朴念仁の恋の始まりは

 なんでこうなった。呆然としつつ、義勇は、目の前で真っ赤な顔をうつむかせている弟弟子を見ていた。
 とりあえず、起こってしまったことはもう取り返しがつかない。時を巻いて戻す術はないのだ。
 さて、どうしようか。改めてつくづくと炭治郎をながめる。恥じ入りうつむく炭治郎の肌は、露わになった耳やうなじまで赤い。見なくとも顔だって熟れたリンゴのように色づいていることだろう。
 正座して膝の上でギュッと拳を握りしめている様は、いたずらして雷が落ちてくるのを観念している子どものようだ。
 さて、どうしよう。もう一度考えて、義勇は、胸の奥からふつりとわき上がる小さな歓喜に、思わず首をかしげた。
 なぜ自分は、こんなことで心躍らせているのだろうか。これではまるで、自分のほうこそがいたずらっ子のようである。
 獲物を前に尻をフリフリと振る猫のような、奇妙な興奮が胸の内には居座っている。
 炭治郎を見ていると義勇は、いたずらを思いついた子どものようにはしゃぎたくなったり、父母のごとき無条件の慈しみがあふれだしそうになることがたびたびあった。それだけならば好意のや親愛の情で片が付くが、ときに胸をひき絞られんばかりの痛みを覚えたり、身を焼くような不快感に襲われることもあるのが、どうにも解せない。
 こんな感情を、なんと言い表せばいいのだろう。今まで覚えがないことだけに、理由がわからぬのは座りが悪くて、義勇はとまどうばかりだ。
 姉が読書家だったから、幼いころから書物は義勇もよく読んでいた。相談できる相手もおらぬ不甲斐ない身であるから、参考にできそうなのは、記憶のなかの小説ぐらいだ。
 なにか近しいものがあっただろうかと、記憶をひっくり返してみるが、年頃の少女らしく姉の愛読書は浪漫主義のものが多かったから、参考になどなりそうにもない。
 色恋など今は関係なかろうと、ため息をつきたくなった義勇は、知らず浮かんだ言葉にパチリとまばたいた。
 炭治郎を見ていると、いたずらしてからかってみたくなる。笑顔を見れば心なごみ、限りなく慈しんでやりたくなる。悲しげに目を伏せる様には、己の胸もしくしくと痛み、誰かと親しげに談笑しているところに出くわせば、無理にも引きはがしこの腕に閉じ込めてやろうかと苛立った。

 なんだ、それは。これではまるで。

 雷に打たれたような衝撃に、絶句する。なんてことだ、これではまるで、炭治郎に惚れているようではないか。
 今まで読んできた小説のなかに書かれていた、恋する者の心情は、まさに義勇の感情に当てはまる。
「あの……義勇さん?」
 無言のままの義勇を不審に思ったのだろう。炭治郎の顔がおずおずと上げられ、赫い瞳が義勇を見据えた。
 艶やかな瞳はザクロのように、甘酸っぱさをたたえて潤んで見える。義勇がごくりと喉が鳴らしたのは無意識だ。食べてしまいたいなどと、思った自分にこそ義勇はうろたえた。
「やっぱり、ご迷惑ですよね」
 寂しげに眉尻を下げ、自嘲めいた笑みを浮かべる炭治郎を、抱きしめてやりたい。けれども、それはできぬ相談だ。
 どうやら自分は炭治郎に恋しているらしい。自覚してしまえば認めるよりほかない恋情は、だが、炭治郎に告げるわけにもいかなかった。
 炭治郎の初心さは、かなりのものらしい。遊郭への潜入捜査のときの様子を、宇髄が笑いながらほかの者へと話しているのを聞いたことがある。
 きっと炭治郎は色恋など考えたこともないだろう。ましてや自分は兄弟子である。男同士だ。男女の仲でさえうとい炭治郎を、男色の道へなど引きずり込めるはずがない。
 迷惑だろうとは、こちらの言葉だ。こんな感情は、炭治郎にとっては迷惑千万極まりないに違いない。けれど。
「すみませんでした、忘れてください」
 今にも涙を零さんばかりに悲しく言って立ち上がり、去ろうとする炭治郎を見てしまえば、自制心にひびが入った。ピシリと音立てて走った亀裂と同時に伸ばした腕が、炭治郎の体を抱きすくめる。
 迷惑だろうが、抑えが効かない。ならばせめて諦めさせてくれと、義勇は、炭治郎を背後から抱き締めたままささやいた。
「すまないは俺の言葉だ……炭治郎、どうやら俺は、おまえに惚れているらしい」
「は?」
 どこか間の抜けた声をあげ、途端にビシリと固まった炭治郎に、義勇が袖にされる覚悟で待っていれば、ぎこちなく炭治郎の顔が振り向いた。
「えっと……それ、なんで俺は謝られているんでしょう?」
「……俺に惚れられても、迷惑だろう」
 無理強いしたいわけではないのだ。立場を利用し関係を迫る気など毛頭ない。親愛の情すら失う覚悟で述べた告白に、けれども炭治郎はいよいよ呆気にとられて見える。
「なんで、迷惑? え? あれ? 両想い……で、いいんですよね?」
「は?」
 今度は義勇が間の抜けた声を出す番であった。
 炭治郎は今、なんと言ったのか。両想い? それでは炭治郎も自分に惚れていることになるではないか。
「俺、言いましたよね? どうか義勇さんのお好きなように俺を使ってくださいって。そしたら義勇さん、そんなことを二度と言うなって……」
「当たり前だろう。俺は下の者を手駒のように扱う気はない」
 だから断ったのに、炭治郎は泣きだしそうに落ち込んでしまったから、こっちも困り果てていたというのに。
 ん? と互いに首をかしげたあと、炭治郎が腕のなかで身じろいだ。
 腕をゆるめると、「ごめんなさい」と呟くから、義勇は知らず肩を落とした。炭治郎はこのまま立ち去り、今までのような笑顔など見せてくれなくなるのだろう。それもまたしかたのないことだと、自嘲の笑みが浮かびかけたが、炭治郎は立ち去るどころか義勇に向き直り、胸に抱きついてきた。
「言い直します。義勇さんを、俺、心からお慕いしてます! 義勇さんになら、なにをされてもいいぐらい、好きです!」
 真っ赤な顔をして、けれども先ほどまでの悲愴感など露ほどもなく、炭治郎は笑って義勇を見上げていた。
 ポカンとしながらも、ふつふつと胸の内に歓喜がわき上がるのを義勇は感じた。
 そうか、とつぶやき、炭治郎の背を抱き返す。朴念仁だと散々胡蝶にはからかわれたものだが、どうやらそれは事実だったらしい。
 自覚した恋は見る間に膨れ上がって、温かな炭治郎の体を抱きしめる腕は、しばらくほどけそうにない。
 今まで読んだ小説の、どんなに可憐でやさしい笑顔を表した文章も、今自分を見上げるこの顔には敵うまいと、炭治郎の笑顔を見下ろし、義勇も笑った。