その日、ヒル魔はたびたび軽く眉をひそめていた。
他愛ない会話の途中であったり、コミュニケーションの軽いキスの最中だったり、タンデムシートに座る瞬間だとか、コンビニでの買い物の途中にも。何気ない動作の合間、何度も。
それに葉柱が気付かぬわけもなく、最初の内はどうしたとそのたび訊いていたのだけれど、いずれもヒル魔の答えは
「なんでもねぇ」
なんでもないってことはないだろ? どっか痛いのか? 調子悪い?
訊くたびヒル魔の機嫌は低下して、今や眉間の皺はくっきりと刻み込まれたまま。
30分も前にデータ入力は済んでるはずで、一度は愛用のWAIOを閉じたというのに、さすがに問うのを諦めた葉柱の気遣わしげな視線だけでも、気に障ったらしい。
舌打ちひとつ、ギロリと葉柱を睨みつけて。再びノートの電源を入れてから、また30分。一度も葉柱を見ないまま、なにやら画面と睨めっこしてる。
なにがヒル魔をそんなにも苛立たせているのか。放置されている間中、葉柱もずっと眉根を寄せたまま考えていた。
ヒル魔のこの態度の始まりを、必死に思い返す。
始まりは多分朝。いつものようにシャワーを浴びてきたヒル魔の、綺麗に整った眉はちょっと寄っていた。
シャツの胸許、やけにパタパタと風を送っていたヒル魔。葉柱の第一回目のどうしたは、確かにこの時。
なんでもねぇと返す声には、不機嫌さよりも強く、戸惑いの響き。繰り返し問えば、少し声を荒げて同じ答えをこれまた繰り返した。耳の先、ちょっぴり赤く染めて。
と、いうことは。
原因はシャワー中? いや、大元はその前か?
けれどシャワー前といったら、とろけるような快楽の余韻に浸りながらともに眠りのなか。起き抜けの様子はいつもと変わりなかったし。
眠る前の行為についても、葉柱にしてみれば特別なことなどなにもなかったはず。いつものように、感度の良いヒル魔の体躯の隅々まで堪能して、ヒル魔も葉柱の愛撫すべてに甘く呻いて喘いで、細い体震わせ揺らして、存分に悦楽のときを堪能していたと思ったのだけれど。
「可愛かったのによ……」
思わず。ぽつり葉柱が零した途端、不機嫌を絵に描いたような顔でヒル魔が睨みつけてくる。当然のように、手には愛用のハンドガン。膨大なコレクションから本日のチョイスはS&W。
「……おい、テメェ乳離れしたの何歳だ?」
はい?
葉柱はホールドアップの体勢のまま、小首をかしげる。質問の意味を理解するまで15秒。意図は未だ理解不能。
「赤ん坊のころのことなんて覚えてねぇよ」
「嘘つけ。ゼッテェに小学生までママのおっぱいにむしゃぶりついてたクチだろ」
「んなわけねぇだろ! つか、それは絶対に、ねぇ!」
「ムキになんのが怪しい。もしかしてまだ吸ってんのか?」
「っざけんな! テメ、人をなんだと思ってやがる。どうせ吸うならテメェのを吸うっての!」
ぴきぴきと青筋立てて葉柱が怒鳴れば、瞬間、ヒル魔のなかでなにかがぷつりと切れたらしい。
「っざけんなたぁこっちの科白だ! 糞ジョルジュ!! テメェ夜中におっぱいおっぱい言いながら腕振ってやがんだろ!」
「なんだそりゃ!? してねぇっての! つか、ジョルジュってなんなんだよ!」
「そこはつっこまなくていい」
「……了解」
一呼吸おいて。
「ともかく、テメェ吸いたきゃ哺乳瓶買ってきてそれ吸ってろ」
「できるかっ! テメ、そりゃどんなプレイだよ!」
もしかしてそういうマニアックなプレイがしてみたいとか? ……なんて。ちらり葉柱の頭をよぎって、うっかり赤ちゃん言葉のヒル魔が浮かんだのは、ひとまず置いておいて。ちょっとだけ見てみたいとか……いやいやいや、なしなしなし。こいつがんなことするわきゃねぇ。だからひとまず頭から追い出して。
「それが嫌なら禁煙パイポでも我慢してやる。煙草は却下。糞甘ったるいキャンディも却下。んなもん舐めた後でキスしてきやがったら、ブッコロス」
ニヤケそうになる間も与えず氷点下を思わせる声で言われ、葉柱は軽くパニック。
「ったく、口寂しいなら自分の舌でも吸ってやがれってんだよ。テメェが乳離れできてねぇせいでこっちは……」
ぴたり。苛立つ声、止まって。
え? と見返す葉柱の視線、ヒル魔の顔から、胸元、そしてまた、ヒル魔の顔へ。ヒル魔の耳がぽわんと赤く染まる。
「……えーと……もしかして」
「……っだよ! テメェがしつこく吸い付いてきやがるから、服でこすれてイテェんだっつうの! ちりちりずっとむず痒いし、しょうがねぇってんで、カットバン貼ってみりゃみっともなさすぎて情けなくて泣けてくっし、着替えん時も気が気じゃねぇし! なんで俺がこそこそ背中向けて着替えなきゃなんねぇんだっ!」
耳と言わず顔から首筋から白い肌を余すことなく赤く染めて、ヒル魔は喚く、喚く、喚きたてる。
言われてみれば、葉柱にも心当たりがないこともない。だから、申し訳ないことしたなぁ、とか、今日からちょっと気をつけねぇとな、とか。そんな風に素直に思いかけたのだけれど。
「も、テメェ、二度と吸うな! 今度吸い付いてきやがったら、二度とテメェとはセックスしねぇからなっ!」
ショック。より先に、こめかみにぴきりと青筋立ててしまうのは、葉柱にもそれなりに言い分があるからで。
「テメェ、全部俺のせいかよ、あぁ!?」
「テメェ以外に誰が俺の乳首に吸い付いて舐めまわすってんだ! テメェの非を棚に上げて浮気でも疑ってやがんのか、あぁっ!? 冗談じゃねぇぞっ、これでも貞操観念固ぇんだよ、俺は!」
「ったりめぇだ! 俺以外の奴がテメェにんなことしてみろ、そいつ1センチ角に切り刻んで魚の餌にしてやるっつぅの! っつか、話の焦点そこじゃねぇ!」
お互い喉を枯らしての怒鳴りあい。肩で息して。微妙に惚気てるように聞こえるのは、お互い気づかぬまま。
「言っとくがなぁ、いっつもテメェが、はばしらぁ、そこ好き、もっとしてぇ、なんておねだりしてくっから、リクエストにお応えしてるんだぜ、俺は」
「……ってねぇ、言ってねぇだろ、んなこと! 誰がんなみっともねぇこと言うか!」
「言ってますぅ。わざと周りだけ舐めてりゃ、焦らしちゃやだ、ちゃんと舐めてぇ、強く吸ってぇって、胸突き出して言ってますぅ」
「ッダァー! 気色悪い声で熱演すんなぁぁ! っつか、百万歩、いや、一億歩譲ったとしても、んなキモイ言い方した覚えはねぇっ!」
とはいえ、ヒル魔にも思い当たる節が無きにしも非ずなんだろう。口調はともかくとして。だから余計にムキになる。意地っ張りの負けず嫌いは筋金入り。高い矜持はエベレストを超えるほどだから。
そうなると、やっぱり葉柱も意地を張りたくなったりもして。大概のことは、ことヒル魔に関しては譲るけれど、元々は我侭末っ子気質。ついでにこちらも強固な負けず嫌い。でなけりゃアメフトなんてやってられない。
それよりなにより。
「大体、テメェ乳首いじられんの大好きじゃねぇかよ。もしかして乳首だけでイけんじゃねぇの?」
いつもそこを愛してやると、ヒル魔は可愛く喘ぐから。たまらないと身をよじって、きゅっとしがみついてくる仕草が、葉柱は大好きだから。
触れずに済ませるなんて、絶対に、無理。
「んなわけあっかよ! 人を淫乱扱いすんな!」
「言ったな? んじゃ、賭けようぜ。乳首だけでテメェをイかせられるかどうか」
だから、その命令だけは是が非でも撤回してもらわないと。
「え……あ、ちょっ、テメ馬鹿なにす……っ!」
まずはキスで自慢の舌遣い堪能していただいて。
喚いて暴れて罵って。散々抵抗しても、いつでも最後には纏う空気は甘く甘く、舌先が痺れるほど、甘くなるのが、常だから。
だからお願い。じっくりたっぷり愛されて? いつでも手抜きなし、本気で愛させて。勝負だとか賭けだとか、そんな言葉で誤魔化してもかまわないから。
長いキスは寝室まで。ベッドに横たわれば試合開始のホイッスル。
今日の勝者は、はたしてどちら。
「……なんでそんなに機嫌ワリィの? ルイ」
カメレオンズの部室、どんより重い空気のなか、こういうときの切り込み隊長は銀なのが、カメレオンズのお約束。
機嫌悪い、というよりも、落ち込みまくってる、っていうほうがしっくりくるけれど、一応主将でヘッドの顔を立てて。当の本人に聞かずとも、空気が重くなるほどの落ち込みの理由なんて、誰の頭にも一人しか浮かばないけれども、とりあえず。
「……あー、ちっと喧嘩しちまってよ……」
「ヘーソーナンダー」
誰と? とは誰も聞かず。いつもの罵倒合戦は喧嘩じゃないんだぁ。あれって誰が見ても喧嘩なんですけどねー。わかっちゃいたけど、やっぱりあんたら人前でイチャついてたんですねー。とは、誰も言えず。
あー、聞きたくねー。と、誰もが思いつつ。
「……なんで?」
「え? あ、いや、大したことじゃ、ねぇんだが、よ……」
おいおい。なんでそこで赤くなる。なんで口ごもるんスか。うっわぁ、考えたくNeeeeeeeeeee!!!!!!
先ほどまでの落ち込みっぷりはどこへやら、見ようによっては恋する乙女のごとくにもじもじとしてる、賊学ヘッド。賊学生の誰もが恐れ、尊敬しているはずの、最凶の看板しょった。
愚痴という名の惚気を、落ち込まれているときよりも、もっと空気を重くしてカメレオンズの面々が聞かされているころ。泥門でも同じような質問に、ヒル魔のマシンガンがいつもより盛大に乱射されたという。
お願いですから喧嘩はほどほどに、と、両校アメフト部員の誰もが祈ったという話。
END