午前0時のパーネ・トスカーノ

 多分、順番を間違えたんだと思う。
 義勇さんが意外とやきもち妬きだってことぐらい、俺だってもう重々承知していたってのに。返す返すもうかつすぎだ。
 高一のクリスマスイブにお付き合いを開始してから、はや四年。義勇さんの性格ぐらい理解してると言えるだけの時間を、ともに過ごしてきた。いつもだったら、もうちょっとうまく立ち回れたはずだったんだ。

 敗因はと言えば、忙しすぎた。この一言に尽きる。

 小説家である義勇さんは、普段だったら時間の融通が利くので、今まで逢うのに困ったことはない。
 そもそも義勇さんの一番執筆しやすい作業場所というのが、俺の家であるベーカリーのカフェスペースだったりするから、仕事中だってパソコンに向かう横顔は見放題だ。
 レジで会計したりパンの補充をしつつも、視線はついつい義勇さんに向かう。並んだ観葉植物の鉢植えで、ほかの席からは隔離されたそこは、義勇さん専用の予約席だ。母さんに頼み込んだその日以来、義勇さん以外の人を座らせたことはない。
 義勇さんがそこにいてくれるだけで大張り切りな俺を、禰豆子や竹雄はしょっちゅうからかってくる。ちょっと困りものだけれど、本当だったら祝福なんてされそうにない俺と義勇さんの恋を応援してくれるんだから、からかわれることぐらいなんてことはない。
 閉店作業を俺に任せて「ごゆっくり~」なんて笑って家に入ってく禰豆子たちに、真っ赤になる俺を、義勇さんは薄く笑って手招きする。それがつい二ヶ月ほど前までの俺たちの日常。
 クローズドの札を掛けた後で、こっそりキスなんてしちゃってることは、家族には内緒。
 俺が店の手伝いを休める日なら、義勇さんのお家でまったり過ごすことだって余裕でできた。お付き合い初日に合鍵を貰ってたりもするので、何日も逢えないなんてこと、これまでほとんどなかったんだ。
 俺が高校を卒業して、健全なお付き合いからちょっと不健全なことも含むお付き合いへと変化した後は──いや、まぁ、健全なお付き合い中でも多少は、うん、色々とあったけども──お泊りだって増えたし、いつだって義勇さんはできるかぎり俺を優先してくれてた。

 そんな義勇さんが、漫画だったら背後にどんよりと縦線なんか背負ってそうな状態になっていったのは、著作の映画化が決定してからだ。

 メディアへの露出や初めての人との対面をたいそう嫌う、真滝勇兎先生こと義勇さんだけれども、著作の映画化が決まったともなればそれなりに、人と会わずにはいられなくなったらしい。映画のスタッフやら出演の俳優さんたちをはじめ、配給会社の広報さんやら権利関係のために出版社が依頼してくれた弁護士さんやらなんやら、毎日のように様々な人と会う羽目になったという。
 契約契約、また契約で、何十枚という書類を読んではサインし捺印しての繰り返しに、神経がすり減らされたと、義勇さんはかなりお疲れモードだ。久々に家を訪ねた俺を出迎えてくれた義勇さんは、どこかやつれて見えた。
 まぁ、そんな状態でさえ、麗しのご尊顔はちっとも損なわれていないのが、さすがだけれども。
 俺だってきっと、義勇さんの顔を見た瞬間、見えない尻尾がブンブンと千切れそうなぐらい振られてたと思う。
 映画化自体は本当に喜ばしいし、元々真滝勇兎先生の作品の大ファンだった俺としては、大興奮でお祝いしたし、全面的に応援態勢だった。けれども……まさか、こんなにも逢えない日が続くようになるなんて思わないじゃないか。
 映画関連で義勇さんのスケジュールが埋まっていくなか、それでも締め切りが待ってくれるわけもなく。次の連載作品はかなり取材が必要だとかで、そちらのほうでもあちらこちらを飛びまわることとなった義勇さんは、家を空ける日が続いていた。
 それに加えて俺のほうも、要領が悪いとでも言えばいいのかいろいろと忙しく、店の手伝いすらできない日が続いたのが、敗因の一つ目。
 二つ目はと言えば、義勇さんの嫉妬深さを読み違えていたこと。正しくは、俺不足で余裕のなくなった義勇さんの、寛大さのキャパシティは意外に小さいということに気づかなかったこと、だろうか。

 だからまぁ、ようは順番を間違えたのだ。

 まずは義勇さんの表に出さない不満を解消してあげて、その後でお伺いを立てるべき案件だった。
 とはいえ、俺にだって多少は言いたいこともある。
 義勇さん不足は俺だって同様だし、それでも仕事と俺とどっちが大事なんですかなんて、困らせるだけの一言はグッと飲み込んできたっていうのに。
 ようやく互いのスケジュールが合って、久々に逢えた本日。お泊りの準備も万端に、ウキウキと義勇さんのお家にお邪魔したのは、夜七時。
 お土産は義勇さんのお気に入りであるパンオショコラと、夕飯用のパーネ・トスカーノ。塩気がいっさいないこのパンは、スープのお供にしたりトッピングに凝ったりして食べるのに向いてる。
 本当だったら義勇さんの大好物である鮭大根を中心に、和食を作ってあげたいところではあったけど、二ヶ月も逢えずにいたからね。料理する時間だって惜しい。時短すべく家で作ってきた野菜たっぷりかつチキンもゴロゴロと入れたトマトスープが、今日の俺たちの夕飯になった。
 余りは冷凍してもらえばいいからと食べきれないぐらい作ってきたスープに、義勇さんは少し可笑しそうに笑ったけれど、いっぱい食べてくれて、美味しいって褒めてもくれた。

 なんて幸せなんだろう。こんなふうに二人で向き合ってご飯を食べて、食べながらだと話せない義勇さんに向かって色々と話しかけては、ときどきうなずいてくれるのに幸せを噛みしめる。

 そんな具合にほのぼのと過ごした夕飯の後、まったりとお茶を飲みながら、互いの今後のスケジュールについて話をしてるまでは良かった。無表情ながら義勇さんも上機嫌なのが丸わかりだったし。
 機嫌が一気に下降したのは、俺が来週の予定を話してから。
 サークルの先輩たちとの小旅行。伝えたときには、いつもと変わらぬように見えたのに、話しているうち、義勇さんの目はどんどん据わっていった。

 来週の土日も義勇さんは取材旅行が決まっていて、俺が先輩との約束を反故にしたところで義勇さんと過ごせるわけじゃない。
 ここのところずっと店で仕事する義勇さんを眺めることすらできなくて、俺だってストレスが溜まってた。いろいろと忙しくて疲れてもいるし、ちょっと気分転換して、義勇さん不足を紛らわそうとしただけのこと。

 なのに義勇さんときたら「駄目だ」の一言で先輩との小旅行を却下した。

 ほとんど幽霊部員になっているサークルだけれど、それでも何度かは泣きつかれ飲み会やらなんやらに駆り出される。先輩と知り合ったのも、そんな飲み会だった。
 二十歳を迎えたその日に義勇さんと一緒に呑んでから、義勇さんに俺と一緒でなければ酒を呑むのは禁止と命じられたせいで──理由はいまだに話してくれない。解せぬ──ずっとソフトドリンクばかりを口にしていた俺を気遣ってくれたその人は、三年生だけれども浪人した上に留年も三回目だと豪快に笑った。
 なんでも俳優の誰かにちょっと似てるとかで、格好いいとサークルの女の子たちにも人気らしい。そういうことにうとい俺にはピンとこなかったけど、多分それなりに格好いいんだろうなとは思う。
 義勇さんというとびきり男前かつ美人なんていう、奇跡の美貌を見慣れているものだから、俺の男性に対する審美眼はすこぶる基準が高いのだ。

 さて、そんな先輩が小旅行に行かないかと誘ってきたのは、今から一週間ほど前のこと。
 べつに遠出するわけじゃない。親戚の宿だから格安で泊まれるし近場だからと誘ってくれたので、温泉に一泊旅行に行くだけのこと。
 だというのに義勇さんは、「そういうわけで温泉行ってきますから、お土産買ってきますね」と言いきる前に「駄目だ」の一言で話をバッサリ切り捨てた。

 義勇さんが知らない相手だと、意外に過保護な義勇さんは心配だろうからと、ちゃんとサークルのみんなで撮った写真だって見せた。ほかにも何人か誘うと言っていたけど、女の子はメンツに入っていないし、妬かれるような要素はないはずだった。
 だって俺は義勇さんが初恋で義勇さんの恋人ではあるけれど、ゲイってわけじゃない。野郎ばかりで旅行に行ったって、なんの心配もいらないじゃないか。
 いや、もしも相手が女の子だとしても同じことだ。だって俺は小学校を卒業したころからずっと、義勇さんしか好きじゃない。たった一度逢っただけの義勇さんのことを、偶然再会するまで想い続けてきたんだし、義勇さんの恋人にしてもらってからはなおさらに、義勇さん一筋なんだから。
 なのに、問答無用で駄目の一言だ。
 義勇さんは、俺の一途な想いをいまだに信じてくれていないんだろうか。たしかに写真を見せたときに、俺の肩を抱く先輩を見て少し眉間に皺は寄っていたけれども。俺だって義勇さんが誰かに肩なんか抱かれた写真を見たら、きっと拗ねちゃうからそれはいい。
 嫉妬されるのは少し嬉しいからかまわないんだけど、疑われるのは心外だ。

 それからは、なんでどうしてと聞く俺と、駄目なものは駄目だで押し通す義勇さんの平行線。
 多分、互いに疲れていたのがいけなかった。二人ともお互いを補給しきってなかったのもまずかった。
 イライラはあっという間にふくれあがって、つい口をついたのは
「義勇さんはいつだってそうですよね。ちゃんと言葉にしてくれない。義勇さんはいろいろと経験豊富なんでしょうけど、俺は全部義勇さんが初めてなんです。ちゃんと言葉にしてくれなきゃ、わからないことだっていっぱいあるんですよっ」
 なんていう、可愛げのない言葉だった。

 うん、我ながらこれは駄目だろう。

 まず、旅行については明日の朝、たっぷりとお互いを補給しあった後にすべきだった。イライラが解消され切ってないうちに言うべきじゃなかった。
 それに、お付き合い前の義勇さんの行状について触れるのは、完全にアウト。
 義勇さんとお付き合いする前から、本人の口から乱れた性生活の片鱗は聞かされている。今さらそれについて責めるようなことを言うのは良くない。それぐらいは、恋愛経験が浅い俺にだってわかる。だから今までは、嫉妬を飲み込んでそれについてはなにも言わずにいた。今は俺だけだってことも、ちゃんと知ってるんだし。
 それに、義勇さんにとっても恋人としてのアレコレは、俺が初めてだと、教えてもらっている。俺のことを本当に大事に想ってくれてるんだと、何度も実感させられてきた月日のうえに成り立つ今だ。なのに、どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。
 後悔したって一度口をついてしまった言葉は取り消せなくて、一瞬傷ついた目をした義勇さんに、俺の顔からも血の気が引いていただろう。

 言葉が出なくてどうしようとうつむいた俺の腕を掴んで、義勇さんが立ち上がった。
 無言のまま引き上げるように立たされて、追い出されるのかと一瞬怯えたけれど、義勇さんに引き摺られるように連れて行かれたのは、玄関じゃなくて義勇さんの私室だった。

「ぎ、義勇さん……あの、俺」
「……ちゃんと言葉にしてほしいと、おまえが言ったんだからな」
 ベッドに放り出されて、背が震える。冷たい目で見降ろしながらの声にも、温度がない。
 いつもは不愛想であっても優しくて、瞳も声もどこか柔らかく甘いのに。こんなに冷たい瞳や声は、まだ付き合う前、俺を拒んでいたころの義勇さんみたいだ。
 もう二度と見ることはないと、思っていたかったのに。

「俺はこれでもかなり自分を抑えてきたんだ。おまえを怯えさせたくなかったから」
 義勇さんが乗り上げたと同時に、ベッドがギシリと軋んだ。抑えつけられてるわけじゃないのに、視線の冷たさに四肢の力を奪われて身動きすらできない。
 視線の冷たさはそのままに、義勇さんの目がうっすらと笑みを作った。
「おまえが望むなら、もう遠慮はしない。全部教えてやる……望みどおりにな」
 頬に触れる指は優しいのに、うっそりと笑う顔にいつもの甘さはなくて、ただ怖い。

 こんなの知らない。湧きあがる怯えに体がすくむ。

「そんなに震えるな。おまえが言葉にしろと言ったんだろう? 俺が今なにをしたいのか、おまえをどうしたいのか、ちゃんと教えてやろうとしてるのに」
 くくっと喉の奥で笑う義勇さんは、なんだか楽しそうだ。
 唇をおののかせることしかできない俺の耳元に、顔をゆっくり近づけて、義勇さんは静かに囁いた。

「あぁ、ちゃんとお前にもわかるように、言葉にしなきゃいけないんだったな……今からお前を、ブチ犯す」