くちゅんっ。
「ん?」
なんだか懐かしいような音が聞こえて、つい辺りを見まわした。六太のくしゃみみたいな音。小さい子が迷い込んだんだったら大変だ。
なにしろ今は柱稽古の真っ最中。竹林は立ち入り禁止にされてるけど、小さい子が知らずに入ってきちゃうこともありそうだ。なにしろ千年竹林は広いから。
竹林には罠が張り巡らされてる。子どもがうっかりかかったら大変だ。義勇さんを見つけるより先に、子どもを見つけるほうが先決だろう。
あわてて辺りを探してみたけど、小さい子どころか猫の子一匹見つけられなかった。
「あれ? 気のせいだったのかな」
首をひねったら、いきなりストンと目の前に義勇さんが降り立った。しまった。とっさに木刀をかまえる。ところが義勇さんはすぐに背中を向けて歩き出した。
「……休憩にする」
「え? あ、はい!」
ビ、ビックリした……。狭霧山でなら木の上にも注意を払ってたろうけど、まさか竹の上にいたとは。枝がひしめき合う木々と違って、竹じゃ登るのも大変なのに、やっぱりすごいなぁ。
感心してる場合じゃないけど、さっさと先を行く義勇さんの背中を見つめながら、やっぱりすごいと舌を巻いてしまう。こんな調子じゃ、義勇さんの稽古に合格できるのはいつになるやら。よそ事に気を取られてるようじゃ駄目だ。
思わずため息をつきそうになる。でもへこたれてなんかいられない。
急いで駆けだして義勇さんの背を追った。
義勇さんの柱稽古は、いうなれば過酷すぎる鬼ごっこ。見つけるのも大変な義勇さんを追いかけて、張り巡らされた罠をかいくぐりつつ突然襲ってくる攻撃を避けなきゃいけない。もちろん、こっちも反撃する。だけど義勇さんにはまったく届きやしない。
合格基準は、義勇さんに一撃与えること。先は遠い。
「あの、義勇さん。子どもを見かけませんでしたか? えっと、たぶん三、四歳ぐらいの小っちゃい子だと思うんですけど」
どうにか追いついて義勇さんに聞いてみた。
気のせいだったのかもしれないけど、やっぱり気になる。だって本当に子どもがいたなら、危ないことこの上ない。
「……隊士以外には入れない」
義勇さんは振り返りもせずそっけなく言った。足を止めてくれる様子もない。
「ですよねぇ。でも、子どものくしゃみが聞えた気がしたんです」
うーん、やっぱり勘違いか。思った瞬間。
くちゅっ。
沈黙が落ちた。ザザザと波の音みたいな葉擦れだけがひびく。思わず立ち止まっちゃったけども、義勇さんも足を止めて硬直してた。
「……えっと」
聞えたのはなんだかやけに愛らしいくしゃみ。今度ははっきりと。もちろん、俺じゃない。
目の前にいるのは、義勇さんただひとり。
「……笑っていい」
「いや、笑いませんよっ! かわいいくしゃみだなぁとは思いますけど!」
まさか義勇さんがこんなかわいいくしゃみするなんて思わなかったから、つい驚いちゃったけど、笑うなんてとんでもない。
背中を向けたままぶっきらぼうに言う義勇さんに、怒ってるのかと思ってあわてて前に回り込んで言ったら、ふわりと恥ずかしがってる匂いがした。
しかも。
義勇さんはいつもの無表情。でも、ちょっぴり眉尻が下がって、目尻が赤い。
なんか。なんか、こう……いや、こんなこと言ったらきっと義勇さんはもっと恥ずかしがっちゃうだろうけど、でもでも、なんか、もう。
「……かわいいっ!」
「おまえ、やっぱり馬鹿にしてるだろ」
「ちょっ、駄目です義勇さん! そこでそんな拗ねた顔したら反則です! かわいいがすぎる!」
馬鹿にする? とんでもない。だってこんなかわいらしい義勇さんなんて、見たことがない。感動すらしてるのに、なんで馬鹿にしなきゃいけないんだ。
真剣に言ったら、義勇さんはこれまた珍しくポカンとした顔をした。
目尻の赤味が増して、視線がバツ悪そうにそらされる。照れてる、のかな。どうしよう。俺の兄弟子がめちゃくちゃかわいい。
「錆兎には、子どもみたいなくしゃみだって笑われた」
声も、いつものぶっきらぼうで愛想のかけらもない声なのに、拗ねたひびきがする。それこそ、六太が恥ずかしがってふてくされてるときみたいな声だ。
なんだか、胸の奥から色んな感情がこみ上げてくる。
懐かしさ、愛おしさ、ちょっとだけ、切なさも。泣きたいような笑いたいような、温かな気持ちがあふれてくる。
「笑いませんよ。錆兎だってきっと馬鹿にして言ったんじゃないと思います」
微笑んで言ったら、義勇さんがようやく俺の顔を見た。
視線が合う。義勇さんの目尻はまだ赤い。きれいな顔。瑠璃の瞳は吸い込まれそうに澄んで青い。
「……気にすることないと、言われた」
「でしょうっ? 義勇さんのことを錆兎が馬鹿にするわけないです!」
義勇さんの思い出話のなかの錆兎は、義勇さんのことが本当に大好きだったのがわかるし、義勇さんも錆兎が大好きだったのが、俺にもわかる。狭霧山で逢った錆兎は男らしくって強くて、人を馬鹿にするような人じゃないと、俺だって知ってる。
なぜだか、胸の奥がチクリと痛んだ。
義勇さんが錆兎の思い出を語ると、幸せな気持ちがするのにたまにこんなふうに胸が痛む。理由はわからない。錆兎の話をする義勇さんの瞳があんまりやさしくて、切ないような気持ちになるからかもしれない。
「おまえもか?」
「当たり前です! 義勇さんを馬鹿にするなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないです! だって」
だって? だって、の、つづきは?
とっさに飲み込んだ言葉が、喉の奥に貼りついて、ちょっと息苦しい。
だって、誰よりも大好きだから。
別に、恥ずかしい言葉じゃないはずだ。嘘でもない。なのに、なぜだか言えなかった。
禰豆子にも、竹雄たちにも、善逸や伊之助にだって、躊躇なく言える言葉だ。大好き。口にするたび心がホワホワあったかくなる言葉。
義勇さんのことだって、大好きだ。うん。疑いようもなく言いきれる。
なのに、なんでだろう。禰豆子たちへの大好きと、義勇さんへの大好きは、なんだか違う気がした。
黙り込んだ俺の頬を、チョンっと義勇さんの指がつついた。
「ぎ、義勇さん?」
「真っ赤だ」
クスリと、義勇さんが笑った。
いたずらっ子みたいなムフフって笑い方じゃなくて、ふわっと花が咲くような、穏やかでやわらかな……きれいな、きれいな、微笑み。
突然、その笑みが消えて義勇さんはギョッと目を見開いた。
白い手がそっと持ち上がるのを、言葉もなく見てた。また頬に触れてきた指先は、さっきみたいにちょっとつついて離れるんじゃなく、そっと頬を撫でてくる。
「なぜ、泣く?」
「え? あ、ホントだっ。え? なんで?」
言われて初めて自分が泣いてることに気がついた。涙を拭ってくれたんだっていうことにも。
自分でも理由がわからずに涙がこぼれるなんて、初めてだ。悲しいことも、つらいことも、なにひとつなかったのに。
むしろ。
そう、むしろ、幸せで……そうだ、どうしようもなく、心が高ぶって、幸せに胸が詰まったから。
あわてる俺に、義勇さんは今度は明らかに苦笑と分かる笑みを浮かべた。母さんが、いたずらした茂にしょうがないわねぇって笑ったときみたいな、やさしいやさしい顔。
「自分のことなのにわからないのか」
「すみません」
「謝ることはない。おあいこだ」
「おあいこ?」
ちょっと首をかしげたら、義勇さんはムフフといたずらっ子みたいに笑って、唇の前で人差し指を立てた。
「俺のくしゃみとおまえが泣いたのは、内緒だ」
内緒って言い方と、その仕草や笑い顔は、なんだかやけに子どもっぽい。また胸が詰まるような感じがして、でも飛び跳ねたくなるようなうれしさもある。
「はい! ふたりだけの内緒、ですね!」
俺もシーっと指を立てて笑う。涙は止まってた。
義勇さんと俺だけの内緒。ふたりだけの秘密。義勇さんの小っちゃい子どもみたいなくしゃみも、きれいな笑顔も、やさしい苦笑も、全部、俺だけ知ってるならいいのにと、なぜだかそんなことを思った。
ひとり占めしたい。
そんなことを思った人は、今まで誰もいなかった。義勇さんにだけだ。
大好きには、もしかしたらいっぱい意味があるのかもしれない。禰豆子たちへの大好きと、義勇さんへの大好き。同じようで違うその意味を、ちゃんと知りたい。
そうしたら、もっと、もっと、内緒が増えるのかな。もっと、もっと、俺だけが知ってる義勇さんが増えるんなら、うれしい。
「行くぞ」
「はい! あ、今夜はなにが食べたいですか?」
「鮭大根」
「えー、昨日もじゃないですか」
竹林には波音に似た葉擦れがひびいて、陽射しが差してる。口にするのは物騒さなんてかけらもない、他愛ない会話。サクサクと下ばえを踏みしめて、ふたりで歩く。肩を並べて。
鬼が出ない今だけの、ほかの隊士たちが追いつかない今だけの、ふたりだけの時間。
それがこんなにうれしくて、幸せだなんて、口にするのはなんだか不謹慎な気がするし、なによりちょっと恥ずかしい。
だけど、いつか伝えてみようか。義勇さんにだけ。内緒話をするように。
そうしたら、義勇さんは、大好きの答えをくれるかな。そうだったらいい。義勇さんが教えてくれるなら、きっと間違いないに決まってるんだから。