導く光はいつでもあなた

※ブログ及びpixiv『義炭バラエティパック1』に掲載した『迷宮の出口はきっとあなたの光なのでしょう』を改題、加筆した、ロングバージョンです。原作軸。

 失敗したなぁ。そんな言葉を思い浮かべるのは、もう何度目だろう。
 視界に入るのは名も知らぬ雑草ばかり。ただし、炭治郎の背丈よりもはるかに高くそびえている。月明かりすら葉に隠され望みがたい。
 鬱蒼なんて言葉ではおさまらないほど密集した緑は、炭治郎の行く手を阻む。つい先ほどまでなら踏みしめ歩けたはずの下草は、今や緑の檻だ。野ネズミよりも小さい体では、なかなか前に進めない。いつもならばあることにすら気づかぬ小さな石ころでさえ、今の炭治郎にとっては大きな岩に近い。
「失敗したなぁ」
 また浮かんだ言葉は、今度はつい声になって炭治郎の口からこぼれ出た。

 事の起こりは単純だ。鬼の噂あり調査に向かえとの任務に、やってきたのはとある森。柱稽古の真っただ中で、任務に行ける隊士は限られている。最終稽古まで進んだ炭治郎が任を受けたのは、当然の成り行きだっただろう。水柱の稽古を受けるようになってから、こういった任務はときおりあった。
 大概はただの噂で終わるのだが、今回は本当に鬼がいた。ただそれだけの話である。
 よほど臆病なのか、はたまた姿を隠すのが巧妙すぎるのか。鬼の気配はするのに居場所はなかなか見つからず、周囲を探ること小一時間。それでも満月の輝く空は常より明るく、視界は利く。連れ立って探索するより二手に別れようと、同行者と離れた矢先の出来事だ。

「うわっ!! な、なんだこれっ!?」

 木立の上にいるのかもと、頭上を仰ぎ見ていた炭治郎は、突然の衝撃に叫び声を上げた。
 唐突に体が縮みだし、刀を構え直す暇さえなく、炭治郎はあっという間に下草のなかに紛れていた。
 呆然と辺りを見回した炭治郎は、それでもすぐに自分の体を検分した。衣服も刀も、炭治郎の体とともに小さくなっている。有り難いけど、反面、厄介でもあるなと炭治郎は眉を寄せた。
 身につけていたものが落ちていれば、同行者にも見つけてもらいやすい。けれどもこの状態では、どこで血鬼術にかかったのかすら判断はつかないだろう。
 戦闘においては厄介な血鬼術だけれど、あの鬼は、こんな小さくなった人を食べて満足できるんだろうか。鬼自身にとってはさして役に立たない術なんじゃないのかな。そんな呑気なことを考えて、首をひねっている場合ではないだろうけれども、炭治郎はあまり悲観的にはならなかった。
 なにせ、一緒にいた人が人だ。鬼殺隊の誇る柱の一人、水柱である義勇とともにおもむいた任務である。義勇なら、そう時間をかけることなく鬼を斬り伏せることだろうから、苦境もそこでおしまいだ。
 とはいえ、今や凌雲閣よりもはるか高く見える雑草のなかで、闇にのまれてポツリと立っているのは、なんとも心許ない。自分だけのうのうとなにもせずにいるのもいたたまれないしと、とにかく炭治郎は、雑草のなかから抜け出るべく足を進めた。
 脳裏に思い浮かぶのは、義勇の顔ばかりだ。

 静かな気配のその人に、心揺らされるようになったのは、いつからだろう。気がつけば、義勇が少し反応を返してくれるたび、飛び上がりたくなったり泣きそうになったり、心が浮き沈みするようになっていた。
 理由は炭治郎にもよくわからない。
 人と関わることを避けていた義勇が、自分には胸襟を開いてくれているらしいのが、単純にうれしかったからだろうか。けれども、そればかりではない気もする。
 義勇はきれいだ。顔の美醜にこだわったことなどない炭治郎の目にも、義勇の整った顔立ちは心騒がせるものだった。
 秀麗な顔はもちろんのこと、群青色した瞳が、なによりも美しい。見つめられると、知らずドキドキと炭治郎の胸は高鳴り、ずっと見つめ返していたいような、瞳をそらしてしまいたいような、不思議に甘やかな心持ちになる。そういうことは度々あった。
 もちろん、ほかの人に見つめられたときにも、照れてしまうことはある。けれど、義勇にだけなのだ。吸い込まれそうだなどと思うのは。もっと自分を見つめてほしいと、願ってしまうのも、義勇にだけ。
 その理由は、わからない。こんな経験は初めてで、炭治郎には自分の真意が見えない。
 まるで迷宮のなかにいるようだ。出口がさっぱりわからない。このところずっと、炭治郎は自分の心を持てあましている。

「叫んじゃったとき、義勇さんの声がしたよな。心配してるかなぁ」
 ぽつりと言ったら、胸がキュウッと痛んだ。
 きっと義勇は今、炭治郎の安否を心配してくれているに違いない。冷静な人だから、戦闘中に気を散らすことはないだろうが。
「……あきれられてるかも」
 せっかくやる気を出して稽古をつけてくれるようになったのにと、炭治郎は嘆息した。このありさまじゃ、不甲斐ない、稽古のつけ甲斐がないと、立腹しているかもしれない。
 無口で感情を表に出さない義勇は、わかりにくいが、実はとてもやさしい人だ。むやみやたらに怒ることはないと思うけれども、口に出したら不安になった。
「急がなくちゃ」
 どうにかこの草のなかから抜け出して、早く義勇を見つけなければ。暗闇にも近い緑の檻のごとき下草の合間を、炭治郎は駆けた。

 いくらも行かぬうちに、目に入ったのは大きな穴である。おそらく野ネズミかモグラの巣なのだろう。落ちたら大変と脇を通り抜けようとした炭治郎が、コロリと転がり落ちたのは不可抗力だ。人の身なら、ちょっと身をすくめてやり過ごせる突風も、こんなに小さくなっては竜巻と大差ないのだから。
 ともあれコロコロと穴を転がり落ちた炭治郎が、ようやく止まったのは穴の底であるらしい。どれぐらい落ちてきたものか、わずかな月明りはかなり遠くに見える。よじ登ろうとしても土はポロポロと崩れてしまって、どうにも登れそうにない。
「まいったなぁ。どうやって出よう」
 困り果てていると、穴の入り口に影が差し、闇が深まった。
 え? と見あげれば、光をさえぎっているのは外に出ていた巣の主のようだ。目を凝らし見た姿は、ネズミであるらしい。炭治郎が知るネズミとは、比べものにならないほど巨大ではあるが。
 ネズミも大きいとちょっと怖いな。思っていれば、キィー! と威嚇の声が頭上からひびいた。
「ちょっ、ちょっと待って! なにもしない! すぐ出るから!」
 闖入者に怒っているのか、今の炭治郎からすれば熊ほどにも大きいネズミが、こちらに向かって歯をむき出して迫ってくる。あわてて言ったところで、ネズミに言葉など通じるわけもない。
 鬼ならば迎え撃つまでだが、相手はただのネズミである。炭治郎は逡巡した。刀はある。けれどもネズミに罪はない。しかも悪いのは巣に入り込んだ自分のほうだ。罪のない生き物を傷つけるわけにもいかないではないか。
 やり過ごすよりほかないが、傍らをすり抜けようにも、隙間なんてほとんどない。
「あぁもうっ! ごめんってばぁ!」
 叫んで炭治郎は、闇が続く穴の奥へと逃げるしかなかった。

 いったいどれぐらい走っただろう。横道だらけのネズミの巣穴は、ネズミから逃げおおせるには役立ったけれども、今度は出口がわからない。右も左も暗闇で、土の匂いが強すぎて匂いをたどることも難しそうだ。
「まいったなぁ」
 これじゃ義勇さんにあわせる顔がないと、トホホとうつむいた炭治郎の耳に届いたのは、まさに義勇その人の声だった。
「炭治郎! どこだっ!」
 いつもはささやくように小さな声なのに、轟かんばかりの大音声だ。炭治郎が小さくなってしまったせいでもあるだろうが、そればかりでもないだろう。
 心配させている。炭治郎の胸に焦りと申しわけなさがわく。けれども、そのなかには浮き立つような歓喜もあった。
 常に冷静な兄弟子が、必死に自分を案じてくれている。なぜだかそれが無性にうれしい。
「ここです!」
 大きく声を張り上げながら、義勇の声がするほうへ炭治郎は走った。

 早く、早く、あなたの顔が見たい。安心させたい。油断するからだと叱られたってかまわない。あなたに逢いたい。

 闇の中でも、義勇の声は空に輝く北極様のように、炭治郎を導いてくれる。迷わず走れば、小さな光が見えてきた。月明かりだ。穴の出口が近い。
「義勇さんっ!」
 さらに大きく呼びかけたところで、はたと気づいたそれに、炭治郎の顔からサッと血の気が引いた。

 義勇が探しているということは、鬼は倒したということだろう。と、いうことは。

 どうしようっ! とあわてる間もなく、炭治郎の体が一瞬にしてグンッと大きくなった。
「うわっ!」
「っ!?」
 地面から突然生まれ出たかのような状態となった炭治郎が、土まみれの頭をブルリと震わせ目を開けば、義勇が呆然と見上げていた。
 どうやら足元から唐突に炭治郎が出現したものだから、体勢を崩したらしい。尻もちをつくなど、珍しいこともあるものだ。だが、微笑ましく思っているような場合ではない。
「ご、ごめんなさい、義勇さん!」
 あわてふためいて義勇に手を差し伸べれば、小さなため息が聞こえた。あきれと安堵をない交ぜたそれに、炭治郎は思わず首をすくめた。
 あきれられた? 怒ってる? 不安につい目をギュッと閉じたら、炭治郎の手が温もりに包まれた。そろりと目を開ければ、小さく笑う義勇が炭治郎の手を握っている。
 初めて上から覗き見た義勇の顔は、義勇が立ちあがったことで、すぐにいつものように見上げる位置におさまった。
 残念だと、なぜだか少し思う。理由はやっぱりわからない。ネズミの巣穴という迷宮からは出られたけれど、心の迷宮の出口は、まだ見えない。
「なんともないか」
「あ、はい」
 言いながら体中についた土を払ってくれる様を見ると、義勇は怒ってはいないようだ。安堵に炭治郎の肩から力が抜けた。
 やわらかな笑みを見ていると、なんだかドキドキと鼓動が速まってしかたがない。離された手に寂しいと思う。心配させたというのに、身勝手だろうと自分を恥じても、鼓動は治まりそうになかった。
 不思議に甘く胸打つ鼓動。勝手に熱を持つ頬。そらしたいのに吸い込まれてそらせぬ視線。握られた手に残る温もりが、消えていくのが少し寂しい。
 それらの理由を炭治郎はまだ知らない。義勇が自分を案じてくれることに、喜びを感じるわけも、義勇の笑みに胸がキュウッと締めつけられるのも。
 理由はまだ、炭治郎の心のなか、迷路の奥底に隠されている。
「報告はした。行くぞ」
「あ、はい!」
 先を歩きだす義勇の背を、あわてて追う。
「……夜明け」
 赤い陽が、義勇の背を浮かび上がらせた。まぶしさに立ち止まったら、義勇が不意に振り向いた。
 伸ばされた手。無言のまま。義勇の顔は、陰になってよく見えない。
「……帰ろう」
 静かな声に、泣きだしそうなほど、うれしくなった。
「はいっ!!」
 差し伸べられた手をつかもうとして、はたと気づいた土汚れに、急いで羽織で手を拭う。炭治郎の仕草に、義勇が小さく笑った。
「今更だろう」
「そうですね」
 手はまだ差し出されている。だから炭治郎は、義勇の手を迷わず取った。キュッと握られた手の力に、息がつまる。理由はまだ、わからない。
 笑う義勇を仰ぎ見る。朝焼けに照らされる顔は、やっぱりきれいだ。群青色の瞳がやさしい。

 北極様みたい。

 道を示す不動の星を、炭治郎は思い浮かべる。
 導きは、いつも義勇が与えてくれた。絶望の底で与えられた、小さく、けれども強い光。迷うことなく突き進めたのは、あなたの光があったから。
 迷宮のような心に隠れた答えは、まだ出ない。けれどいつか、知るのだろう。甘い胸のときめきや、切ない痛みの理由を。
 きっと義勇が教えてくれる。隠された答えに導いてくれるから。
 今は手の温もりに胸を締めつけられながら、夜明けの道を、ふたり歩く。