彼の日、来し方、行く末は

 冨岡義勇が竈門炭治郎と共に血鬼術の被害に遭った。
 その報を聞いた柱たちの反応は様々だった。呆れたり、だからどうしたと嘯いたりする者もいたけれど、それでも多かれ少なかれ二人の安否に不安を覚えたのは確かだ。
 だから二人が保護されている蝶屋敷へとそれぞれ足を運んだし、不死川実弥も同様だった。今後の戦力への懸念が主であれども、案じる気持ちに変わりはない。

 そう、心配したのだ。不死川なりに。なのにいったいなんなのだ、目の前のこの光景は。

「おい……こりゃあ、いったいどういうこったァ」
「どういうもこういうも、見たままだ。冨岡と竈門が子供になった」
 イライラと訊いた不死川に答えた伊黒の声もまた、苛立ちが滲んでいる。とはいえ、苛立ちの理由はといえば、不死川とは異なるのは明白だ。
 目の前にいるのは、十歳前後ほどの少年と三歳ぐらいの幼児。その幼子たちに、甘露寺が目一杯相好を崩しているのを見て、不死川は少々呆れ気味に溜息をついた。
 伊黒が甘露寺に片恋していることは、甘露寺以外の者にとっては共通認識だけれども、あんな子供にも妬くのかと思えば溜息もつきたくなる。
 少年の腕に抱えられて、甘露寺に頬をつつかれてはキャッキャと楽しげな声を上げる幼児は、どう見ても炭治郎だ。見慣れた目立つ耳飾りはないが、顔立ちは炭治郎をそのまま小さくしたようなものなので、呆れや腹立ちはともあれすんなりと信じられる。
 だがしかし、炭治郎をいかにも一所懸命と言わんばかりに幼い腕に抱きかかえている男の子、あれは誰だ。
 甘露寺や蝶屋敷の娘たちに囲まれて、恥ずかしそうに戸惑う様子を見せながらも、腕のなかの赤子にニコニコと笑い返している、長い黒髪に青い瞳の男の子。

「……冨岡?」

 あれが? 無表情で不愛想、口を開けば不死川を苛つかせる、あの冨岡が、あれだと?

 有り得ないだろと目をむいた不死川が洩らした一言に、呼ばれたと思ったものか、義勇らしき男の子が不死川へと視線を向けた。
 パチリとまたたいた目が幼い。時を置かず、痛いのを我慢してでもいるかのような顔になった理由はわからないが、その表情は、見ているとなんだか胸の奥がもやっとする。
「ぎゆしゃん?」
 舌っ足らずな声とともに義勇の視線の先を辿った炭治郎の大きな目が、不死川を捉え、こちらもまた痛みを堪えるように潤んだ。

 本当に、いったいなんだというのだ。

 胸の奥のもやもやも相まって思わず二人を睨みつけた不死川に、義勇はびくりと肩を縮こまらせたものの、視線をそらそうとはしない。炭治郎も同様だ。
 そんな義勇たちの様子に気づいた甘露寺や蝶屋敷の娘たちが、不死川を咎める視線を送ってくるのがまた、不死川の苛立ちをいや増した。
「ぎゆしゃん……」
「うん」
 小さな呼びかけにようやく義勇の瞳が炭治郎に向けられたが、うなずきあった二人はまた不死川を見つめ、あろうことか近づいてきさえする。
 大人げないとは思いつつも、不死川はなにか文句でもあるのかと身構えた。剣呑な不死川の表情に、義勇の薄い肩がまたビクリと震える。だが、いかにも及び腰ながらも、見上げる視線はそらされることがない。
 言いたいことがあるならさっさと言えと、短気な舌打ちがこぼれる前に、義勇が口を開いた。

「あの……大丈夫ですか? 怪我、痛くないですか?」
「はァ!?」

 素で驚いた。牽制や威嚇の響きすらない声が出るくらいには。
 だって、まさかあの冨岡義勇がそんなことを言い出すなんて、思うわけがないではないか。
 いや、たしかに今の義勇はまだ幼い子供で、やることなすこと人を苛立たせる水柱と同じに考えてはいけないのかもしれないけれど。不死川のことを知らない様子であるからには、おそらく記憶も年齢相応に戻っているのだろう。だから今の言葉を、いけ好かない水柱の揶揄いや嫌味ではないのかと、疑ってはいけないのだろうけれども。

 性格が変わりすぎてやしないか? 本当にこれがあの冨岡か!?

 困惑する不死川になにを思ったのか、義勇だけでなく炭治郎も大きな目をうるうると涙ぐませ、
「たい? にぃちゃ、たいの? たいのたいのとんでけ、しゅる?」と訊いてくる。

 あ、駄目なやつだ、これ。

 一瞬、眩暈すら感じて、不死川は知らず天を仰ぎそうになった。
 ちらりと視線をやれば、見上げてくる幼い二人の目には不死川を純粋に案じる色しかなく、きらきらと光っている。なんなら二人の周りまでも煌めいて見えるのは気のせいだろうか。なにか答えてやらねば、炭治郎など今にも泣きだしそうだ。
 溜息をこらえ、不死川はそっけなく言った。
「……古い傷だァ、痛かぁねぇよ」
「本当っ? よかったぁ! 炭治郎、このお兄ちゃん痛くないって。よかったね」
「ねーっ!」

 お兄ちゃん。
 あの冨岡の口から、お兄ちゃん。
 しかも、満面の笑みで。

「うぐっ」
 思わず胸を抑えて呻いてしまったのはしかたない。だって弱いのだ。子供のまっさらな好意には。

 落ち着け、これはあの冨岡だ。高慢ちきで高飛車な、水柱だ。いけ好かないと言えば冨岡義勇、冨岡義勇と言えばいけ好かない。そんな男だ。かわいいだとか愛らしいだとか、冗談じゃない。そんな言葉とは真逆の存在だってんだよ。

 あがくように自分に言い聞かせても、無理なものは無理だ。長男として培かってきた庇護欲が、とんでもなく刺激されてどうしようもない。
「不甲斐ないな、不死川。いくら子供だとはいえ、これはあの冨岡と竈門なんだぞ? よくもまぁそんな簡単に陥落できるものだな」
 ネチネチとした伊黒の物言いにはカチンとくるが、反論しにくいことこの上ない。
 だって、目の前にはいとけない顔を綻ばせて「よかったね」と無邪気に喜びあう幼子がいるのだ。大の大人ですら尻込みする自分の風貌を怖がり泣くどころか、古傷を痛くないのかと案じてくるような、純粋無垢な子供たちが。いつもとおりの喧嘩腰な物言いで、怯えさせるわけにはいかないではないか。
 だから。

「にいちゃは? おかお、たい?」
「なに……?」

 炭治郎の心配の矛先が伊黒に移ったらしいことに、不死川は内心ざまぁみろという気分だった。
 いくらねちっこくて嫌味な伊黒であろうと、こんな幼い子供の純真さを真っ向からぶつけられてなお、常の皮肉など口にできるものか。
 人のことをとやかく言った罰だと、不死川はわずかに唇の端を上げた。
 だが伊黒は、不死川よりは幼子への庇護欲が薄いらしい。いや、もしかしたら嫉妬がまだ心に燻っているのかもしれない。炭治郎の心配げな様子に、不快さを隠すことなく顔をしかめている。大人げねぇと、不死川が呆れるほどには不機嫌さが丸出しだ。

「ふん、心配など無用だ」

 とはいえ甘露寺の手前、あまり無下な態度も取りづらいのだろう。抑揚のない声で言い捨てて、伊黒は視線をそらせかけた。
 そんな伊黒をうろたえさせたのは、義勇の言葉だった。

「綺麗……」
「……な、なんだ突然。なにが言いたいんだ貴様」
「お兄ちゃんの目、すっごく綺麗っ。色違いの目なんて初めて見ました! 炭治郎もそう思うよね? このお兄ちゃんの目、すごく綺麗だね」
 パッと顔を輝かせてあどけなく笑った義勇に、伊黒の目が見開かれた。
「は……?」
「ほんとらぁ、しゅごいねっ! にいちゃのおめめ、きれぇね~、ぎゆしゃん」
 狼狽したところに炭治郎の追い打ちがかけられてしまえば、さしもの伊黒も絶句するよりほかなかったのだろう。
「おいっ、不死川! なんなんだこいつらはっ。ニヤニヤ笑ってないでどうにかしろっ」
 戸惑いを苛立ちに変えてぶつけてくる伊黒の声が、子供たちを気遣ってか幾分ひそめられているのがまたおかしい。剣呑な目で睨みつけられても、不死川の唇の端はぴくぴくと震えて、込み上げてくる笑いは止められそうになかった。
 ただでさえとびきり愛らしい風貌の子供たちだ。それが自分の身を案じてくるばかりか、嘘偽りなどまったく見えぬ賛美の言葉と笑みを惜しみなく向けてくるのだから、腹を立てるほうが難しいというものだろう。
 とはいえ、元々は気の合わない義勇と炭治郎だと思えば、あまりにも天真爛漫とした好意を向けられるのに、むず痒さと同等の居たたまれなさを覚えなくはない。
 にやけそうになる顔を誤魔化すように、不死川は殊更ぶっきらぼうに言った。
「おい、胡蝶はどうしたァ」
 子供たちとのやりとりを息を潜めて見守っていたらしい蝶屋敷の娘たちに、こいつらを戻す手立てを講じているのかと言外に込めて問えば、一同顔を見合わせ返答がない。そろって顔に浮かんだのはどう見ても苦笑だ。
「しのぶちゃんは冨岡さんたちとお話してる最中に、無理って叫んで診察室にこもっちゃって……どうしちゃったのかしらね」
 答えたのは甘露寺で、娘たちと違いいかにも不思議そうに小首をかしげていたのが、らしいといえば甘露寺らしい。
 どうやらこの子供たちは、しのぶに対しても天真爛漫な純真さ攻撃を仕掛けたとみえる。しのぶの反応のほうがもっともだと不死川は少し呆れたけれど、伊黒の感想は違ったようだ。
「それで甘露寺にこいつらの子守りをさせているのか……血鬼術の被害者ならば、胡蝶がこいつらを預かるべきだろう。無責任なことをするものだな」
「やだ、違うのよ伊黒さん。私が冨岡さんと炭治郎くんに遊んでもらってるの。二人ともこんなにかわいいんだもの、役得だわ~」
 にこにこと頬を緩ませる甘露寺に、伊黒もそれ以上はなにも言えなかったのだろう。また少し嫉妬の色が目に浮かんだものの、子供たちの気遣いを受けた後ではそれを表に出すこともできないのか、憮然と眉をひそめている。
 と、蝶屋敷の娘のなかでもしっかり者として知られている神崎アオイという隊士が、一同の視線を集めるように一つ咳払いした。

「しのぶ様のお話では、お二人にかけられた血鬼術は時限式で、鬼の生存の如何を問わず一週間はこのままだそうです。お二人が蝶屋敷にくるまでに、すでに一日経っています。残る六日間、お二人の身柄は責任もって蝶屋敷で保護させていただきますので、ご心配にはおよびません」

 しのぶを侮辱されたととったのだろう。柱三人を前にして委縮する自分を奮い立たせようとしてでもいるものか、ことさら胸を張ったアオイは、小さく声を震わせつつもきっぱりと言った。背後でうんうんとうなずいている三人娘も同様だ。
 順当な判断だろうと不死川もうなずきかけたが、子供たちの感想はまったく異なるらしい。そろって顔を見合わせたかと思えば、どこか哀しげに義勇は肩を落としているし、炭治郎もしょんぼりとうつむいて指をくわえている。
「どうしたの?」
 甘露寺が訊いても、義勇はなにも言わずにうつむいたまま、首を振るばかりだ。炭治郎にいたってはすでに泣く寸前なのか、瞳を覆う涙の膜は今にも決壊しそうになっている。
「ど、どうしたんですか? なにか心配事でも?」
 アオイたちにも心配げに問われ、ようやく義勇が口にしたのは、
「……しのぶお姉ちゃんは、俺たちのこと嫌いみたいだから……ここにいたら、きっと迷惑だと思う」
 少し声が震えていたのは、義勇も泣くのをこらえているからだろうか。
 義勇が泣きそうになれば、その腕に抱かれている炭治郎もまた、涙腺を刺激されるのは道理だ。子供というのは本当に共感性が高い。それが大好きな相手なら、なおさらに。
「しぃねぇちゃ、たんじろがきらいなの?」
「な、泣かないで、炭治郎。ごめんね、大丈夫だよ。きっとしのぶお姉ちゃんは炭治郎じゃなくて、俺のことが好きじゃないんだ。俺がうまく話せないから……だからきっと、呆れちゃったんだ……」
「たんじろは、ぎゆしゃんのことしゅきらもんっ! ないちゃ、め、なのぉ……っ」
 きゅっと唇を噛んで瞳を潤ませた義勇に、とうとう炭治郎の目からぽろりと涙が落ちて、こらえきれぬようにしゃくり上げる。

 あ、ヤバイ。これは盛大に泣きだす。たぶん体力が尽きるまで泣きつづける。

 炭治郎の様子からそれを感じ取ったのは子供に慣れている不死川だけではないようで、女性陣もビクンッと肩を跳ねさせて、一斉にまずい! という顔をしている。
 けれども、驚いたことに一番慌てたのは、誰もが予想外だっただろう人物だ。
「お、おいっ! 不死川なんとかしろ!! な、泣くぞこいつ! 泣いてしまうぞっ!?」
「俺に言うんじゃねェッ! おいっ、とにかく胡蝶を連れてこいやァ!」
 詰め寄る伊黒に怒鳴り返して、娘たちを促せば、不死川の言葉が終わるより早く三人娘は一斉に走り出していた。残ったアオイと甘露寺が必死に炭治郎をあやそうとしているけれど、義勇が泣き出しそうな顔をしているかぎりはどうにもならないだろう。
 しかたないと溜息をついて、不死川は義勇へと歩み寄った。

 こいつらはガキ。ただのガキ。冨岡だけどあのいけ好かない冨岡じゃねぇし、竈門だけどあのくそ生意気な竈門じゃねェ。いきなり見知らぬ他人しかいない場所に放り出されて、不安に怯えている迷子のガキどもだ。

 自分に言い聞かせながら、ぽんぽんと義勇の頭を軽く叩いてやれば、義勇だけでなく腕のなかの炭治郎も、きょとんと不死川を見上げてくる。
 あどけなくまろい目が、ますます大きくまぁるく見開かれる様に、不死川が長く押し殺してきた庇護欲が騒ぎ出す。
「胡蝶のことを気に病むことはねェ。戸惑ってるだけだァ」
 玄弥たちにかけてやっていたような優しい声にはならなかった。我ながらぶっきらぼうな物言いだと思ったけれど、義勇は素直に不死川の優しさを甘受したらしい。

 ふわりと柔らかくはにかんだ笑みと、小さく呟かれた「ありがとう」の声に、胸の奥のむず痒さが増した。