繰り返す初めましてのその先の

 炭治郎は滅多に緊張することがない。緊張しないわけではないが、いつだってなるようにしかならないとすぐに腹を決めるのが常だ。
 少なくとも、手料理をふるまうのに緊張したことなど、一度もなかった。

「えっと……どう、ですか?」

 緊張に固くなる体を縮こまらせて、炭治郎は、目の前で黙々と箸を進めている兄弟子を上目遣いに窺い見た。

 義勇が柱稽古をつけてくれるようになったのはいいが、義勇まで辿り着けたのは今のところ炭治郎だけだ。だから当然、休憩も食事も義勇とふたりきりである。
 もちろん、今までだってふたりきりな場面はいくらでもあった。押しかけつづけたときだってそうだし、蕎麦屋にだってふたりで行った。今と状況的には変わらないはずだ。
 なのにどうしても緊張してしまうのは、義勇に供した食事のせいだ。

 今までの柱稽古でも、炭治郎が腕をふるう場面は多々あった。甘露寺や宇髄のように、柱が用意してくれるばかりではなかったから、料理できる者が手分して作らなければすきっ腹で稽古に臨むことになる。それでは体も動かない。気力だけでつづけられるほど、柱稽古は甘くはないのだ。
 炭治郎は家でも料理の手伝いはしていたし、炭焼きの子だから火加減には一家言ある。味付けだって、家族や隊士たちに文句を言われたことはない。むしろみんな、おいしいと褒めてくれたものだ。
 だから義勇にも、食事は俺が用意しますと胸を叩いて請け負ったのだけれども、いざ義勇の前に出してみれば、どうにも不安でしかたがない。
 稽古を受ける隊士たちに振舞うのは、基本的に握り飯ぐらいだった。おかずは精々香の物。とんでもない人数の分を用意しなければならないわけだから、腹がふくれることが第一で、内容までは重視していない。というか、できない。一人ひとり膳を用意するなんて、とてもじゃないが無理難題が過ぎる。
 しかしながら、義勇は兄弟子だ。柱だ。隊士たちへと同じように、握り飯と漬物だけというわけにもいくまい。
 厨に立って初めてハタと気づいたそれに、炭治郎は少し途方に暮れた。
 家での質素な食事や隊士たちと食べた握り飯。それぐらいなら、炭治郎にだって楽々料理できる。だが義勇に出すなら、せめて藤の家で供された程度のものは用意しなければならないんじゃなかろうか。

 今までの炭治郎の食事と言えば一汁一菜が当たり前で、献立も毎日大差がない。そんな暮らしを嘆いたことなど一度もなかったし、自分だけなら食べられるだけでありがたいほどだ。けれども事ここに至っては、せめてもう少し上等なおかずの作り方ぐらい覚えておくべきだったと、内心で臍を噛む。

 とにかく早く作らないとと思いつつ、材料を買いに行ってきますと泡を食って飛び出し、海老やらなんやら買い求めて帰ったはいいが、今度は鍋がない。油もなけりゃうどん粉だってなかった。しょう油はまだしも、鰹節やら昆布もないからつゆも作れないときた。
 すみません、もう一度買い物行ってきますと再び駆けだした炭治郎に、義勇がなにか言いたげにしていたが、話を聞く暇もなかった。
 そんなこんなでどうにか記憶に頼って作り上げた天ぷらは、藤の家で出されたものにくらべると、なんとなくベッタリとしているような気がする。火加減は自信があったのに、あんなふうにパリッと仕上がってはいない気がしてしかたがない。
 そもそも、上等のおかずで思い浮かぶのが、天ぷらしかないのもいただけない。毎日天ぷらでは胃にもたれそうではないか。
 これはもう婦人雑誌でも買っていろんなおかずの拵え方を学ぶべきなのかもしれないと、炭治郎は自分の膳に手をつけることもできないまま、義勇の言葉を待った。

 炭治郎が帰ったとき、座敷にちょこなんと座ってなにをするでもなくじっと待っていたらしい義勇は、ずっと物言いたげな顔をしていたのに、いただきますと言ったきりただ黙々と食べている。表情もいつもとまるで変わらない。おいしいのかまずいのか。それすら義勇の様子からは窺い知ることができなかった。

 こてん、と義勇の首がかしげられた。言葉はない。モグモグと口は動いたままだ。口の端にご飯粒がついてるのが、なんだかやけに目についた。

 これは、いったいなにを言いたい顔なんだろう。さっぱりわからず、炭治郎もこてりと首をかしげる。
 ふたりして無言のまま、首をかたむけあって見つめあうこと暫し。
 義勇の喉が動いて嚥下したことを知る。と、ようやく「どうとは?」と返ってきた。
 この状況でどうですかと問われたら、うまいかまずいかしかないと思うが、義勇はそれきり口を閉じたまま炭治郎の答えを待っているようだ。
「えーと……おいしいですか?」
 言えばこくりとうなずく。そうして今度は、じっと炭治郎の膳を義勇は見つめてきた。自分の箸は止めたままでだ。
「義勇さん?」
 口に合ったのならよかったと、少し胸を撫でおろしたのも束の間、この沈黙と視線はなんなのだろう。わからず炭治郎が声をかけると、義勇は、膳から炭治郎の顔へと視線を移し、わずかばかり眉をひそめた。
「なぜ食わない?」
 声は咎めだてているようではなかった。いつもと変わらずあまり抑揚のない淡々とした声ではあるが、なんとなく心配しているような気配がある。
「や、食べます食べます! 天ぷらなんて初めて作ったもんで、うまくできてるか心配で」
 あわてて箸を手にした炭治郎に、義勇はパチリとひとつまばたくと、クスッと笑みをもらした。

 ……笑った。義勇さんが、笑ってくれた!!

 ポカンとしたのは一瞬。炭治郎の頬には見る間に熱が集まって、なんだか叫びだしたくなる。
「なんだ、俺は毒見役か」
「ちっ、違いますよ! そんな滅相もない!」
「冗談だ」
 泡を食って身を乗り出した炭治郎に、義勇は頬をゆるめたままこともなげに言う。まとう空気はやわらかく、なんだか上機嫌そうにも見える。

 冗談なんて、義勇の口から出てくるとは思いもしなかった。

 初めて見た義勇の笑顔も、初めての冗談口も、なんだかとんでもないものを見聞きしてしまったような気がして、どうにも落ち着かない。けれども、ちっとも不快な気分ではなかった。むしろ、ドキドキと胸が高鳴ってしかたがない。

「本当に、うまい。……狭霧山を下りて以来、こんなふうに誰かの手料理を食べるのも、誰かとふたりきりで食事するのも、初めてだ」
 静かな声にはわずかな寂寥が滲んでいる気がした。郷愁よりも少しばかり切なさを含んだその声は、けれども義勇の口元に浮かぶ笑みを消してはいない。
 それに少しホッとして、炭治郎は思わずうつむいた。

 鬼殺隊にいる者はみな、心に悲しみを抱えている。炭治郎だって同じことだ。義勇もまた、胸に自責の念と重くつらい痛みを抱えている。
 義勇の言葉を喜ぶべきではないのだろう。思いはするが、なぜだか少しうれしいと感じる自分に、炭治郎は戸惑った。たかが食事だ。なのに義勇の初めてが自分であることに、フツフツと喜びが胸の奥からわいてくるのは、なぜなのだろうか。炭治郎には、わからない。
「俺は食べてる最中にしゃべれない。相槌も打てなくてすまない」
「あ、そうだったんですね。気にしないでください! 俺が勝手にしゃべりますんで!」
 また目をしばたたかせて、義勇は、そうかと小さく笑う。
「食事のことまで気が回らなかった。手間をかけさせてすまなかった。……今度からは、食べに行くか。迷惑だし」
「えっ!? あ、あの、俺が作ったのじゃやっぱり嫌でしたか!?」
 炭治郎の胸にあった歓喜がしゅるんとしぼんで、代わりにギュッと心の臓をつかまれたような痛みを覚えた。
 もちろん、義勇が迷惑だと思うのなら外食するのはしかたがない。けれども、自分の手料理を喜んでくれたのだと思った端から断られては、どうにもやるせなく悲しい。
 焦燥と消沈が入り混じった炭治郎の顔は、いかにも情けない表情をしていたのだろう。義勇が珍しく少しあわてた様子で口を開いた。
「迷惑だろう? 稽古のあとで買い物に走り回ったうえ、料理までするのは」
「迷惑じゃないです! 義勇さんがいいなら、これからも俺、ご飯作りたいです!」
 なんだそういうことかと、ホッとすると同時に叫ぶように言えば、涼やかな目がキョトンと丸く見開かれた。

 吸い込まれそうな瑠璃の瞳に、自分の顔が映っているのを、炭治郎はどこか不思議な心持ちで見つめた。きれい。そんな言葉が心を占めて、酩酊に似て頭が揺らぐ。
 義勇の瞳は、暗く沈んでいるように見えることが多い。とても美しい色合いなのに、輝くことを知らぬげに、誰と話していても心閉ざしているように見える。
 だが、今その瞳には、炭治郎がいる。子どものようにあどけなくすら感じる眼差しで、義勇はじっと炭治郎を見つめていた。なぜだかそれが、たまらなくうれしい。

 その瞳がふわりと細められ、義勇がまた微笑んだ。

 やわらかく穏やかな笑みが、炭治郎の胸をざわつかせる。ドキドキと速まる鼓動と、ソワソワと落ち着かない心持ち。うれしくも面映ゆく、けれどもほんの少し切ないような不思議な感情は、いったいどこからくるのだろう。こんな感情、炭治郎は知らない。初めて感じる複雑な心境は、なぜだか炭治郎の体の熱をあげていく。

「……なら、手伝う」

 ポツリと言うなりまた食べだした義勇に、今度は炭治郎が目をしばたたかせた。
「へ? あの、義勇さんがですか?」
 モグモグと口を動かしながらこくりとうなずく義勇に、ちょっとばかり混乱する。
 義勇は柱だ。炭治郎を顎でこき使ったところで誰も咎めないだろうし、炭治郎だって否やはない。なのに、手伝うとはどういうことだ。
「そんな、申しわけないですよ。大丈夫です、俺、ひとりでもちゃんとできますから!」
 信用されていないのだろうかとちょっぴり悲しくなったが、炭治郎以上に義勇のほうがなんだか悲しげに眉を下げるから、余計にわけがわからなくなった。
「えっと……一緒が、いいんですか?」
 また、うなずく。口の端のご飯粒が増えている。箸づかいはきれいなのに、義勇は食べるのが下手くそなようだ。
「えーと、それじゃ……あの、明日は一緒に作りましょうか……?」
 今度のうなずきは、フワフワとしたうれしさの気配がする。無表情でいるのに、なんなら周りに花が飛んでいるみたいにも見えた。
「それなら、稽古の前に買い物してきま……買い物も、一緒がいいんですね」
 モグモグと口を動かしながらニマリと笑うから、なんだか炭治郎も笑いたくなった。

 胸に込み上げるワクワクとした気持ちのなかに、ちょっぴりの懐かしさ。まるで六太みたいだ。思って、敬愛する兄弟子を幼子扱いしてしまったことに、内心で少しばかり申しわけなくもなるけれども。

「ほっぺた、ついてますよ」
 クスクス笑いながら手を伸ばし、六太にしていたようにご飯粒を取ってやれば、義勇は少しバツ悪そうに視線をそらせた。
 こんな義勇も、初めて見る。

 本来は、こういう人なのだろう。冨岡義勇という人は。

 姉とふたりきりだったというから、六太や茂のように甘え上手で、なんでも一緒に手伝いたがって、穏やかに笑っていた人なのだ。きっとそうだ。
 こんな子どもっぽい義勇を知る人は、いったいどれだけいるんだろう。強くて、冷静で、頼りがいのある柱なのに、同時に俺がついててやらなきゃと保護欲を掻き立てられて、きれいな瞳や微笑みにはドキドキする。こんな人、義勇のほかに炭治郎は知らない。

 誰も知らなければいい。義勇の初めてを一緒に過ごす人も、これから先、自分だけならいい。
 不遜が過ぎる望みが胸から消えない。初めてを積み重ねて行き着く先は、どこにあるのかも、炭治郎には今のところ見当もつかなかった。

「明日は、なにを作りましょうか」
「……鮭大根」

 毎日こんな会話をするのが、当たり前になったとき。それはわかるのかもしれない。
 慣れ親しんだ日常になっても、やっぱり義勇は初めての顔を見せてくれるだろうか。自分の胸にも、また初めてのなにかが生まれるのか。
 義勇の胸にも同じだけ、初めてのなにかが積もればいい。思い願いながら食べた天ぷらは、ちょっと油切れが悪くて、でも、なんだか幸せな味がした。