さよなら、さびしんぼ

 その日、鴉が運んできたふみに炭治郎は目を輝かせ、ついで、少しだけ泣いた。
 文に書かれた文言は、一日きりの休暇を告げるものだった。それは、涙で文字がぼやけて見えるほどの感謝と歓喜を、そして、わずかばかりのやるせなさを炭治郎に与えた。

 夕日が山の端にかかる。すすきを手に走り回りながら、幾度も禰豆子は、赤く染まった笑顔を炭治郎たちへと向けている。明るい笑みに笑い返し、炭治郎は、少し離れた場所にたたずむ義勇へと視線を投げた。
「そろそろ時間ですね。義勇さん、つきあわせちゃってすみませんでした」
「かまわない」
 義勇の声はそっけない。抑揚がなく淡々としている。けれども炭治郎は、冷たいとは思わなかった。冷淡な人ならば、そもそもここにはいない。
「お、おにい、ちゃ! ぎゆ!」
 大きく手を振る禰豆子に瞳を戻し、炭治郎も快活に笑って手を振り返す。禰豆子は楽しそうに笑っている。今日は、一日中よく晴れていた。晩秋の風は冷たく、そろそろ冬の気配を感じさせる。けれど、日差しはじゅうぶんに暖かかった。太陽は雲に隠れることもなく、天真爛漫に駆けまわる禰豆子を、たえず照らしていた。
 日差しのなかで見る禰豆子は、天空に輝く太陽よりも明るく朗らかな笑みを、ずっと浮かべていた。
 それが炭治郎には、途方もなくうれしい。

 柱稽古が始まって以来、禰豆子はずっとお館様の庇護下にいる。今までのように炭治郎が連れて歩くことはできず、離ればなれだ。炭治郎と禰豆子が、こんなにも離れて過ごすなど、初めてのことだった。
 炭治郎は稽古に励まねばならなかったし、禰豆子は、鬼舞辻の手に落ちぬよう厳重な保護を必要としている。炭治郎はもちろんそれを理解していたし、禰豆子も炭治郎の決意を感じとったのだろう、駄々をこねることなく炭治郎の手を離した。
 それ以来、ふたりが顔を合わせた時間は、わずかたりとない。そんななか届いたのが、一日きりの休暇の知らせである。
 稽古を休み禰豆子と過ごす時間を与えるとの文に、炭治郎は胸にわき起こる歓喜とともに、息苦しいほどの緊張をおぼえた。文の内容を伝えられた義勇の顔にも、炭治郎と同様の緊迫感がただよっていた。
 幼子と変わらぬ禰豆子の寂しさを、産屋敷の人たちが思いやってのこと。ただそれだけを信じられたのならよかった。けれど、今それを許された真の理由は、炭治郎にも、当然、柱である義勇にも容易に知れた。
 決戦が近い。お館様はそれを感じとっているのだろう。戦いが始まれば、ふたたび兄妹が相まみえる日がくるなど、誰にも確約できない。それゆえに与えられた一日きりの休暇だった。

 はしゃぎまわる禰豆子を、義勇はじっと見つめている。禰豆子に眼差しを据えたまま、炭治郎は静かに義勇の隣に並び立った。
 かまわないとは言われたものの、炭治郎としてはやはり少々申しわけなさもおぼえる。だが罪悪感はささやかな苦笑にとどめた。義勇の同行を求めたのは炭治郎だ。誘っておいて謝りたおすのでは、かえって気がとがめる。義勇も重ねての謝罪など望んではいないだろう。
 義勇が了承したのは、禰豆子も喜びますとの炭治郎の発言を真に受けたわけではない。義勇は護衛としてきたのに違いなかった。それでも義勇は、大喜びでまとわりついた禰豆子を邪険に振り払うことはなかった。

 それどころか……。
 
 思い出した光景に、炭治郎の笑みがやわらかく深まる。
 炭治郎は明るい笑みはそのままに、義勇にふたたび話しかけた。
「義勇さんも楽しそうでよかったです」
 笑いながら炭治郎が言うと、義勇がわずかに表情を変えた。少しばかり情けなく見える顔には、どこが? と書いてある。そんな気が炭治郎にはする。気のせいではないだろう。義勇からはかすかに困惑の匂いがしていた。
「子供役、堂に入ってましたよ?」
「……からかうな」
 滅相もないと泡を食い、それでも炭治郎はやはり笑った。
 禰豆子にねだられてままごとをしたのは、炭治郎からすればどうということもない。もっと幼いころには、禰豆子や花子につきあわされることはままあった。けれども。

「お、お兄ちゃが、お父さん。ぎゆは、こども!」

 まさか禰豆子がそんなことを言いだすとは思いもよらず、炭治郎は仰天して目を丸くしたし、義勇もめずらしいことに茫然自失として見えた。
 そんなことを柱にさせられるわけがない。ましてや義勇は炭治郎と禰豆子にとっては恩人だ。
 あわてふためき炭治郎は禰豆子をいさめようとしたが、頑として断るだろうと思われた義勇は、無言で腰を下ろしてくれた。おまけに、禰豆子が言うままに落ち葉にもられたイヌタデの花を、いただきますと食べるふりまでしてくれたのだ。終始、無愛想な能面顔ではあったけれども。
 やさしい人だ。炭治郎の胸が温かさで満ちる。

「ままごとなんかしたのは、はじめてだ」
「近所に女の子の友だちはいなかったんですか?」
 幼いうちは男女の別なく一緒に遊ぶことも多かろうに。思い炭治郎が聞けば、義勇はそっけなく
「そもそも友だちと遊ぶことがほとんどなかった」
 と、こともなげに言った。
「両親をなくしてから、どうも引っ込み思案に拍車がかかったらしい。同じ年頃の子にも人見知りして、姉とばかり遊びたがっていたと、よく苦笑された」
 他人事のように語るからには、義勇にその自覚はないのだろう。だが、声音にはどことなし郷愁がただよっている。今、義勇の脳裏に浮かんでいるのは、姉の笑みに違いなかった。

 いよいよ周囲は赤い。夕焼けが義勇の白皙を赤く、赤く、染めている。
 かすかに切なさをたたえた吐息をもらし、炭治郎は、禰豆子に向かい笑って声をかけた。
「禰豆子、そろそろ帰るぞ!」
「は、はぁい!」
 ピタリと立ち止まった禰豆子は、炭治郎たちを振り返り見ると、ぐずることもなく駆け寄ってくる。
「さ、帰ろ」
「うん!」
 炭治郎が差し出した手をとる禰豆子は無邪気だ。これが今生の別れになるかもしれないなどと、わずかにも思っていないに違いない。純真な笑みに、炭治郎の胸はたとえようもない幸せと、ほんのかすかな切なさで、キュウっと締めつけられた。
「お、お兄ちゃん、お歌。お、お母さん、みたいに!」
「えっ? 歌?」
 たしかに母は子供らによく子守唄を歌ってくれていた。潜入任務のおりにも、禰豆子を鬼の本能から救ったのは、母がよく歌い聞かせてくれた子守唄だ。
「んー、よし! じゃあ歌うか!」
 破顔して、張り切って歌い出した炭治郎だが、どうやら禰豆子はお気に召さなかったらしい。へにゃりと眉を下げ、なんとも言えぬ情けない顔をしている。炭治郎がちょっとうろたえつつ義勇を見れば、義勇も目を丸くして炭治郎を凝視していた。
「お兄ちゃ、う、歌、へたくそ」
「えぇーっ! そうかなぁ」
 思わずしおたれた炭治郎に、禰豆子はアハハと楽しげに笑った。
「ぎ、ぎゆ、お歌!」
 くるりと義勇に顔を向けて言った禰豆子には、なんの悪気もないだろう。無垢な幼子のおねだりだ。けれども相手が相手である。驚愕しておぼえず肩を跳ねあげた炭治郎は、あわてふためいて禰豆子の口をふさいだ。
「ちょ、禰豆子! 義勇さんにそんなこと言っちゃ駄目だろっ」
「……そらで歌える曲なぞ、ひとつきりだぞ」
「へ?」
 思いがけぬ義勇の返答に、炭治郎の大きな目がますます丸く見開かれる。ポカンとした炭治郎の手を口からどかせ、禰豆子が元気よく答えた。
「い、いいよ!」
「あ、あの、義勇さん、いいんですか?」
「うまくはないが……笑うなよ?」
 笑いませんよと動揺しつつも即答した炭治郎に、義勇は小さく微笑んだ。
 動転が過ぎ去れば、炭治郎も禰豆子同様、ただもうワクワクとした心持ちになる。禰豆子よりも期待と陶酔感は大きかったかもしれない。
 キラキラと目を輝かせて見上げてくる二組の瞳に、義勇の笑みが苦笑めく。だが、言をひるがえす気はないようだ。
 常にはなくゆっくりと歩きながら、義勇はそっと歌い出した。

 鴉カァカァお山に帰りゃ 寂しい狐がコンと鳴いた
 ひとりのおうちは寂しかろ 木枯らしピュウと吹きゃ寒かろう
 コンコンコンと泣くさびしんぼ ポロポロ泣いてもひとりぼっち
 そこにポンポコ豆狸 なにを泣いてござろうか
 ひとりは寂し ひとりは寒い コンコン狐が泣くのに笑い
 それなら私と一緒にいましょ 一緒にいたら雪んこ降ってもぬくかろう
 おいしいご飯も半分こ 一緒にいたらもまた楽し
 コンコンコンと狐は笑い それ見て狸もポンポコリン
 仲良しこよしでみな帰ろ 空で鴉もカァと鳴く 兎ピョンと跳ね 笑ってる
 お手々つないでみな帰ろ ポンポコ コンと 笑って帰ろ
 夕焼け小焼けのお山の道を 笑って帰ろ ポンポコ コン

 夕焼けに静かに響いた義勇の歌声が、ひっそりとやんだ。遠くで鴉が鳴く。冷たい風が薄を揺らせた。
「ぎ、ぎゆ、じょうず! もっと!」
「本当に義勇さんじょうずですねぇ! 今のはなんて曲ですか?」
 ワッと声を明るくしてはしゃぐ禰豆子と炭治郎に、義勇は、照れた気配を無愛想な顔ににじませた。
「さぁ……曲名なぞないだろう。姉が即興で作ったのだと思う。俺が近所のガキ大将にいじめられて泣いて帰ると、よく歌ってくれた」
 声はやさしく、炭治郎と禰豆子を見やる瞳もやわらかく笑んで、ほんのわずかな切なさをおびているように見えた。
「……じゃあ、その歌を知ってるのは義勇さんだけですか?」
「そうだな……俺が死ねば、それきり消える曲だ」
 義勇の微笑みが悲しく思えて、炭治郎は、一瞬言葉に詰まった。なんと声をかければよいのだろう。悲しいことを言わないでと訴えるのは簡単だが、炭治郎にも同じ決意と覚悟がある。命は今日かぎり。そうなっても、もはやおかしくはないのだ。
 シンと落ちた物悲しい静寂を、朗らかな声がかき消した。

「ね、禰豆子も、歌うよ!」

 無邪気に笑って義勇に手を差し伸べながら、禰豆子は言う。義勇と炭治郎の視線を一身に集めて、禰豆子はニコニコと笑っていた。
「お、お手々つないで、ポンポコ、コン!」
「俺も……俺にも教えてください! 義勇さんとお姉さんの思い出の曲、俺も歌いたいです!」
 めずらしくも義勇の目が、パチパチとせわしなくまばたいた。少し呆けたような顔が、やがてほのかな笑みを宿す。
「お、教えて、ぎゆ!」
「一緒に歌いながら帰りましょう!」
 少しばかりうら悲しさの残る義勇の笑みには、けれど悲壮感はどこにもない。胸が甘苦しくなるような、やわらかく穏やかな笑みだ。
 差し伸べられた小さな手を、義勇の手がそっと握った。
「……うん。炭治郎と禰豆子が歌ってくれたのなら、きっと姉も喜ぶ」
「はい!」

 辺りは燃えるように赤い。薄が揺れた。幼子の姿をした禰豆子と、炭治郎と義勇の影は、ひとつなぎに長く伸びて、草むらに黒く濃く落ちていた。
 もうじき夜がくる。ひとつにつながった影も闇に飲まれ、夜に溶けて消える。
 それでもまだ、時間は少しある。やさしい歌を覚えるぐらいには。
 元気な少し片言と、すっとんきょうな音程の歌に、苦笑交じりに歌うはやわらかく穏やかな声。
 一日きりの休暇。つかの間の幸せ。いついつまでもとの口には出せぬ願いが、歌声となって夕焼けに響く。決戦前夜。明日からはまた刃を握る手を、仲良くつないで、笑って帰る。

 お手々つないでみな帰ろ ポンポコ コンと 笑って帰ろ