カチャカチャカチャ。
リズミカルな響きは、途切れることなく続いてる。
カチャカチャカチャ。
軽やかに動く白い指、止まることを知らずに踊る。
ヒル魔の家に着いてからずっと、じっと、葉柱はそれを見てる。ヒル魔が脱ぎ散らかした制服をハンガーにかけて、すっかり覚えたヒル魔好みのコーヒーを煎れたら、命令待ちの態勢。まるでよく躾られた犬だ。思うけれど、視線は白い指先。小揺るぎもせずに。
なにを打ち込んでるのかは、知らない。大方アメフトのこと。というか、それ以外には、ない。ヒル魔が夢中になるものなんて。
葉柱は、じっと待っている。愛しいマスターの命令を。言葉にしなくても、待て、とマスターは態度で示していたから。
マスターの命令は、絶対、だから。
葉柱の視線の先、踊る、指先。白く。細い。
綺麗だと、葉柱は思う。神様が、愛して、愛して、愛し狂って、作り上げた手だと、思う。
神様なんて、信じちゃいないけど。手にかまけすぎて――ああ、でもこいつ、足も綺麗だよな。腰のラインとかも――中身を悪魔にしちまうようなドジな野郎に、祈る気なんてさらさらないけど。
それでも、感謝している。奇跡みたいなその手を作り上げた、誰かに。世界中のなによりも愛しい存在を、生み出したすべてに。
葉柱は、じっとヒル魔の命令を待っている。ヒル魔の家の、ヒル魔のソファに座って、ヒル魔の白くしなやかな手だけを、ただじっと見つめて。
退屈、なんてことはないけれど。手持ちぶたさの観は、拭えない。ヒル魔の指がキーボードを叩く音だけ響く、静かな部屋。葉柱はソファに身を投げ出して、じっと待っている。意識はすべて、ヒル魔に。視線はずっと、奇跡のような愛しい手に。
葉柱は、沈黙のまま、マスターの命令をただ待っている。ただ、見てる。大好きな手を。
大好きだから、飽きるなんてことは、ない。だけど、手持ちぶたさは、否めない。それでも、葉柱は動かない。マスターの新しい命令は、まだ下されていないから。
マスターの命令は、絶対、だから。
「……おい」
「あ?」
不意に沈黙を破ったのは、ヒル魔。命令か? 即座に視線を上げれば、不機嫌なご主人様の顔。整った眉はきゅっと寄せられ、口はへの字。釣りあがった大きな目、ぎろりと葉柱を睨んでる。悪魔の形相、一歩手前。
なに? 俺、なんかした? いつ地雷踏んだ? つか、見てただけだし。
つっと背を流れる冷や汗。ただでさえ長い「待て」が、ご機嫌を損ねて「お預け」になったり「お仕置き」になったりしたら、目も当てられない。
気まぐれ気分屋超我儘な、ご主人様。理不尽非常識破天荒な言動にも、慣れはしたけど、いつどこに地雷が仕込まれてるか、わかったもんじゃないから、葉柱は焦る。
なにしろ愛しのご主人様は、極悪外道鬼畜な悪魔様、なので。
だけど誰より、大好き、なので。
「じろじろ見てんじゃねぇよ、糞奴隷」
そうかよ。そうくるかよ。
すぐさま額に浮く青筋。葉柱の指、所在なく乗せていたソファの背持たれに食い込んで。だけど見ていたのは本当だから、反論は飲み込んだ。視線は床に。見るなと言うなら。命令なら。
マスターの命令は、絶対、だから。
見られてるぐらいで気を散らすタマじゃねぇくせに。やましいこと考えてたわけでもねぇし。綺麗だなぁと、思ってた、だけで。見惚れてた、だけで。やましいことは、まだ、なにも……。
そう、見ていただけ。他意はない。ガンつけならこんなぼーっとしてねぇし、視姦ならもっとハッキリやるっつの。
見ていたかったから、見てた。好きで、好きで、大好きな、神様に愛された手を。ずっと、見てた。だけなのに。
舌打ちを堪えたら、舌がてろんと垂れた。
泣きたい、なんて、死んでも言わねぇ。
ちっ。聞こえた舌打ち、一つ。
葉柱の舌は、てろんと垂れたまま。だから、今の舌打ちは、ご主人様。
焦る。そりゃもう、葉柱は、焦る。
理由はまるっきりわからないままだけれど、ご主人様は、とにかくご機嫌ななめ。不機嫌さを増してるご様子。
このままいけばお預け食らって、ソファで寂しく一人寝。最悪、追い出されるのは必至。マシンガンで蜂の巣のオプションは、予想の範疇。
つか、できればランチャーぶっ放すのは、勘弁して。
「なに目ぇ逸らしてやがんだ、糞奴隷」
……えーと、もしもし、ヒル魔さん? それはどうなんでしょう、my master.
見てんなっつったのは、どこのどちら様でしたっけか? アァ!?
ぴきぴき増える青筋は、もはや条件反射。ひくりと口許歪ませて。お望み通りとばかり、ぎろりと睨めば。
「手ばっか見てんじゃねぇよ」
怒ってる、というよりも、拗ねてる、なんて言葉が似合う声で。眉間の皺はそのままに、少し唇尖らせて言うから。
「テメェ、しょっちゅう俺の手見てんよな。そんなに好きかよ、これ」
ぷらぷらぷら。白い手揺らして、ふん、と鼻を鳴らす。眼差しは見下すそれ。声音は拗ねてる。
「……好きでワリィかよ。テメェの手、綺麗だし……」
好きだって、いつも、いつでも、思っているけど、口にすることは滅多にないから、葉柱は少し口ごもる。鼻で笑われたら辛いな、なんて思いながら。
「ほー、んじゃテメェはこいつが道端に落ちてたら、ぼけっと見てんだな? 鼻の下伸ばしてよ、ついでに人外な舌もみょーんって垂らしてよぉ、ニヤニヤ見てんだな?」
いやいやいや。それ怖いからっ。道端に手だけ転がってたら普通に怖いから!
てか、俺そんなニヤニヤしてたか?
「んなに好きなら手しか見んな。触んな。手以外に触ったらテメェぶっ殺すからな」
突き出した手、ぷらぷら振って。ご機嫌ななめのご主人様。
それ、命令? 泣きそうなんですけど? つか死ぬ。そんなん守ったら、死ぬよ? 俺。ヒル魔欠乏症、カラカラに干からびて、奴隷の干物の出来上がり。
不意に思い出した、猟犬の話。追い込んだ兎の巣穴の前で、いつものように前足あげて、いつでも命令してください。ご主人様の大事な獲物、逃さないよう身動きもせずに。
大好きな主人は道に迷った挙句、自分を置いて帰っていったとも知らないで。待って、待って、ただ待って。見つけ出されたときにはガリガリに痩せ細って息絶えてた、忠実な猟犬。前足上げて、ハンティングポーズ。立ったまま。
泣けたね、マジで。俺もテメェと同じだ、スゲェわかるぜ、テメェの気持ち。つか犬とマジで同類かよ、俺。いやもう本当に泣けた。しみじみと。
俺も待つのかな。命令されるまで、身動きせずに。「待て」って言われたら、死ぬまで、死ぬ瞬間まで、それとも死んだ後も。ずっと、じっと、待つのかな。
そんなこと考えてたら、聞こえたのは拗ねた声。少し寂しげ。
「手、だけかよ……」
葉柱は、きょとんとまばたきする。
手だけ、なんてこと、ねぇよ? そりゃ大好きだけど、それはテメェが好きだからだし。
内緒だけど、初めに気になったのは、テメェの手。初めて俺のバイクにテメェが乗ったとき、怒鳴っても横座りしたまま、平然と笑ってやがるから。
せめて掴まれって、妥協案。受け入れられて、腰に回った悪魔の腕。シャツの腹を掴んだ手、眩しいくらい、白くて。握りしめたら折れそうなくらい、長い指、細くて。悪魔の手にはひどく不似合いな、綺麗な手に、どきりとした。
でも、それはただのキッカケにすぎないし。今は、悪魔な中身も全部、大好きで。大好きだから、手も好き、なんであって。
つか、な。それってさ。それって、まさか。
「嫉妬……?」
まさか、な。だって手だぜ? 自分の手。自分にヤキモチ妬く奴がどこにいるよ……って、いたよ。いるよ。目の前に。
「ばっ、テメッ、んなワケあるかっ! 誰が嫉妬なんかするか、ざけんな、糞エロカメレオン!」
尖った耳の先から首筋まで、余すことなく真っ赤ですが? my master.
いつでも立て板に水のマシンガントーク、どもるのなんて初めて見た。
悔しそうに小さく唸って、ジャキッと構えるデザートイーグル、大好きな指はトリガーに。
「待て待て待てっ! テメ照れ隠しに撃つのやめろっつの!」
「誰が照れてんだ、糞奴隷! 脳味噌入れ換えてこい!」
喚くから立ち上がり、葉柱は、長い腕でヒル魔を捕まえる。抱きしめるよりも緩やかに。包み込む。触れないまま。触れるなと、言われたから。
マスターの命令は、絶対、だから。
「つかよ、テメェの手だろ? テメェしか見てねぇのは変わんねぇじゃん」
囁けば、コトリ、テーブルに置かれたハンドガン。だけどまだ、返されない抱擁。
「……どこまでが俺だ?」
「は?」
「俺が俺としてあるのは、俺の意識が存在するからだ。たとえば俺が死んだとして、そこに肉体はあっても、それはただの死体であって俺じゃねぇ。そこに俺の意識は存在しねぇからな。手だって同じだ。俺が動かさなきゃ、手はただの手だ。マネキンの手と変わりゃしねぇ」
………………。
葉柱は、無言。ちょっと混乱。
待って。いや、あの、ちょっと待って。
「テメェはこの手が好きなんだろ? 別に俺は関係ねぇだろ? 手だけ見てたんだもんな、お前。なんなら型取って複製造ってやろうか。手がありゃ満足なんだろ、糞奴隷」
声はもう怒っていない。ただ拗ねてる。子どもみたいに。そっぽ向いて駄々をこねてる、凶悪悪魔。こんなに可愛いなんて反則だろ。
「んなわけねぇだろ。手だけでも、ほかの奴にこの手がくっついてても、見たいなんて思うかよ」
理屈はまるでわからないままだけれど、わけのわからない屁理屈みたいな理論すら、なんだか無性に可愛くて。ただもう闇雲に、愛しくて。葉柱は、腕のリングを少し狭める。
抱き締めたいよ。強く。ねぇ、触るなの命令はまだ続行中?
お伺いの視線。ヒル魔の腕はまだ下げられたまま。ヒル魔の関心を独り占めしてたノートパソコンも、まだ閉じられぬままで。
でも、耳の先はまだ赤いから。拗ねた口許、それでも眉間の皺は取れてるから。
「見たい……つったら、全部見せてくれんのか? 見てていい? つか、できれば触りてぇんだけど」
犬じゃなくて、良かった。葉柱は思う。抱きしめることができるから。お許しが出れば、それ以上も。
だからお願い、触れさせて。
「触る、だけかよ」
なんて。まったくもってとんでもない。タチが悪い。拗ねた声で、上目遣いで、そんな風に煽らないで、マスター。愛しさで眩暈がしそう。
「カッ! んなわけねぇだろ」
「ふーん」
気のない言葉、微笑む口許、アンバランス。意地っ張り天邪鬼素直じゃない、ご主人様。可愛くて。
「抱きしめても?」
「勝手にすれば?」
葉柱は、ヒル魔を抱きしめる。強く。上向くヒル魔の顔、微笑んでいるから。葉柱も笑って、額を合わせる。
「キスも、いい? できれば、テメェの全部に」
「……好きにしろ」
お許し? いやいや、命令でしょう。
目を閉じたら、パタン、小さな音。ヒル魔の白い手が、ノートパソコンを閉じた音。
大好きな腕が、するり、首に絡んで。大好きな指が、くしゃり、髪を掴む。
だから葉柱は、そっと口づける。大好きな、ヒル魔に。
その後は、Go to the heaven.
マスターの命令は、絶対、だから。
END