午後3時のフレンチトースト

※OTHER『800文字で恋をする』に掲載した話のロングバージョンです。

「ありがとうございます! 来月もよろしくお願いします!」
 お代の入った封筒とビニール袋を受けとり、炭治郎が頭を下げると、いかつい顔の店主はどこかが痛むような顔をした。
「大変だろうが頑張れよ」
 胸がギュッと痛くなる。やさしい労りの言葉なのに、苦しいのはなぜだろう。
「はい」
 笑ってみせた炭治郎に、店主は少しだけ満足そうにうなずき、厨房へと戻っていく。炭治郎も、もう一度ありがとうございましたと告げて、店を出た。
 落とさないようにポケットにしっかりと封筒をしまい、歩き出した炭治郎の足取りは重い。
 手にしたビニール袋がカサリと音を立てた。お裾分けに貰ったフレンチトーストの甘い匂いがする。いつもなら心弾ませる匂いだけれど、今日はあまりうれしくない。

 商店街に昔からある洋食屋は、バタールやロールパンなどを買ってくれるお得意さんだ。集金は月に一度。振り込みではなく現金で。
 今までは、ひとりで集金なんてしたことがなかった。それなりにまとまった額だから、大概は父が、父が病床に就いてからは母の仕事だ。けれど、炭治郎だって先週小学校を卒業したのだし、父はもういない。
 俺が行くよと胸をたたいた炭治郎に、母は少し心配そうな顔をした。だが、パンの焼成も今や母ひとりの仕事だ。幸い店は繁盛している。商品の数を減らすわけにはいかない。店番だけなら炭治郎でもできるけれど、パンを焼くのは無理だ。父が入院し、母がたびたび店を空けざるを得なかったあいだ、お客さんにも迷惑をかけた。
 だから、これからは自分が行くと炭治郎が宣言しても、まとまった額を子どもに持たせる不安を、母が抱くのは当然である。けれど、母は炭治郎を信頼してくれたようだ。午後の早い時間だし、洋食屋のある商店街までは人通りだって多い。問題はないはずとの判断もあったのだろう。
「炭治郎が行ってくれたら助かるわ」
 そう微笑み送りだしてくれた。
 遅くなれば信じてくれた母を心配させる。急がなくちゃと思うのに、炭治郎の足は重かった。
 商店街には顔見知りがたくさんいる。炭治郎の顔を見つけ、声をかけてくれる人は多いのだ。
 今までは、声をかけてもらうのはうれしかった。お遣いや集金のお供で来るたび、えらいなとか、いい子だなと、褒めてくれるやさしい人たち。誇らしくて幸せで、炭治郎はいつだって笑っていられた。
 手にしたフレンチトーストが、なんだか重くなった気がする。振りまわせるほどちっぽけな重みしかないはずなのに、米袋よりもなぜだか重い気がして、炭治郎はビニール袋を持つ手にギュッと力を込めた。
 お得意さんの洋食屋に集金に行くと、バタールが残ったときに作る賄いのフレンチトーストを、店主はお裾分けにくれる。炭治郎も大好きな甘いフレンチトーストは、竈門家の子どもたちの好物のひとつだ。父や母も、子どもたちが喜ぶさまを幸せそうに見守ってくれていた。
 だけどもう、口の周りをはちみつでベタベタにしながら笑ってフレンチトーストを頬張る炭治郎たちを、やさしい目で見る父はいないのだ。病床に伏した父は、先月とうとう亡くなった。炭治郎の卒業式を見ることなく。
 涙がわき上がりそうになって、炭治郎はあわてて首を振った。
「俺は長男なんだから、泣いちゃ駄目だ!」
 自分に言い聞かせ、炭治郎は商店街のわき道を入っていった。商店街の知り合いに声をかけられれば、このところの決まり文句を聞くことになる。足取りを重くさせる原因から遠ざかりたい一心で、炭治郎は人通りのないほうへと足を進めた。
 
『大変だね。かわいそうに』
 
 やさしい言葉は、ありがたいのに胸が苦しい。笑い返すのがつらくて、人のいない道を炭治郎は進む。
 誰も悪くない。やさしさだと理解もしている。だけど、それらの言葉は炭治郎の胸を痛くさせた。無理にも笑って、大丈夫ですと答えるたびに、心のどこかが削られていく気がするのだ。
 昼下がりの人けのない道を、炭治郎は歩く。少し遠回りになるしと、気が急いた。少しずつ歩みが速まる。
 しっかりしなきゃと思いながらも、気がつくと店主の言葉が耳にこだまする。知り合いはみな、幸せな子どもから憐れな子どもへと、やさしい言葉で炭治郎を突き落とす。善意だと理解しているのにやりきれないから、炭治郎は、知り合いと顔をあわせるのが気ぶっせいになった。
 人の思い遣りを素直に受け止められない自分にも、嫌気がさすし、反省もする。けれどもどうしてもつらいのだ。

 早く帰ろう。誰にも逢いたくない。かわいそうって言葉を聞きたくない。

 知らず気もそぞろになり、勢い炭治郎は、急ぎ足になった。
 うつむき気味にして足早に歩く炭治郎の前で、騒々しい声がした。道幅いっぱいに広がって歩いてくるのは、高校生のグループだ。着崩しただらしのない制服や、ガラの悪い言葉遣いは、不良めいている。大通りに出る手前の、一方通行の道だった。人通りはない。
 高校生たちは品のない大きな笑い声を立てながら、ろくに前も見ずに歩いてくる。避けなきゃと端に寄った炭治郎に、大げさに身振りした一人の腕がぶつかった。
「痛ぇなぁ! 気をつけろ!」
「ごめんなさい」
 ちゃんと避けたけれど、ぼんやりしていたのもぶつかったのも事実だから、素直に謝った。なのに、高校生たちは怖い顔をして取り囲んでくる。
「ガキがピアスなんてしちゃってよぉ。生意気」
 父の形見のピアスは、炭治郎の決意の表れだ。これからは自分が家族を守るのだとの覚悟の証に、母に頼み込んでつけた。からかわれ、思わずムッと睨めば、また生意気なガキだなと言われ小突かれた。
 それほど痛いものではなかったけれど、押された拍子にポケットから封筒が落ちてしまったのはいただけなかった。大切なお金なのに、落としたらえらいことになる。
 あわてて拾おうとした炭治郎の手より早く、封筒を拾いあげたのは高校生だ。
「おいっ、六万も入ってんぞ!」
「スゲェ、ラッキーじゃん!」
「ゲーセン行こうぜ、ゲーセン!」
 人のものを勝手に開けて盛り上がるのが信じられず、炭治郎は、一瞬呆気にとられた。

 俺のだってわかってるのに、この人たちはなにを言ってるんだろう。それは店の大事なお金なのに。

「軍資金ゲットー!」
「俺、新しい靴欲しかったんだよなぁ。なぁ、それ全員で分けようぜ」
「あ、賛成。俺も欲しい写真集あんだよ」
 封筒をひらひらとさせながら立ち去ろうとする高校生たちに、ハッと我に返り、炭治郎は急いで高校生たちの前に回り込んだ。
「返してください!」
 大きな声で言いながら手を伸ばした炭治郎に、高校生たちは、馬鹿にしきった顔をした。
「慰謝料だろぉ。これで許してやるって言ってんの」
「ぶつかったのはテメェなんだからな、当然だろ、ガキ」
「そんな、手を振りまわしてたのも悪いんじゃないか! 道いっぱいに広がって歩くのだって、迷惑だろ!」
 必死に言いつのり、封筒を取り返そうとした炭治郎の頭が、バシリとはたかれた。
「うるっせぇなぁ! 俺らがどうしようと勝手だろうが!」
「こんな金持ち歩いてんのが悪いんだよ。ガキのくせにピアスなんかしてるぐらいだもんな、親のしつけがなってねぇんじゃねぇの?」
 炭治郎は今まで、人にぶたれたことなんてなかった。良い子だと褒められこそすれ、叩かれるような悪さなんて、一度もしたことがない。ましてや親のしつけをうんぬんされるなど、ありえないことだ。
 人に叩かれたり、自分のせいで父さんや母さんが悪く言われるなんてと、ショックで涙が出そうになる。
 けれど、それ以上に怒りがわいた。泣きべそをかくよりも、今はしなければならないことがある。自分は長男だ。これからは家を守るのは炭治郎の使命なのだ。こんなことぐらいで負けるわけにはいかない。

 駄目だ、泣くもんか。俺は長男なんだから。もう、父さんはいないんだから。泣いてちゃ駄目だ!

「返せよっ!」
 涙をこらえて、炭治郎は凛と言い放った。この代金を持ち帰らなければ、母が困る。理不尽な暴力になんて負けるものかと、炭治郎は腹に力を入れて、グッと高校生たちをにらみつけた。
「しつっけぇなぁ! いい加減にしろ!」
 高校生の手が振り上げられた。殴られる! とっさに目を瞑った炭治郎の耳に聞こえたのは、なにかを殴りつけたような音と、グエッと言う耳障りな苦鳴だ。
「なんだテメェッ、なにしやがる!」
 怒鳴り声に、炭治郎は恐る恐る目を開けた。その目に映ったのは、不良たちと同じ年ごろの少年だった。どうやら炭治郎を殴ろうとした奴は、この少年に反対に殴り飛ばされたらしい。

 きれいな人……。

 場違いな感慨に、思わず呆けた。
 白い肌、癖のある黒髪はちょっと跳ねてる。まつ毛がえらく長く厚くて、近所のお姉さんが化粧したときよりもずっと目を引く。ずいぶんと整った顔立ちの少年だ。卒業式だったのだろうか。見慣れない制服の胸元には、先週炭治郎がつけたのと似た桜の飾りがついていた。
 知り合いじゃない。見ず知らずの他人であることに間違いはなかった。
 だけれど少年は、呆然と見つめる炭治郎の前に立ち、不良グループから炭治郎を守ろうとしてくれているようだ。
 殴り飛ばされた男が、よろよろと立ち上がった。仲間があわてて大丈夫かと聞くのに、泣き言をもらす男の頬は真っ赤に腫れあがっている。よほど強く殴られたのだろう。
「なんなんだよ、テメェ! 関係ない奴はすっこんでろ!!」
「目障りだ……見苦しい真似はやめろ」
 不良たちが一斉にいきり立つなか、少年の声は淡々としていた。
「偉そうになに言ってやがんだ、テメェ! カッコつけてんじゃねぇぞ!」
「この人数相手にやる気か? 馬鹿じゃねぇの!」
 怒鳴りたてる不良たちに、少年はもう答えない。先手必勝とばかりに繰り出された長い脚が、つめ寄る男の脇腹を蹴り飛ばした。
「ふざけやがって!」
「やっちまえ!!」
 高校生たちは、炭治郎のことなどすっかり頭にないようだ。突然現れた敵にいきり立ち、一斉に少年に殴りかかっていく。

 どうしようっ! 俺のせいでこのお兄ちゃんが殴られちゃう!

 焦りと困惑はあれど、乱闘に混ざり助太刀することもできない。うかつに手助けしようとすれば、逆に少年の邪魔をしてしまいそうだ。下手をして炭治郎が捕まれば、少年は一気に不利になるだろう。喧嘩などしたことのない炭治郎には、どうすれば少年の邪魔をせず助太刀できるかなど、まるで浮かびもしなかった。
 どうしよう、どうすれば。必死に辺りを見まわしたけれど、人影はまるでない。助けを呼びに行くことも、狭い道で繰り広げられる乱闘で、走り抜けることすら難しい。
 少年の邪魔にならぬよう、やきもきと見守るばかりな炭治郎の心配とは裏腹に、少年はとんでもなく強かった。
 大振りな不良たちのパンチと違って、少年の動きには無駄がない。いっそ捨て身と思えるほどに、向かっていく様にも躊躇がなかった。
 威嚇するかのような怒鳴り声をあげる不良たちに対し、少年は終始無言だ。ときおり、避けきれなかった攻撃に小さな声をもらしはするが、反撃は素早く、悲鳴など一度としてあげなかった。

 騒動は、さして時間を置かずに終わった。粋がってはいても、殴られる経験などろくになかったのだろう。高校生たちが戦意喪失するのは早かった。
「覚えてろよっ!」
 そんなお約束の捨て台詞を残して走り去る不良たちなど目もくれず、少年は、落ちた封筒を拾い上げると、無言で炭治郎に差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
 あわてて手を伸ばし、封筒を受け取る。少年はなにも言わない。うなずきすらしなかった。
 正面ではっきりと見た少年の顔は、やっぱりきれいだ。けれど、無表情でありながらも、どこか暗く険しい。それこそ、見据えられる炭治郎の身がすくむほどに。
 それでも、目が。

 炭治郎を見据えた瑠璃色の瞳が、たとえようもなく悲しげなのに、やさしくて。

 知らず、少年を見返す炭治郎の目から、ポロリと涙が落ちた。
「あ、アレ?」
 なんで涙が出たのか、炭治郎にもよくわからなかった。けれども涙はポロポロこぼれて、どうにも止められそうにない。
 少年から戸惑う匂いがする。泣く炭治郎を置いて立ち去ることもできず、困惑していることは明白だ。

 どうしよう、俺は長男なのに、知らない人の前で泣くなんて恥ずかしい。助けてくれたのに困らせるなんて駄目だ。泣きやめっ。

「ご、ごめ、なさ」
 必死に泣きやもうとしたけれど、涙は止まってくれなかった。やさしい瑠璃色の瞳が、狼狽をあらわに炭治郎を見ている。
 お金を取られずに済んだ安堵なのか、それとも、不甲斐ない自分に対する悔しさなのか。あふれ出る涙の理由は、炭治郎にもよくわからなかった。少年の瞳が呼び水となったのは確かだけれど、だからこそ、泣いてはいけないと思う。恩人である少年を、困らせるなど言語道断だ。
 泣きやめ、泣きやめと、うつむき必死に自分に言い聞かせていた炭治郎の頭に、トンっと、なにかが触れた。
 頭に置かれたのは、やさしい手。子供と接し慣れていないのだろう。しゃがみ込み、小さく撫でてくれる手は、ぎこちない。
 炭治郎の瞳は涙で濡れて、少年の顔もぼやけて見える。少年のやさしさが、炭治郎の胸を締めつけた。
 とうとうしゃくり上げて、嗚咽をこぼした炭治郎を、少年は無言のまま、ただ撫でつづけてくれた。

 父を亡くしてから、ずっと我慢してきた。泣いたら駄目だと、誰の前でも一所懸命笑ってみせた。
 悲しかった。つらかった。父にもう二度と逢えないことが寂しかった。でも、不幸せだと思ったことはない。
 悲しくても、不幸になったわけじゃない。炭治郎はちゃんと幸せだ。だって母も、禰豆子も、竹雄たちだっている。みんなを頼むなと、父にも任された。信頼してもらったのだ。
 家だってちゃんとあるし、ご飯だって変わらず食べられる。お店も繁盛しているから、今までより大変になることはあっても、不幸せになったわけじゃない。
 なのに、誰もが炭治郎をかわいそうだと言う。人のやさしさや思い遣りが、炭治郎を『かわいそうな子』へと変えてしまった。幸せな子とは、もう誰も思ってくれない。ちゃんと幸せなのに、悲しくてもつらくても、幸せがなくなったわけじゃないのに、誰も彼もが炭治郎を憐れむ。
 だから余計に泣けなくなった。かわいそうなんかじゃないよ、ちゃんと俺は幸せなんだよと、笑ってみせる以外に、なにができただろう。声を荒げて「かわいそうじゃない」と言えば、それこそ母が悪く言われるかもしれない。人の思い遣りを素直に受けとめきれない、ひねくれた子。そんな言葉で母が責められるのは絶対に嫌だ。
 こんなふうに泣いては、この人にも憐れまれるかもしれない。かわいそうにと言われるかも。泣いているせいで鼻が詰まって、匂いがよくわからない。少年がどう思っているのか気がかりなのに、匂いを嗅ぐこともできなくて、不安がふくらむ。

「……おまえが、羨ましい」

 不意に聞こえた声は、聞き取りにくいほどに小さく静かだった。どこか痛みをたたえているような声だ。
 少年の顔は、感情をどこかに置き忘れてきたかのように無表情で、言葉の真意はまるでわからない。けれども瑠璃色のやさしい瞳が、泣きだしそうに揺れていた。炭治郎よりもよっぽどつらそうに。
 泣く「かわいそうな子」である炭治郎を、羨望の目で、少年は見やる。つらく悲しく、叫びだしそうな痛みを、瞳の奥ににじませながら。
 ヒクリとひとつしゃくり上げ、ようやく泣きやんだ炭治郎は、濡れた目をまばたかせた。
 少年の手が静かに炭治郎の頭から離れた。立ち上がった少年は、炭治郎をどこか苦しげな目で一瞥すると、なにも言わずに踵を返した。
「あ、ま、待ってっ」
 引き留める炭治郎の声にも、足早に去る少年は振り返ってはくれない。
 名前が知りたい。もっとちゃんとお礼をしないと。泣いちゃってごめんなさいって言わなくちゃ。
 また逢えますか。そう、聞きたい。また逢ってくださいと、お願いしたい。
 だけれど、炭治郎は、なにも言葉にはできなかった。
 少年の背中は、見る間に遠く小さくなっていく。ずいぶんと足が速い。もうきっと追いつけない。

 見えなくなった背中を探すように、その場に佇んだまま、炭治郎は取り返してもらった封筒を、キュッと胸元で握りしめた。
 ふわりと心が軽くなったのを感じる。トクン、トクンと、鼓動がやわらかく甘い音を立てる。

 あの人にとって俺は、かわいそうな子じゃない。幸せな子なんだ。かわいそうなんかじゃ、ないんだ。

 それがただ、うれしかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 カランコロンと軽やかなドアベルが鳴る。集金後に店へと直接帰るのはいつものことだ。常連客たちが明るく声をかけてくれるのに、炭治郎も愛想よく返事する。
「おかえり、炭治郎」
「ただいま、集金してきたよ。あとこれ、いつもの貰った」
 厨房から顔を出した母に言えば、母も穏やかに笑い返してくれた。
「いつもありがとう。ご苦労様。ちゃんとお礼は言った?」
「大丈夫、言ったよ。食べたら俺も店に出るから。母さんの分とっておくから、交代で休憩しなよ」
 集金した代金の入った封筒を母に手渡して、炭治郎は、自宅へとつづくドアを開けた。竈門ベーカリーは職住隣接だ。店よりも居住スペースのほうがよっぽど狭いくらいだけれども、狭いながらも楽しい我が家。どこにいても家族の誰かしらの気配がする家は、にぎやかだし落ち着く。
 台所に直行し、貰ったフレンチトーストを皿に取り分ける炭治郎に、さっそく気づいた茂と六太が走り寄ってきた。
「兄ちゃん、おかえり!」
「おやつ?」
「あぁ。フレンチトースト貰ったぞ。温めてやるからな、ちょっと待ってろよ」
 レンジに皿を入れながら笑って言えば、小さな弟たちがうれしそうにはしゃぎだす。
 商店街の洋食屋に集金に行くと、フレンチトーストのお裾分けをくれることがある。昔からそうだった。しっとりフカフカとした甘いフレンチトーストは、賄いだけなのが残念なほどに絶品だ。竈門家の子供はみんな、このお裾分けが好物だった。

 あの日も、このフレンチトーストを食べた。

 思い出す懐かしい光景に、炭治郎の頬がわずかに緩んだ。
 泣きはらした顔で帰った炭治郎を、驚きに目を見張った母は、それでもやさしく抱きしめてくれた。封筒とフレンチトーストを差し出した炭治郎に、えらかったね、ありがとうねと笑い、どこか痛いところはない? と聞いた母は、泣いた理由を問わなかった。
 そして、あの日も炭治郎は、温め直した甘いフレンチトーストを食べた。口に広がるやさしい甘さは、なぜだかいつもよりも甘く感じられて、やるせない気持ちはもうどこにもなくなっていた。

 少年には、あれ以来一度も逢えない。二度と逢えないのかもしれないと、覚悟はしている。

「ホラ、できたぞ」
 わぁいと喜ぶふたりを微笑ましく見つめ、炭治郎も席につく。自分の分を半分に切って、さらに半分にしたら、茂と六太の皿に置き、いっぱい食べなと笑いかけた。
「いいのっ?」
「兄ちゃん、ありがと」
 父もよくこうしてくれた。茂や六太には、父との思い出が少ない。だから炭治郎は、父の代わりに、父が炭治郎たちにしてくれたことを、茂たちに繰り返す。
「甘いねっ、兄ちゃん」
「おいしいねっ」
「そうだな」
 フレンチトーストは、あのころとまったく味が変わらない。相変わらず絶品だ。

 だけど、あの日のフレンチトーストは、いつもより甘かったな。

 泣きはらした目のまま食べたフレンチトーストの甘さは、思い出とともに、炭治郎の胸に残っている。少年の瑠璃色の瞳を思い出すたび、あの甘さが胸に広がるのだ。
 もう一度逢いたい。願ってもかなえられることはなく、気がつけば炭治郎も高校生だ。少年を思い出すたび甘く切なく胸打つ鼓動は、最初は理由などわからなかった。これが初恋なのだと気づいたのは、ふらりと立ち寄った書店で買った本を読んだときだ。
『もう一度逢いたい』
 炭治郎の心情そのままのタイトルに惹かれて手に取ったその本は、それまで一度も興味を引かれたことなどない恋愛小説だった。真滝勇兎という作家の書いた小説は、たぶん内容的にはありふれたものだったのだろう。筆致もとくに目を見張るものはなく、初々しい初恋の物語が、淡々とした文章で書き綴られていた。
 読み進めるあいだ、炭治郎は何度うなずいたことだろう。主人公のいだく恋心は、少年を思い出しているときの炭治郎の心そのままだった。

 初恋。窮地にいた自分を助け、心まで救ってくれた、あの少年に恋してる。

 自覚してしまえば、炭治郎のなかで、再会を夢見る心は強くなった。けれど、願ったところでそうそうかなうわけもない。名前すら知らない人なのだ。何度かあの道にも行ってみたけれど、一度も見かけることはなかった。
 それでもいつかと願う心は、高校生になった今も消えてはくれない。
 真滝勇兎の本を、必ず買うようになった。なけなしの小遣いをはたいて、既刊をすべて買い求め――と言っても、あのころはまだ二冊きりだったけれど――夢中で読んだ。真滝の本は不思議だ。ほかの作家の恋愛小説も図書室で借りて読んでみたけれども、真滝の本ほど炭治郎の心を揺らすことがない。
 初めてファンレターを書いたのも、真滝に宛ててだった。
 中学生の書く手紙だ。きっとプロの作家からすれば稚拙なことこの上なかっただろう。返事は一度もなかった。でもそれは、当然だろう。ファンレターにいちいち返事をするなど、大変に違いない。残念だとも思わなかった。

「ごちそうさま。皿は水につけておいてくれ。俺は店に出るから」
「わかってるよぉ。姉ちゃんたちにもちゃんと、おやつあるよって言えばいいんだろ?」
「母ちゃんくる? 母ちゃんのは俺がお皿にのせたげるね」
「うん。ちゃんとわかっててえらいぞぉ、おまえら」
 ぐりぐりと撫でてやれば、面映ゆそうに茂と六太は笑う。幸せだなぁと、幼い笑顔に思う。

 初恋の甘さを胸によみがえらせたまま、炭治郎は店に出た。
「母さん、代わるから休憩して」
「悪いわね。今オーブンにパンオショコラ入れたから、焼き上がったら補充してくれる?」
「わかった。ゆっくりしてきて」
 
 客の対応をしながらも、ふとした瞬間に思い出すのは、瑠璃色の瞳。初恋のことは、一度も口にしたことがない。炭治郎の淡い恋心を知るのは、真滝勇兎ただひとりだ。
 真滝の小説を読むたびに、少年との恋を想像した。
 あの人はきっと、この主人公みたいにちょっと口下手で、誤解されやすいに違いない。やさしいけれど、きっと肝心なことではきっちり叱ってくれるんだ。そんな気がする。
 逢えないから余計に妄想はふくらんで、でも、誰にも言えず、真滝へのファンレターについ頭のなかにしかない少年とのアレコレを書き綴った。
 返事は来ないと思うからこそ、書けたのかもしれない。
 たった一度逢ったきりだ。ただの通りすがりと変わらない。そんな人に恋してると言ったところで、あきれられることぐらい炭治郎にもわかっている。
 初恋であることに間違いはないが、それも、淡く儚い憧れでしかないのだろうと、炭治郎も思っている。今はまだ、あの少年にしかときめいたりはしないが、いつかはそれも薄れて、誰かに恋をするのかもしれなかった。
 だけど、まだいいじゃないかとも思う。フレンチトーストの甘さは、まだ胸に残っている。食べるたびに、思い出す瑠璃色の瞳。あの日の涙。救われた心は、今の炭治郎を支えてくれている。
 本当の恋とは呼べないかもしれない。でも、恋しいのは確かなのだ。いつか本当の恋を知るまでは、ほのかな憧れを大切にしたっていいはずだ。
 時刻は四時になろうとしている。オーブンが焼き上がりを伝える電子音をひびかせた。店の看板商品のひとつであるパンオショコラの焼き上がりだ。
 いつか、あの人にも食べてもらえたらいいな。思いながら、炭治郎は商品棚に甘い匂いを立てるパンを並べていく。

 カランコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 振り返った炭治郎の目に飛び込んできたのは、白い肌に癖のある黒髪。静かでやさしい瑠璃色の瞳をした、男の人。
 あの日の狂おしい痛みの気配は、その瞳にはないけれど。

 憧れだけじゃない本当の恋の扉が、今、開いた。