いつもの帰り道。いつもの寄り道コース。いつものコンビニは、今日も安っぽいラブソング。空気より存在の軽い有線のBGM。
それなのに。
不意にするりと耳に入り込んで、意識をかっさらった、ワンフレーズ。別に好きなアーティストってわけでもなく。ただそのフレーズだけが、心に残って。
「……懐かしい歌かかってんなぁ」
「あぁ? テメェこんなんが好みかよ」
無意識にぽつり呟けば、ふん、と鼻で笑ってご主人様。ちらりと上目遣いに向けられた視線も、すぐに雑誌の棚に戻される。
少し苦い顔して葉柱、そういうワケじゃねぇよ、と、小声の主張。
愛しのご主人様はお目当ての雑誌に夢中。会話は続きそうにもないので。なんとも気恥ずかしくて、続けたい話題では、ないので。
葉柱の下げたカゴのなかには、いつものラインナップ。無糖ガム、コーラのペットボトルは1リットルサイズ、弁当は二つ。本日は和風ハンバーグ弁当とロースカツ丼。ハンバーグがヒル魔、カツ丼は葉柱。きっとカツの二切れくらいは、ヒル魔の胃袋に収まる筈。最悪、カツ丼が玉子丼になるのは想定内。
ちったぁ野菜も食えと、葉柱が無理矢理入れたツナサラダの他は、みんなご主人様セレクトで占められた買い物カゴ。
つか、な。晩飯の選択権くれぇ、くんねぇ? テメェがどっちも食いてぇからって、人の意見は無視かい。ちょっとの逡巡も見せずにさっさとカゴに入れやがって。
青筋立てた当然の文句は、ケケケと至極ご満悦な態のデビルズスマイルでこれまた当たり前のように流されて。舌打ちひとつ。ま、カツ丼でもいっけどよ、なんて。それで受け入れている自分も大概終わってると、葉柱は思う。
こういうのって、なんだかなぁ。ヒル魔より前につきあった女たちには、亭主関白ってぇの? 三歩下がってついて来いってなもんだったんだけど。
そりゃまぁ、好みのタイプは昔から気の強い美人。一筋縄じゃいかないのが、イイ。とはいえ、譲れない線は、あるわけで。
折れてみせるのは、精々五回に一回ってところ。やりあう過程が楽しいんであって、屈服するのが好きなわけじゃない。断じて、ない。なかった、はず、だ。
なんだかなぁ。またぼんやり思って、葉柱は流れる歌声をなんとなく意識の片隅で追いかける。
この曲がしょっちゅう流れてたのは、誰の部屋だったっけか。
行くと決まってこの曲の入ったCDをかける女。あー、なんか金髪だった気もする。ブリーチしすぎの髪は傷んでて、指通りが悪かった。ような、気が、する。
記憶は至極曖昧。ま、頭のなかはヤルことしか考えてなかったし。好きだったと、思うけど。お気に入りしか傍においておく気はねぇし。気に入って、付きあってた、はずだけど。
ヒル魔以前、ヒル魔以後。わかりりやすすぎる、この変化。まったくもって、なんだかなぁ。
「あ、忘れモン」
レジに向かう途中足を止めて、ヒル魔がぽいとカゴに放り込んだのは、小さな箱。悩みもせずにひょいと手に取って、躊躇いもせずに、無造作に。
「あー、そういや切れてたか」
「おぅ。ねぇと生でしようとする奴がいっからなー。買い置きもすぐに切れっしよ」
「中にゃ出してねぇだろうが」
「ッタリメェだ、ご主人様の許可なしに中出しなんかしてみやがれ、テメェ、当分禁止令食らわすぞ」
「カッ! んなこと言うなら、ちまちまコンビニで買ってねぇで、いっそ徳用買っとけよ、テメェ。腐るもんじゃねぇだろうがよ」
「あん? ご主人様に向かって命令か? それに、腐らなくても劣化はすんだぜ。穴あきじゃ意味ねぇだろうが」
「ちっとぐれぇ漏れたってガキできるわけじゃあるまいし。第一、穴あく前に使い切ってるっつうの」
「糞エロ爬虫類」
「カッ! 爬虫類言うなっ!」
ケケケと笑う。照れもせず。唇吊り上げ、キバ煌かせるデビルズスマイル。ほかの誰に見せるより、ちょっとだけ邪気のない、いっそガキっぽいなんて言葉が似合いの……いやいやいや、そう見えるのは、きっと自分だけなんだろうけれども。可愛い。なんて。終わってるっての。末期だっての。
ご主人様はふんとまた鼻で笑って、平然とかわす際どい会話に、レジの兄ちゃんが硬直するのなんて気にもとめない。
この手の会話は照れもしないくせに、服を脱がされる瞬間には、今も少し緊張見せるのが可愛い。なんて、絶対に口にはできないから、葉柱だけの秘密。
とは言え人目もある場所での会話としては、やっぱり不適当なのは否めない。
葉柱だって気にするガラではないけれど、ゴム製品の小さな箱にリーダーを当てる手が震えてるのを見て、少しばかり気の毒には思う。
そらまビビりもするだろうさ。と、苦笑すら浮かべて。
なにしろこの界隈じゃ知らぬ者とていない、最凶賊学ヘッドに歩く危険領域な泥門の金髪悪魔の二人連れ。
すっかり馴染みの顔ぶれとはいえ、かわす会話がこれじゃ、今晩はきっとうなされることだろう。
ま、たかがコンビニのバイトと客とはいえ、俺らと関わったのが運のつきだ。諦めろ。人生なんてこんなもんだぜ、兄ちゃん。
コンビニを出て愛車に跨ったら、荷物はヒル魔に。文句をつけることなく受け取ったら、タンデムシートに横乗りする金髪の悪魔。いつもの行動。代わり映えなし。
だけど。
「で? 思い出してたドリカム好きは、どの女だ? ミキ? サナエ? それともショウコか? そういやテメェが付き合ってた女で名前に子がつくの、ショウコだけだな」
「っ!? テメ、なんでそれ……っ」
思わず赤くなって。すぐ青くなった葉柱。ヒル魔はますます悪魔の笑み。見下すように。
「俺様の情報網ナメんなよ、糞奴隷」
ナメてません。重々承知しております、ご主人様。
ナメてかかれるタマなら、こんなに惹かれもしなかろうに。振り回されて、翻弄されて、気がつきゃヒル魔の命令は、自他ともに認める葉柱にとってのトッププライオリティ。というか、その存在自体が。
夢中んなって。必死になって。支配者の瞳、痺れるように絡めとられ、自ら膝を屈することを躊躇わなくなったのは、一体いつから?
言葉にしないまま始まった関係は、それでも主従の線を崩さずに。「初めて」のいくつかは覚えちゃいるが、想いの始まりは酷く曖昧。それを確定するより、終わりの瞬間を思い描くほうが、きっと容易い。
不安だらけ抱えた恋愛。だけど手放せないから、なんだかなぁ。始末に困って、それでも好きで。
だから。
まだ、先だ。その瞬間は、まだ。今は、まだ。
心の底に怯えを沈めたら、エンジン始動。のっけからフルスロットル。
ナメるより舐めたいなんて思いもしなかった頃に、戻りたいとは欠片も思わないから、今は、まだ。多分、きっと、ずっと。
「続きは帰ってから聞いてやる。行け」
「カッ! 了解しました、ご主人様! テメェ笑いすぎて落ちんなよ!」
ばつの悪さ誤魔化すように怒鳴って、葉柱はバイクを走らせる。
ああ、もう、本当に、なんだかなぁ。
格好悪いことなんて、大嫌いだったはずなんだけど。
ヒル魔の前じゃどんなに格好つけようとしても、いつでもどこか空回りしてる気がすると、葉柱はこっそり溜息を吐く。
だけど、それでも好きなんだから、しょうがない。なんだかなぁとぼやきながら、必死に命令を遂行し続けてる。
ヒル魔の家に着いたら、まず向かうのはキッチン。清潔にしてるというよりまるで使っていないって感じのキッチンは、多分この家で唯一の葉柱専用な領域。
そこで葉柱はコーヒーを煎れる。それがヒル魔の家での最初の仕事。豆を挽くとこからサイフォン使って丁寧に。細心の注意を払って真剣に。
初めて来た時にはインスタントしか置いてなかったのに、サイフォンで煎れられるぜ、と口を滑らせた次の日には、一式きっちり揃ってたから。もう、しかたがない。
当然、ヒル魔が使うわけもなく。ヒル魔のために使われることに変わりはないけど、使うのは勿論葉柱だけ。今じゃ葉柱がインスタントを煎れると、たちまち不機嫌になったりもする。
まぁ嫌いじゃないしと思いつつ、今までの自分と比べりゃやっぱり、なんだかなぁ。
カップを持ってリビングに戻れば、ヒル魔はPCに夢中。いつものこと。
「おらよ。火傷すんなよ?」
「ん……で、ドリカム好きは誰だって?」
もしかして帰りの会話は忘れてくれたかな、なんて淡い期待、浮かんだ途端に砕いて下さいますか。ご主人様。
ええ、もう、いつものことですよね。ええ、もう、わかってましたよ。畜生め。
「……覚えてねぇよ」
「嘘つけ。正直に答えな、糞奴隷」
やけに絡む口調に、葉柱はちょっと首を傾げる。
昔のことなんて関係ねぇし。テメェが今までに誰と付き合ってようと、今俺だけを優先するならそれでいい。
そんな言葉と態度で、事実今まで葉柱の元カノになんてまるで興味を示さなかったのに。
なんで今日に限って絡むわけ? なんか気に障ることしたか?
葉柱はちょっと慌ててヒル魔の表情を探る。
恋人のご機嫌窺いなんてカッコワリィ。そんな感想は随分前に消え失せた。なによりヒル魔は恋人ってだけでなく、葉柱のご主人様でもあるので。
「えーと、確か……ユミ……あ、いや、エリだったか?」
「おい、誤魔化すなっつってんだろ。忘れたってこたねぇだろうがよ。あんな目して聴いてやがったくせに」
必死に記憶を探って答えれば、ヒル魔の機嫌はますます下降線。苛立ちを隠しもしない。
「誤魔化してねぇって! マジ覚えてねぇんだっての!」
「ふーん、ヒッデェ男。女の敵だな、テメェ」
なんだってんだよ、本当に。なんでまたそんなに絡むわけ?
彼女の名前を忘れてたのは事実だから、どうにも反論はしにくいけれど。 だけど、関係ねぇじゃん。昔のことなんて。名前も忘れちまった女たちなんて。今俺はテメェだけに夢中。テメェだってそれでいいって言ってただろうがよ。それじゃ駄目になったわけ? こんないきなりに?
元々短気なタチだから、つい青筋立てるのはもはやデフォ。
不安はしっかりあるけれど、こんな理不尽、文句の一つぐらいは言ったっていんじゃねぇ?
ちょっぴり自分に言い訳。本日何回目かの、なんだかなぁ。
「てかよぉ、あんな目ってなんだよ。俺がどんな目してたってんだ?」
苛々と聞けば、ヒル魔はチッと舌打ち一つ。なんだか耳の先が赤い?
「聞き流すってことを知らねぇのかよ、テメェ」
「地獄耳がなに言ってやがる。そりゃこっちの科白だっつぅの」
「どっかの爬虫類より性能いいだけだ。爬虫類って耳どこにあんだかもわかんねぇもんな」
はい。ここ、いつもだったら、怒るとこ。
だけどはっきり意図が見えるから。
「誤魔化すな」
お返しとばかり言えば、小さく唸る。上目遣い、睨みつける。耳はもう真っ赤。
こういうとこ、本当に可愛い。
ニヤケそうになるのを必死に堪えての、睨みあい。負けず嫌いの意地っ張り同士。勝敗着くまでかなり長く。
ふ、とヒル魔の眼差し逸らされて。
勝った! と浮かれる間もなく、葉柱は唖然とする。
どこか悔しそうに、目元をほんのり紅く染めて、視線外したままヒル魔が呟いたから。
「だって、テメェ、すげぇ優しい目して聴いてやがったじゃねぇか……」
いつも俺を見る目と同じ目してた。こんなに惚れ込んだのは俺だけだって言ったくせに。
「想い出ってな、美化されるだろうがよっ。俺に対するのと同じくらい惚れてたなら、汚ぇとこ見せねぇ分、ソッチの方が有利じゃねぇか! 女で、俺と同等で、綺麗なもんばっかなら、俺に勝ち目ねぇだろうが!」
だんだん興奮してきたのか、ヒル魔はいつの間にやら喧嘩口調。だけどその内容がこれじゃ、葉柱は唖然とするしかない。
ああ、もう、本当に、なんだかなぁ。
こんなに可愛くて、どうすりゃいいわけ?
どれだけ惚れさせりゃ気が済むわけ?
もう、もう、本当に、なんだかなぁ。
「テメェのこと考えてりゃ、テメェ見るときと同じ目になるに決まってっだろ」
苦笑を堪えて葉柱は言う。
キョトンと見返すヒル魔が可愛くて、我慢はすぐに限界がきたけど。
「あの歌な、なんか聴いてたらテメェが浮かんだわけ。歌詞に強くて綺麗なってあんだろ? あー、ヒル魔だ、って思ったんだよ」
ヒル魔がポカンとしたのはほんの数瞬。たちまち真っ赤に染まる白い肌。可愛すぎて、葉柱は困る。
電話一本で迎えに行くのも。弁当一つ選ばせてもらえなくても。理不尽な言動、振り回されて。不安ばっかり大きく育ちそうになって。
それでも誰より、お前がいい。
誰より強くて、誰より綺麗な、テメェに惚れた。
「あのよ」
「な、なんだよっ」
珍しくもばつ悪げに視線彷徨わせるヒル魔の耳元、葉柱はそっと唇寄せる。
「早速でワリィんだけどよ、さっきの箱、もう使っちまっていい? 使いきんねぇようにすっから」
ピクンと肩跳ねさせて、首を竦める、初々しい反応。口ではどうあれ、いつものこと。
これだからたまららない。我慢できない。
「……使うために買ったんだろうが。わざわざ訊くんじゃねぇよ」
ほら、口ではすぐ強がり。きっと無意識に腕に縋る指、ちょっぴり震えているくせに。
瞳は真っ直ぐ葉柱を見つめて。逸らさない、逸らさせない。大好きだから、俺だけ見てろ。無言の命令。ちょっとの甘え。
「じゃ、きっちり使わせてもらおっかね。サイフォンみてぇに俺専用ってことで」
言いながら抱き上げれば、首筋に縋る腕、ケケケと笑って嬉しげに。早くって催促するみたいに足揺らして。
ご機嫌が直ったなら、そりゃなにより。
もっと上機嫌、夢見心地になっていただくのも、恋人の仕事ですから。
思いながらキスすれば、唇と舌がもっととねだる。
誰より強くて、誰より綺麗な、最上級の我儘な恋人で、大事な大事なご主人様。
離れる気も放す気もないから。
だから葉柱は、今日も明日も明後日も、なんだかなぁって繰り返しながら、いつまでも来ない終りを心の底に沈めて走る。
強くて綺麗な、たった一人のためだけに。
END