淡々日常、綿々恋情~胡蝶しのぶのカルテ~

※OTHER『800文字で恋をする』に掲載した話のロングバージョンです。

 きよたちがいつも磨いてくれているから、診察室の窓は曇りひとつなくピカピカとして、表がよく見える。庭の木々は赤く色づき、働き者な三人娘が落ち葉掃きに精を出しているのが見えた。
 いい日和だ。庭ではためく敷布はどこまでも白く、遠く小鳥のさえずりが聞こえる。
 鬼の出ない昼日中。多忙を極める毎日で、束の間、のどかな光景に心安らげたのならよかったのだけれど。

 なんで私がこんなことを言わなきゃいけないんでしょうね……解せぬ。

 愚痴のひとつも吐きたいけれど、そういうわけにもいかない。思わずこぼしかけたため息を飲みこんで、しのぶは、並んで椅子に腰かける愚痴のもととなった二人組を笑顔で見やった。
 神妙な面持ちでこちらを見ているふたり――水の呼吸の兄弟弟子、冨岡義勇と竈門炭治郎に、真っ先に思い浮かんだ言葉は「近い」だった。
 いえ、別にいいんですよ? 仲がいいのはいいことです。でも、近い。なんで肩が触れあうほどくっついて座ってるんでしょうね、この人たちは。置いていた椅子の間隔は、そんなに狭くはなかったはずですけど?
 このところの問診で、隊士たちの悩みの大半が同様なものばかりなのもうなずける。悩みというよりも、もはや苦情だけれども。嘆願書を携えてお館様に陳情に行かれる前に手を打たねばと、悩みのもとを呼び出したものの、しのぶまで眩暈がしそうだ。
 ともあれ、しのぶは己の役目を果たすべく表情を引き締め、目の前に座るふたりに言い渡した。

「イチャつく1イチャつくという言葉は江戸時代からすでに使われていますのを禁止します」

 診察室にしのぶの厳かな声がひびく。いつもの笑みはどこへやら、険しい顔をしたしのぶに一瞬緊張感を漂わせた義勇と炭治郎は、そろってぽかんと目を見開いた。
「イチャつく?」
「そんなことしてましたっけ?」
 顔を見あわせ首をかしげる。お神酒徳利。そんな言葉がしのぶの頭に浮かんだ。

 気があうのはなによりですけど、イチャついてる自覚がまったくないとは、そっちのほうが驚きですよ。というか、いっそ腹が立ちますね。

 だからこそ、こんなくだらないことを言わねばならなくなったのだ。この忙しいなか、こんなしょうもないことで時間を取られる身にもなってほしいものである。
 
「このところ問診での悩みの大半が、あなた方への苦情なんです」

 ますますきょとんとするふたりに、険しい顔を崩さぬまま、しのぶはカルテの山を手に取った。
 問診におとずれた隊士たちのカルテに書かれた悩みの原因は、おおむね同じだ。思い返せば前置きもみな同じ。

『仲がいいのはいいんですけど』

 そこから始まる悩み相談の、つづく内容や悩みから生じる体の不調はそれぞれ異なるが、締めの言葉はやっぱり同じだったりする。

『人前では控えてくれって、どうかあのふたりに言ってください!』

 あぁ、もう、頭が痛い。
 薬の開発と問診で、多忙を極めるしのぶは柱稽古を行ってはいない。隊士たちだって過酷な稽古の真っ最中で、よそ事に目を向ける暇などないはずなのに、毎日のように誰かしら同じ悩みで診察室へやってくる。
 もちろん、悩みがあれば解決に導く手助けをするのは、お館様から下されたしのぶの使命だ。話しを聞くのも助言するのも、しのぶの役目である。文句などない。だがしかし、悩みのもとがほぼ同じとなると、あきれもするし、いっそ腹立たしくなるのも道理だ。
 それでも、苛立ちをどうにかしのぶはこらえた。
 ふぅ、と小さく息を吐き心を静めると、ようやくいつもの笑みを浮かべてみせる。
「隊士には独り身が多いのはご存じですね?」
 そう切り出せば、虚を突かれたらしい義勇と炭治郎は、そろってパチリとまばたき同時にうなずいた。
 連れ合いを鬼に殺され鬼殺隊に入った者は多い。まだ若い隊士も明日をも知れぬ身だ。恋をする時間も精神的な余裕もないのだろう。諦めもあるかもしれない。悪鬼滅殺の想いは深く重く、隊士それぞれの心に刻み込まれている。ただひたすらに我武者羅に、過酷な道をひた進み、明日には散らすかもしれぬ命を捧げて生きるものばかりだ。
 さりとて人の心はままならぬもの。どれだけ一心に鬼殺の道を歩もうと、するりと心に入り込み、心揺らす想いもあろう。むしろ、そうでなければならないのだ。人でいたいのならば。
 だからまぁ、目の前のふたりが恋に身を焼いたところで、異議を唱えるつもりはない。ましてやしのぶは、義勇の背を押したようなものでもある。ふたりが恋を謳歌することに、否やはないのだ。
 どれだけ色惚けようと、鬼狩りには支障がないのも、わかっている。ふたりの大義と覚悟にはいささかのゆるみも怯みもないのは、しのぶや隊士たちだって重々承知しているのである。
 だがしかし、ものには限度があることも理解してもらいたい。

「仲が良いのは結構ですが、隊士たちからこんな報告を受けているんです」

『水柱様と竈門隊士が食事する場に居合わせてしまうと、高確率で『アーン』と食べさせあったり、顔についたご飯粒を取って食べたりするのを見るんです。胸やけがして食が進まなくなります。最近ではめっきり食欲不振で、体力も落ちるばかりで困ってるんです』

「まぁ、これは、子どもの世話と言えなくもないですしね。冨岡さんのお世話は大変でしょうし、しかたのない面もあります。炭治郎くんは冨岡さんを甘やかしすぎだとは思いますが、ええ、ここまではどうにか、辛うじて、許容範囲でしょう」

『事あるごとに見つめあって、ふたりの世界を作り出されるんです。結界でも張ってあるんじゃないかってぐらいに。ふたりが一緒にいるときに出くわしたが最後、周囲には近づくこともできないし、イライラが高じて最近不眠気味で』

「隠のみなさんや柱の用を言いつかった隊士にしてみれば、あなたがたの周囲を避けて動かなければならないぶん、作業効率が落ちるんです。時間もかかってイライラしてもしかたありませんね」

『みんなで談笑していたはずなんです。なのに、いつのまにか惚気を聞かされてて……いえ、竈門がいい奴なのはわかってます。厳しい稽古中、竈門の明るさにこっちも救われてるとこはあるんです。でも! 知りたくないんですよっ。水柱様が竈門に『おまえの赤く染まった頬は林檎のようだ、食べてしまいたい』だとか『あの星のきらめきも、炭治郎の瞳の愛らしい輝きには劣る』だの言うなんてことはっ! そんなの知りたくなかった! 水柱様になでられるとホワホワするとか、寝顔まできれいすぎて寝起きに見ると一瞬心の臓が止まりそうになるとか、そんなこと聞いちゃいないし知りたいとも思っちゃいないのにっ! 最近は竈門と話してると耳鳴りがしてくる始末なんですぅ』
『頼まれものをお届けに行っただけなんです。恋柱様のご実家からの差し入れの菓子をお届けしただけなんですよっ。前は『そうか』の一言で終わってたんです。素っ気なさ過ぎるぐらいでした。なのに、そういえばこのあいだ炭治郎がから始まって、長々と竈門の話をされまして……この菓子も炭治郎の唇の甘さには敵わないだろうなで終わりました。たぶん独り言だと思うんですけど……お話してるのに立ち去るわけにもいかないし、話長いし。あの人、あんなに長く喋れたんですね……ていうか、幻聴? やっぱり幻聴とか幻覚とかなんでしょうか。俺、どっかおかしいんでしょうかっ!』

 あぁ、もう、本当に頭が痛い。カルテを読み上げているだけで、深刻な頭痛に見舞われる。直接被害をこうむった隊士の嘆きもさもありなん。まったくもって気の毒だ。
「……はっきり言って、おふたりの行為は独り身の隊士たちにとって迷惑なんですよ、おわかりですか?」
 努めてにこやかに宣えば、肝心のふたりは、なにが悪いのかわからないとばかりに首をひねっている。

「結界って……そんなことしてましたっけ?」
「わからん。いつもと変わりないはずだが」
「みんなと話してるとき、そんなに義勇さんのことばかり話してるかなぁ」
「届け物を受けとったときに、立ち話をした気はするが……」
「あ、でも、義勇さんが俺のことお話してくれてるのは、うれしいです! ちょっと恥ずかしいですけど」
「俺だって恥ずかしい。寝顔のことなど、おまえだけが知っていればいいだろう?」

 おいコラ、そこの色惚けども、大概にしろ。言ったそばからイチャイチャするな。

 ついそんな言葉が口から出そうになる。
 はた迷惑なうえにまるきり無自覚な水の呼吸の兄弟弟子に、とうとうしのぶのこめかみに青筋が浮いた。
「とにかく! 人前では控えてください、いいですね!!」

 そんなやり取りから二週間。今日もいい天気だ。鬼も出ないし、薬の開発は順調に進んでいる。診察室の窓だっていつもと変わらずピカピカで、床には塵ひとつ落ちていない。清々しいくらいだ。
 庭からは今日も三人娘やアオイの明るい声が聞こえてくる。今日はカナヲも手伝っているのが見えた。のどかな光景である。正直混ざりたい。癒されたい。
 けれども、役目は果たさねばならないのだ。柱として、お館様に隊士たちの健康を任された者として、使命をまっとうしないわけにはいかない。

 現実逃避してばかりもいられませんね。嫌ですけど。本当に、本気で、心っ底、嫌ですけども!

 窓から見える癒しの光景からどうにか視線を引きはがし、しのぶは、呼び出したふたりに向かって笑みを浮かべてみせた。
 今日も今日とて距離が近い兄弟弟子が、そろってビクリと身をすくませる。
「しのぶさん、なにか怒ってませんか?」
「……背に般若が見えた」
 コソコソと耳打ちしあっているが、筒抜けである。それが余計にしのぶの怒りに燃料を与えていることになど、ふたりはさっぱり気がついちゃいないだろう。
 ピキリとこめかみに青筋が浮いたのはわかったけれども、もはや隠す気もなく、しのぶは笑みだけはそのままに言い放った。
「イチャつくのは禁止と言いましたよね?」
「はい! だから会話も人前では控えました!」
 あわてて答える炭治郎につづき、義勇もこくこくとうなずいている。言いつけを守ろうとはしたらしい。それは結構だが、ならばなぜ、机に置かれたカルテの山は減らないのか。
「それは聞いてます。きちんと守っていただけたようでなによりです。ですが……会話が減った代わりに、突然変な仕草をしだすと聞きましたが?」
 ちょっぴり嫌味が交じったのはご愛敬だ。これぐらいは許されるはず。だって、まったく苦情が減っていないのだから。
「変? えっと、話せない代わりに、秘密の合図を送りあってましたけど」
 首をひねる炭治郎に、しのぶも小首をかしげた。
「合図、ですか?」
「はい! 義勇さんと外でお話できないのは寂しいので、みんなにバレないように合図で言いたいことを伝えることにしたんです。いっぱい考えたんですよねっ、義勇さん」
「指で頬に触れたら、取り込み中また後で。耳なら今日は鮭大根にしてほしい」
「髪に触ったら手を繋ぎたいで、口に触ったときは、家に帰ったらせっぷ」
「もう結構です!」

 あぁ、頭痛を通り越して眩暈がする。止めなかったら、一体なにを言い出す気だったんだろう。わかるけれども、わかりたくない。
「私が馬鹿だったんです、ええ、本当に馬鹿でした。色惚けた人たちに話が通じるわけないのに……というか、秘密もなにもバレバレですよ! とくに口! 合図した途端に炭治郎くんが真っ赤になったり冨岡さんがソワソワしだしたあげくに炭治郎くんを早業で連れ去ってくもんだから妄想をかきたてられるぶん悪化したって苦情がどれだけきてると思ってるんですか馬鹿なんですかそういうことは家でやってください!」

「……あの、息継ぎしないで苦しくないですか?」

 ぜぇはぁと肩で息したしのぶは、心配をあらわにたずねられ、スッと表情を消した。もはや青筋すら浮かばない。むなしい。心の底からむなしい。
 義勇ばりに虚無をたたえたしのぶに、義勇と炭治郎が、混じりけなしの気遣う視線を送ってくる。それがまた不毛さを増長させる。あぁ、もう、本当に馬鹿らしい。
「もういいです。あなたたちをどうこうするより、皆さんの精神力を鍛えるしかないのは、よくわかりました。帰って結構ですよ」
「え、でも」
「お、か、え、り、く、だ、さ、いっ!!」
 ビシリと戸を指差し笑って言えば、ふたりの顔に浮かぶのは怯えの色だ。
「ぎ、義勇さん、閻魔様が見えます」
「……うん。俺にも見える」
 やっぱり筒抜けな耳打ちに、んー? と首をかしげてみせれば、あわてて立ちあがるはた迷惑な恋人たち。
 そそくさとふたりが退散した診察室。あとに残されたのは、たとえようもない疲労感ばかり。
 閉められたドアを見やることなく、しのぶは、窓の外へと視線を向けた。
 午後の陽射しが眩しい。空は青く澄み渡っていた。
 キャッキャウフフと女の子たちの明るい笑い声がする。ピチチとさえずる小鳥の声も爽やかにやさしい秋の日和。診察室の外は、あんなにものどかで穏やかな癒しにあふれているというのに。しのぶが背負うのは、閻魔様。

 なれるものなら本当に閻魔大王にだろうとなりたいですよ。ええ、もう、本当に。

 だがしのぶは、いかに人外扱いされる柱だろうと、人でしかない。悲愴なまでの覚悟を背負い鬼狩りの道を邁進しても、疲れもすれば癒しを求めもする、人だ。地獄の裁きを下し罰を当てることなどできやしない。

「……無惨を倒す薬よりも、色惚けにつける薬を作るほうが難しい気がする」

 恋の病も重篤すぎると、周りの者まで深刻な痛手を負うとは。むしろ被害の甚大さは周囲にばかりもたらされている。
 閻魔様でもきっと、解決法はご存じない。