伝わってる?

 それはいつもの昼下がり。昼寝のせいで昼飯を食いはぐれるのも、いつものこと。
 どうしようかと、少し悩む。
 自分に非があるのは明らかだが、コックの口から機関銃のように飛び出す小言を聞くのは、やっぱりあまり面白くねぇ。
 一食ぐらい抜いたって死ぬわけじゃねぇし。我慢できないほど腹が減ってるわけでもない。

 無駄な喧嘩を避けるなら、このまま二度寝が妥当なとこだが。

 まだ少し寝惚けた頭で考えながら、それでも足はキッチンに向かってた。
 その理由は誰にも言えないし、誰にも気づかれたくない。
 少しの期待と、それより少し大きな、覚悟と気合い。
 胸のなかにあるそれらを、ずっと、持て余してる。
 まったく馬鹿馬鹿しいかぎりだろ? 喧嘩したいわけじゃねぇと思いながら、喧嘩ぐらいしたいとも思うなんて。まるでかまってほしくて駄々こねるガキだ。
 自分でも情けなくてたまんねぇし、ましてや人に言えるわけもない。あいつに気づかれたらなんて、考えることすら寒気が走る。
 なんだかんだと憎たらしい文句を並べ立てても、コックが食わせてくれなかったことはなくて。やかましい小言を聞いてる間に温められた飯は、いつだって旨い。
 だからつい、誤解しそうになる。期待だってする。

 ああ、そうだ。期待してる。ほんの少しだけど、期待してる。気づかれたらおしまいだと思いながら、図々しく期待してる、この馬鹿馬鹿しさが、嫌になる。

 顔をあわせりゃいつでも喧嘩。つっかかるのはいつも俺だ。
 あいつは気づいてるのか知らないが、そのときばかりは俺だけを見てるから。俺の憎まれ口を耳聡く聞きつけて、必ず悪態で返してくるから。

 一度も、無視されたことなんて、ないから。

 だからついつい、文句の種を、いつだって探す。
 まあ、本気で呆れてることも少なくねぇけど。
 大概文句は女絡み。呆れながらも、ムカついて。切ないなんて、思っちまうことも、しばしば。
 情けなくて、笑えてくる。

 だけど。

 あいつが俺を意識に留めるだけで、無性に嬉しくなるから。喧嘩ぐらいさせろって、つい思っちまう。
 ……あいつはいい迷惑だろうけどな。

 自嘲しながらキッチンのドアを開けば、すぐにコックの背中が目に入った。後片付けもとうに済んで、今はおやつの支度ってとこか。
 ずっと見ていたがる目を叱咤して、テーブルに視線を移した。

「なんだ、こりゃ」
 片付けられたテーブルに、ぽつんと置かれた紙コップがふたつ。底につけられた糸で繋がってる。
「ウソップが作ったんだよ。離れてても声が聞えんだと。電電虫のオモチャみてぇなもんだ」
 思わず呟けば、穏やかな声が返ってきた。怒鳴られることも、嫌味を言われることもなく、普通に話しかけられたのが、嬉しい。
「へぇ、便利だな」
 つい声が弾みそうになるのを抑えて言えば
「アホ。オモチャだっつってんだろ? そのコップに付いてる糸が届く距離しか使えねぇんだよ。糸が弛んでも聞えねぇし、大声出す方が早ぇってシロモンだ」
 少し呆れた調子だが、それでも穏やかな声でコックは言う。しっかり取り分けていてくれたらしい昼飯を出しながら。
 てめぇがそんなだから、俺は期待する。だから、必死に否定する。勘違いして、気づかれないように。

「試してみるか?」

 少し笑いを含んだ和かな低音。からかうような言葉に、棘はない。
「あ? 別にいい。オモチャだろ?」
 否定して、期待するなと言い聞かせて。それでも気がつけば僅かに弾む声。
 滅多にないコックとの穏やかなやりとりに、否定する言葉を期待が追い越してく。
「だから遊ぶんだろ? 俺もちょっとやってみたかったんだ。つきあえ」
 コックはさっさと紙コップを手にキッチンを出ていく。楽しそうに笑う顔を、俺だけに向けて。
 期待するな。伝わるな。思いながら、願いながら、それでも自分に向けられる笑顔に、胸が騒ぐ。

「おい、飯は……」

 辛うじて口にした最後の悪あがき。馬鹿馬鹿しいと、なにも期待なんてしてないと、そんな言葉が伝わるように仏頂面で。

「食いながらでもいいぜ。特別に許可してやる」

 軽くかわして、コックはまだ笑ってやがる。
 こんなところをナミにでも見られたら、どれだけからかわれるかわかったもんじゃない。だから、渋ってるんだ。てめぇと遊べるのが嬉しいわけじゃねぇ。

 せめて、そんな言い訳を自分に言い聞かせて。思い込ませる。
 どうしたって、心は浮き立つから。せめて、期待に胸が弾む理由は、別のところにあると、思われたい。

「あいつらに見られたらクソ恥ずかしいだろ。早くしろって」
 急かすコックの言葉に安堵する。思惑通りに伝わったことに。同じだけ、伝わらない切なさが胸を過ぎるのには、目をつぶって。
 しかたねぇなって素振りで席に着いて、仏頂面のまま昼飯のパスタを頬張る。いつもと変わらず、旨い。思わず笑みが零れそうになるから、外に出たコックを横目で窺った。
 そわそわと落ち着きなくなっちまうのを、必死に堪える。

「もしもーし、聞こえっかぁ?」

 耳につけた紙コップから、コックの声。ひどく近い。穏やかな、囁くような笑い声。

「今の、ちゃんとここから聞こえたんだよな?」
 思わず聞いたらまた笑われた。けど、嫌な気はちっともしない。むしろ笑ってくれるのが嬉しくて、楽しくて、くすぐったいような心地がする。

 期待しない。伝えない。絶えず言い聞かせてはいるけれど、紙コップを通して耳に届くコックの声を、今はただ聞いていたい。

 甲板に響く、仲間たちの大きな笑い声。一番近くて遠いのは、耳元で聞こえるコックの声。
 馬鹿馬鹿しいことをしてる自覚はある。19にもなって、こんなオモチャにはしゃぐなんざ、まったくみっともないったらありゃしねぇ。

 でも。

 ほんの少し不明瞭なコックの声と、一拍置いた会話。いつもと違うそれらを、もう少しだけ味わっていたい。
 伝えられない言葉だけ、飲み込んで。

 不意に、コックの声が途切れた。
 紙コップで隠された唇が、伝えようとした言葉を、問いかけることはなぜだかためらわれた。ひどく優しいコックの瞳に、笑うことも忘れた。

 もしかして。もしかしたら。繰り返す不安と期待。
 伝わらない、伝えられない、言葉。心。
 でも本当は。もしかしたら。

「……」

 たしかめることもできないまま、知らず動いた唇は、声を届けることはなく。
 唇の動きだけで呟いた名前は、響きを持たないまま。

 伝えられない。伝わればいい。……伝わってる?
 答えはないまま、ふたり、少しだけ探るような瞳で見つめあった昼下がり。
 手にした紙コップは忘れられて、風に乗って響く、無邪気な笑い声だけを聞いていた。

                                    終