心配無用、準備は万端です

 下町情緒が色濃く残るとある町に、その少々古びた2DKのアパートはある。最寄り駅までの距離や築年数がそれなりということもあって、家賃もさほど高くはなく、新婚さん向けという触れ込みにふさわしい、二人住まいにはお手頃な物件だ。今どきではない外観に比べて内装はリフォームがされていて、使い勝手も悪くはない。
 地方の大学を卒業して母校であるキメツ学園の教師となった義勇が、一人暮らしをするにあたってなぜそんな物件に決めたのか、いまだに炭治郎にしてみれば少々不思議ではある。
 実家には、義勇が大学在学中に結婚した蔦子が婿入りした旦那さんと住んでいるため、一人暮らしをすることになったのは、理解ができる。けれども、料理などめったにすることもない義勇にしてみれば、学園に近くコンビニや二十四時間スーパーなどが近所にあるほうが、生活するには楽だろう。
 それなのに、義勇が選んだのはキメツ学園から少し離れた駅の下町で、二人暮らしを想定したアパートだ。だから炭治郎は、蔦子から義勇が地元に帰ってくるとの報告に併せてそれを聞いたとき、きっと義勇は近いうちに恋人とそのアパートで暮らすのだろうと思った。義勇とまた毎日のように逢えるかもしれないという歓喜も束の間、もしかしたら結婚も近いのではないかと思って、一人夜中に枕に顔を埋め、声を殺して泣いたものだ。
 蓋を開けてみればそんな涙は杞憂でしかなく、地元に戻ってからの義勇には、炭治郎が高校を卒業するまでの六年間、恋人らしき存在はいないようだった。
 それに義勇は、帰宅が早かったり実家に顔を出すときなどには、必ず竈門ベーカリーに寄って買い物をしてくれたりもした。おかげで、高等部の先生と中等部の生徒となってからも、ほかの生徒よりは距離の近い間柄でいられたのだから、炭治郎にとっては幸せなことではあった。
 それでも、いつかは義勇が恋人と暮らすかもしれない場所と思うだけで、その町に近づくことすら気鬱になり、炭治郎は高校を卒業するまで、義勇が住む町を訪れたことがなかった。

 炭治郎が初めて義勇の暮らす町の駅に降り立ったのは、今を盛りと桜が舞う春のことだった。義勇が描いてくれた地図と身の回りのものだけを手に、炭治郎が、ドキドキと破裂しそうに高鳴る鼓動を持て余しながら義勇のアパートに辿り着いたのは、告白が受け入れられた卒業式から実に半月近く経ってからだ。
 なんともなれば、ムード的には盛り上がりまくってキスで締めくくられたはずの告白劇は
「卒業式を迎えても、三月三十一日まではお前はキメツ学園の生徒だ」
 などという、変なところで生真面目な義勇のお言葉と、だから正式なお付き合いは四月の一日から始めましょうという約束で、ひとまず幕を閉じたからである。

 それを聞かされたときの炭治郎が、呆気にとられたのは言うまでもなく。ぶっちゃけ、歓喜の涙も引っ込むというものである。

 とはいえだ。だからといって、じゃあやめますなんて言うはずもない。それどころか、言葉をなくして呆然としているうちに渡された合鍵と、葵枝さんの了承が得られたら俺の家に住めばいいとの言葉に、理解が追いついた瞬間にブンブンと首を縦に振りもした。
 勢い任せでなくなった分、一人気恥ずかしさやら不安やらに悩みつつ、それでも抑えがたい幸せや期待にのたうち回る羽目になろうとは、そのときの炭治郎には想像もつかなかったけれど。
 それからの半月間、突然真っ赤になって挙動不審に狼狽えたり、ニヤニヤしたり落ち込んだりする炭治郎にそそがれた家族の視線は、なんとも言えず生温かったように思う。それでも、炭治郎に初めてできた恋人が同性の、しかも家族同然とすら思っていたであろう義勇であることに、慌てるどころか祝福までしてくれたのだから、家族には感謝しかない。
 いや、正直なところをいえば、家族の思いがけない度量の広さと、ひた隠しにしていたはずの自分の片想いを完全に見抜かれていたことに、度肝を抜かれもしたのだけれども。それはともかく。
 大学進学の準備よりも四月からの同棲生活に比重を置いた猶予期間は、またたく間に過ぎていった。フライングと承知の上で、炭治郎が固い面持ちで義勇の住むアパートのドアをノックしたのは、三月三十一日のことだった。
 義勇にしてみれば、炭治郎に覚悟を決める猶予をくれたつもりだったのかもしれないが、炭治郎にとっては、有無を言わさず奪ってくれるほうがよっぽど優しいと思わなくもない。そんな半月間だったのだ。だからこそ、少しだけ意趣返しのつもりのフライングだったのだけれども。もしかしたら、炭治郎の不満をわかったうえでの仕打ちだったのかもと、思い至ったのは最近だ。けれども尋ねるのはやめておく。答えを聞くのはなんだか怖い。
 それに、ドアを開けた瞬間こそ呆気にとられた顔をしたものの、義勇はすぐに微笑んでくれたし、部屋に招き入れ炭治郎を抱き締めてくれた腕は、これでもかというほどには優しかった。それだけでじゅうぶん。なにも問題はない。

 もちろん、日付が変わったと同時に与えられたキスも、その後の蕩けるような時間も、すべて優しく、いっそ怖いぐらいに甘かった。

 さて、そんなこんなで転がり込んだアパートは、住んでみれば二人で住むにはたしかに最適な間取りで、台所や水回りもリフォームのお陰で使いやすい。古めのアパートにしてはウォシュレット付きなのも、正直ありがたい。理由は聞かないで欲しい。察してくださいお願いしますってなものである。
 公園や商店街も近く、住む人々も昔からの住人が多いのか下町気質な人ばかりで、炭治郎はすぐにこの町が大好きになった。
 駅まで行けばコンビニやスーパーもあるけれど、駅からアパートまでの道すがらにある昔ながらの商店街のほうが、炭治郎にとっては利便性が高い。炭治郎は人と接するのが好きなタチだし、料理の腕はそこそこ磨いてきたつもりでも、食材の良し悪しについてはプロの目には敵わない。学校帰りに商店街の皆さんと楽しく会話しつつ、お薦めの食材やらとっておきのレシピやらを聞くのは、炭治郎の日課となっていた。
 なによりも感謝せずにいられないのは、この商店街の店主たちには、なぜだか義勇との関係を取り沙汰されたりしないことだ。その代わりに、揶揄われることなら、ままあるけれども。
 ともあれ、その気楽さと義勇との仲を認められているこそばゆさが、炭治郎の足を商店街へと向かわせる。

 義勇の元へ嫁ぐような気持ちでこの町にやってきてから、春が来ればもう二年が経とうとしている。初めて義勇に連れられて商店街で買い物をしたときに、店主たちが仰天顔から一転、満面の笑みになって炭治郎を歓待してくれた理由は、今もって謎だ。
 口下手で誤解されやすい義勇が、下町気質な人たちに受け入れられていることにも、失礼ながらちょっとばかり驚きはした。しかしそれ以上に驚いたのは、店主たちが端から炭治郎を義勇のお嫁さんのように迎え入れてくれたことだった。気恥ずかしさと感謝ばかりが先立って、疑問を後回しにした結果、つい最近になって「あれ? そういえばなんで俺が義勇さんの恋人だって皆さん知ってたんだろう?」と首をかしげるに至ったあたり、炭治郎も相当呑気ではある。
 長年の片恋が実った浮かれ気分が、二年も経った今になって、ようやく落ち着いてきたとも言えよう。

 そんな具合に、すっかり商店街の常連さんとなった炭治郎だけれども、まだ知らない店もそれなりにある。
 八百屋や精肉店、鮮魚店などの食材関連の店は、買い物せずとも向こうから声をかけられるぐらいにはお馴染みさんだ。書店や薬屋なども、それなりの頻度で利用させてもらっている。
 まぁ、夜の営みに必要なアレコレについては、顔見知りの店で購入する勇気はさすがになく、ほぼ義勇任せだし、義勇も大概はネット購入のようではあるけれども。お陰で宅配便が届くとついそれらを連想して、ちょっぴり赤面してしまう変な癖もついたが、それはともかく。
 炭治郎も知らなかったその店に、義勇と共に赴いたのは、二月もなかばの深夜二時。そんな時間に開いている店がこの商店街にあるなんて、炭治郎は思ってもみなかった。
 すっかりシャッターの閉まった商店街はしんと静まり返っていて、見慣れた風景とはずいぶんと趣が異なる。いつもの賑やかさは鳴りを潜め、人通りの途絶えた商店街。少し物悲しくて、不思議と声を潜めてしまう。
 まるで世界に二人きりでいるような、ほんのわずかばかりの心細さと、義勇を完全に独り占めしているのだという甘い優越感や愛おしさに、叫びだしたいような気持を抑えて囁き声で会話しながら、深夜の商店街を行くこと暫し。
 細い路地に入って、少し進んだ先にその店はあった。

 大きめの紙袋を抱えた義勇と手を繋ぎ、真夜中の散歩よろしく赴いたそこは、こじんまりとしたコインランドリー。炭治郎がよく見かける小綺麗で大きめのチェーン店とはかなり違って、いかにも昔からここにありましたと言わんばかりの年季の入った狭い店舗には、業務用の洗濯機や乾燥機が三台ずつ。乾燥機の前には長テーブルとパイプ椅子が置かれていて、ここで乾いた洗濯物を畳むようになっているらしい。
 店の前には飲料メーカーの自販機が一台。店内でジーッとかすかな音を立てる蛍光灯より、よっぽど明るく光っていた。
 洗濯機はそれなりに新しいものを設置してあるようで、洗剤はわざわざ投入せずとも済むようだ。時間つぶしのためのテレビなどもなく、おそらくは商店街で買い物をする間にここを利用する人が多いのだろう。そのまま路地を抜ければ大きめの道路に出るようで、コインパーキングの看板が見える。なるほど、立地的には最適なのかもしれない。
 物珍しさに思わずきょろきょろと店内を見回した炭治郎は、小さく笑った義勇に促され、照れ笑いしつつ店内に足を踏み入れた。
 持ち込んだ洗濯物の乾燥まで終わるまでは、一風変わったデート気分を楽しむつもりでいるのだろうか。義勇は至極上機嫌なようだった。もちろん、炭治郎とて異論はない。

 こんな時間にコインランドリーを訪れなければならなくなった原因に、ちょっとばかり羞恥心を覚えたのは致し方ないとしても、だ。
 そしてまた、その原因こそが、義勇の上機嫌の理由の一つであることに間違いはないだろうなと、ちょっとだけ呆れもしたけれども。

 なにゆえこんな深夜に二人揃ってコインランドリーに赴く羽目になったのか。理由は至極簡単だ。ただ今の日付が二月十四日であることを顧みれば、答えは自ずと導き出せることだろう。
 付け加えてるならば、炭治郎と義勇はまだまだ新婚さん気分の抜けきらぬ同棲二年目を迎えようかというカップルであり、おまけに本日は日曜日で、日ごろは多忙な義勇も、今日の完全休養だけは死守した結果がこれである。
 ついでに言えば、ここ数日、天気があまり良くなかった。まだまだ寒い日が続く折、洗濯の優先順位が衣服になったのはしかたがない。シーツやらなんやらの大物は後回しになっていたため、汚れたところで替えがない。そんな諸々でお察しいただきたい。
 相変わらずこの時期の義勇の忙しさときたら、師も走る師走がこの時期までひたすら続いていたようなもので、今年めでたく三十路を迎えた義勇が息切れして体を壊すのではないかと、炭治郎としては少々不安を覚えたほどだ。

 いや、年寄り扱いなんてしちゃいないけど。してませんとも。まだまだ十二分に若いことを思い知らされたばかりだし。

 それはともかく、バレンタインに先だった義勇の誕生日には、それなりに甘い夜を過ごしはしたが、なにぶん平日ということもあり、二人揃って大満足というには正直物足りなかった感がある。おまけにそれ以前には、受験シーズンでもある今はどうしたってすれ違いが多く、セミダブルのベッドが『寝る』ために活用されることはあまりなかった。
 そうなれば、久し振りにスプリングをこれでもかと酷使されたベッドが、そのまま心地好く『眠る』には少々難ありの状態になるのも致し方ないことだろう。日付が変わってすぐの口移しのチョコレートが、それに拍車をかけたのは言うまでもない。
 問題は、先にも述べた通りここ数日天気が悪く、大物を洗濯することができなかったことと、寒がりな義勇が、今シーズンから使い始めた発熱効果のある敷きパッドにやたらと拘ったことだ。
 たしかに、ひやりとしたシーツは特に寒がりでもない炭治郎にしても、この時期ちょっとつらくはあるけれど、我慢できないわけじゃない。色々と汚れてしまった敷きパッドで眠るのはごめんこうむりたいというのに、同意するのはやぶさかでないけれども、使い物にならないのだからしかたないだろうと思うのだが、義勇の意見は異なっていた。

「……コインランドリー行くぞ」
「はい……」

 その時点で時刻は午前一時を過ぎたところ。正直言えば多少冷たい思いをしようと、炭治郎としては眠りたかった。日付が変わる前から始まって、つい先ほどお互い満足の吐息で終えた深夜の運動。心地好く疲れた体を義勇の腕に委ねて、チョコよりも甘い夢に浸りたいと思ったのは当然だろう。先ほどまでの運動での疲れ度合いからすれば、炭治郎の疲労は義勇の比ではないのだし。寒がりのくせにコインランドリーまで行くのはかまわないのかと、少々呆れもした。
 とはいえ、今日はバレンタインだ。甘い甘い恋の日だ。義勇の機嫌が良いのに越したことはない。
 ところどころついてしまったチョコの染みに、酵素系の漂白剤をちょっと垂らして下準備をした敷きパッドは紙袋に。寝具以上に色々と塗れた体は、深夜に申し訳ないと階下の住人に内心詫びつつ、じゃれ合いながらシャワーで軽く清めて。風邪を引かぬようきっちり着込んで玄関を出たときには、炭治郎も真夜中のデートを楽しむ気分になっていた。
 商店街の人や近所の人たちは、炭治郎と義勇を微笑ましく見守ってくれている風情ではあるけれども、やはり男同士であることに違いはなく、デート中に手を繋ぐことなどあまりできやしない。義勇はちっとも気にする様子はないのだが、炭治郎としては、義勇が周囲から奇異の目で見られることに、どうしても抵抗があった。
 炭治郎の想いに応えたりしなければ、きっと義勇には誰の目にもお似合いの素敵な彼女ができただろうし、誰からも祝福される未来が待っていたに違いない。義勇の気持ちを疑ったりはしていないけれど、どうしたって考えてしまうのだ。義勇が誰よりも幸せになるには、自分でないほうが良かったんじゃないかと。
 同時に、たとえ世界一の美女だろうと世界一の才女だろうと、義勇の隣に恋人然と立ってほしくないとも思う。義勇の腕枕で眠るのも、義勇からの甘く熱い口づけを受けるのも、これからの生涯ずっと自分ただ一人であってほしいと願う。

 どちらも本心だから、厄介だ。

 我儘を口にしろと義勇は言うし、実際、慣れぬ我儘を義勇に述べるたび、炭治郎が驚くほどに上機嫌に甘やかしてもくれる。けれども、長年の片想いで骨身に染み付いた「迷惑をかけたら嫌われる」という不安感は、いまだに拭いがたくて、頻繁に頭をもたげては、炭治郎を恐慌状態に陥らせる。
 去年の義勇の誕生日には風邪を引いて、祝うどころか迷惑をかけてしまったのだが、体調不良のせいもあってか覿面にそれが表に出た。炭治郎にしてみれば苦々しい想い出である。
 かてて加えて、その年のバレンタインには誕生日の失敗が尾を引いていたものか、それとも我儘になれとの義勇の言葉に引き摺られたか、義勇が貰ってきたチョコに嫉妬して、小さな喧嘩までしてしまったのはまだ記憶に新しい。というよりも、それが頭にあったからこそ今年のバレンタインはとにかく甘く、完璧に!との意気込みがあったことは否めない。
 喧嘩と言っても、ようは炭治郎が拗ねていただけで、義勇はそんな炭治郎にご満悦だったような気もしないではいのだが。
 十歳の歳の差は、余裕の差でもあるようで、なんとなく悔しい気がしていることは、まだ義勇には内緒だ。それを口に出したなら、義勇はますます炭治郎を猫可愛がりにして、大人の余裕を見せつけてきそうな気がするので。
 そんなちょっぴり意地の悪いところも、今までの二人暮らしで思い知ったけれども、そういうところも好きだなんて、正直終わってるなぁと思わなくはない。
 だからといって、嫌気がさすなんてことがあるわけもなく、義勇に恋していると自覚したときから、この想いは金輪際消えることがないことも本能的に悟っている。後悔なんてしようがないのだ。二人でいることが幸せで幸せで、どうしようもなく幸福なのだから。

 傍から見ればどっちもどっちなバカップルだろうが、炭治郎にそんな自覚はあまりない。義勇はわりと自己評価を低く見積もりがちだが、こと恋愛に関しては、炭治郎の自己評価は義勇とは比べ物にならないほど低い。
 なにしろ炭治郎にとって義勇は初恋で、最初で最後の恋だ。比べる対象が存在しない。
 そのお相手の義勇はと言えば、とにかくモテる。炭治郎の目には眩しいくらいに完璧だ。美しく格好いい容姿も、清廉な佇まいも、耳に甘い声だって、麗しいという言葉に最もふさわしい人だと炭治郎は思っている。
 少々口下手で、表情筋が死んでると揶揄されるほどの無表情が基本状態という残念さも、少しぐらい隙があったほうが完璧すぎるより好ましいじゃないかと思う。PTAから苦情がくるほどのスパルタっぷりだって、生徒を想うあまりの生真面目さゆえ。そんなところも立派だと思うし、義勇の素敵なところだ……との力説は、残念ながら親友の善逸や伊之助には理解してもらえなかったけれども、まぁいい。義勇のなにもかもを受け入れられるのは、自分だけでいいのだ。
 それに、義勇の良さを理解してはくれずとも、炭治郎と義勇の仲には理解と祝福をくれたのだから、それだけで十分だ。
 たとえほかの誰かのほうが義勇を幸せにできるとしても、義勇を好きな気持ちだけは、そんな誰かよりも絶対に自分のほうが深く重いと、炭治郎は自負している。それだけは、一生誰にも負けるものかと、誓ってもいた。

 パイプ椅子に並んで腰かけて、自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、ゴゥンゴゥンと音を立てて乾燥機のなかで回る敷きパッドをなんとはなしに眺める。小さな声で会話する内容は、実に他愛ない。その間も、気が付けば炭治郎は、義勇の顔に見惚れて物思いに耽ってしまう。
 だって思い出してしまうのだ。こんなふうに二人きりでコーヒーなんて飲んでいると、初めて義勇に抱かれた翌朝を。

 あの日も、手を繋いでまだ人気のない商店街を二人で歩いた。まだどこも店は開いていなかったから、駅の近くのコンビニまで行き、朝食用の食パンやらなんやらを買ったんだっけ。ガードレールに腰かけて、義勇が買ってくれたカフェオレをを握りしめて泣いた炭治郎を、義勇は人目もはばからず抱き締めてくれた。あのときの義勇の腕の強さと優しさを、炭治郎は一生忘れることがないだろう。

 ぼんやりと見惚れる炭治郎の視線に気づいたのか、義勇の唇が少し意地悪げに弧を描いた。こういう顔もだいぶ見慣れた。けれども見慣れたとはいえ、それでなにが変わるわけでもない。やっぱり見惚れてしまうし、ぶわりと湧き上がる色香にクラクラと酩酊感に襲われもする。
 いや、変わったことも少しはある。この顔はたいがいベッドの上で見せつけられるものだったりするので、条件反射で体の芯も熱を帯びてしまうのだ。これは二人で過ごすのに慣れた今でこその反応だ。まるでパブロフの犬のようだと思いはするが、物欲しげに瞳が潤むのを止められない。
 義勇の右隣に座った炭治郎の右手は、缶コーヒーを握っているが、左手はお留守だ。義勇だって右手に缶を掴んでいたから、べつにどうなるわけでもなかったはずなのに、義勇の横顔に見惚れている内に缶は左手に持ち替えられて、気が付けば道行と同じように手を取られていた。
 指を絡め合うように握られた手。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。こんな手の繋ぎ方を初めてしたのも、義勇の部屋に転がり込んだ翌朝だったなと、頭の片隅で思う。
 炭治郎が経験したことのある恋にまつわるアレコレは、すべて義勇の色に染められている。これまでも、これからも、きっと変わることなく義勇にだけ受け渡すのだろう。望むところだ、不満なんてない。
 別れや浮気沙汰はまっぴらごめんだし、万が一そのときがきたら、果たして立ち直れるものか甚だ不安だが、それ以外ならば義勇がくれるものすべて、炭治郎は余さず飲み込んでしまいたいのだ。義勇のすべてを炭治郎が作れたらいいと思うのと同じくらい、自分のすべてを義勇の色で染めてしまいたくなる。
 なにもかも言いなりなんてきっと義勇は望まないし、炭治郎だって、そんな自我を持たない自分は想像するのもごめんだ。それでも願ってしまうのは、義勇が炭治郎を損なうようなことなどするわけがないと、信じているからだろう。
 炭治郎が炭治郎であるがままに、一つも損なわせることなく、義勇はきっと炭治郎を自分の色に染めていく。そうなっていく自分が嬉しいと思ってしまうのだから、もうどうしようもない。
 今だって、ゆるりと繋がれた手からぞくりと背筋を走った甘い痺れを、義勇はきっと察している。義勇が望むままの反応だと、ほくそ笑む瞳が語っている。
 手袋を外しといた俺、偉いぞ! なんて、寒さのためばかりでなく赤く染まっているだろう頬の熱を持て余しながら、上の空になりがちな思考の片隅で思う。
 一昨年のクリスマスに義勇から貰った、カシミヤの赤い手袋は、炭治郎の宝物の一つだ。万が一にも汚したくなくて、コーヒーを開ける前にポケットにしまい込んだ自分を、ちょっと褒めてなんかみる。
 だって手を繋ぐなら、やっぱり肌が触れ合うほうがいい。来る途中は寒さを理由に手袋を外させてはもらえなかったから、やっとじかに触れられた義勇の温もりに、ホッとしたりもする。
 手を繋ぐどころか全身余さず触れられてから、まだ一時間ばかりしか経っていないのに、もう体も心も、義勇が足りないもっと寄越せと騒ぎ出している。少しでも触れてしまうと、その先を知ってしまっている今となっては、我慢をするのは難しくなった。
 しかも義勇はそれを察しながら、炭治郎を甘やかす素振りでその実煽ってくるからタチが悪い。悪戯に掌をくすぐる義勇の固い親指に、炭治郎がゾクゾクとした甘い疼きを募らせていることぐらい、絶対に気がついているだろうに、顔だけは澄ましたまま明日の予定なんか話している。
 せっかく丸一日休めるんだし、ひと眠りしたらどこかに行くか? なんて。今炭治郎が行きたい場所がどこかなんてわかりきっているくせに、本当にこういうときの義勇は意地が悪い。
 少し仰のきコーヒーを嚥下する喉の動きや、小さく唇を舐める舌先に、炭治郎がなにを想像して洩らす息に熱を籠らせているのか、全部承知した上で、決定権は炭治郎に譲るのだ。
 選ぶのはお前だと突きつけられる選択肢に、いつも炭治郎は少し怯えてしまう。

 多分、告白したときだってそうだった。

 炭治郎の想いに応えると言いながら、肝心の未来への選択を、義勇は炭治郎に投げ渡してきた。甘い誘惑と共に。
 猶予をやるからお前が決めろと。もしこの手を取るのなら、提示した日までに俺に食われる覚悟を決めて、自分の心の準備を整えろと。義勇はきっとそう言いたかったはずだ。
 それは炭治郎に逃げ道を残すための、義勇の優しさや怯えだったのかもしれないし、反対に炭治郎に選ばせることで逃げ道をなくさせる、ズルい大人の罠だったのかもしれない。
 あの日の義勇の真意までは、炭治郎にはわからない。それを悟るほどの経験は炭治郎にはなく、義勇が与えてくれるものすべてに目が眩む炭治郎にしてみれば、どちらだって関係がなかった。
 いずれにせよ、炭治郎は義勇の手を取ることを選んだし、それを後悔などしていないのだからどちらだってかまわないのだ。肝心なのは、義勇が炭治郎を得たいと願ってくれたその心が、いつまでもそのままであってくれること。それだけ果たされるのなら、悪魔の罠に落ちて、魂を譲り渡すことなんて、あまりにも容易い。
 だってとうに囚われている。魂ごとすべて。

 準備なんてとうにできていた。怯えようが震えようが、選択肢なんて、初めから一つしかないのだ。

「義勇さん……」
「ん?」
 柔らかな短い相槌は、痺れるほどに甘い。
「どこも、行きたくないです……」
「うん」
 吐息交じりの声は、答えを知っていながら先を促すから。
「きっと、洗い立ての敷きパッド、気持ちいいと思うから……」
「うん」
 ゴゥンゴゥンと、音を立てて乾燥機が回る。タイマーが切れるまであと少し。
 悪戯な指先は、ゆるりと動く。炭治郎の体の奥底で、燻る熱がぐるぐる回る。
「だから、あの……ずっと……」
「うん」
 縋る視線に笑う義勇の目元は、柔らかな弧を描いて、炭治郎を映す。
 悪魔のように美しく優しい瑠璃の瞳が、理性や羞恥を溶かしていく。
「今日は、ずっと、抱き締めてて……ください」
「……いい子だ」
 正解、と告げるように小さなリップ音を立てて吸われた唇から、チョコよりも甘い誘惑の蜜が全身を巡って、炭治郎は抗いようのない陶酔感に襲われた。

 洗濯したばかりの敷きパッドは、きっとすぐさままた汚れて、結局冷たいシーツで眠ることになるのだろう。もしかしたら義勇にとっては予定調和の結末かもしれないが、それならそれでいい。義勇はきっと、炭治郎がもう替えがないのにとむくれるのにすら、楽しげに笑うだろうから。

 もしも、義勇が炭治郎に選択を譲る理由が、義勇の抱える臆病さゆえでもかまわない。それすらが炭治郎には愛おしい。
 準備はいつだってできているから、心配せずに答えを待てばいいと、ほんの少しだけお兄ちゃんな気持ちで、炭治郎はさらに深い口づけを強請って目を閉じた。