイッと鳴いていた。春に失われた三人の日常は、冬のこの日に、戻ってきた。
 いや、戻ったのではない。たしかな変化がある。期限付きのピーターパン。少年のあいだだけ許される、はたから見れば奇妙な関係。それでも三人にとっては、最上で、最高の、正三角形が、今日からの三人の日常になる。

 今日から錆兎と炭治郎の恋人は義勇で、義勇の恋人は、錆兎と、炭治郎。
 誰からともなくこたつに伸ばされた三人の手が、そっと重なった。