月に囁く

「ごめんね、サンジくん。明日からの部屋はちゃんと取れてるから、今夜だけ我慢してくれる?」
 少し困ったような表情で軽く首をかしげてみせるナミに、サンジがいつも通り脂下がった顔でいつも通り快諾の言葉を述べるのを、少し呆れながら眺めて。

「ゾロ、喧嘩するんじゃないわよ。いい? ちゃんとサンジくんの言うこと聞いて、大人しく……」
 まるで子供に言い聞かせるようにナミに言われ、思わず怒鳴り返した途端に飛んできたサンジの蹴りを受け止めた。そのまま喧嘩に傾れ込むのを、ナミの鉄拳で止められる、いつもとまるで変わらない日常。

 海軍が多いらしいからと刀を取り上げられて。暑苦しいと怒鳴られた挙句、腹巻まで取られたうえ。とどめとばかりの、子供扱いめいたナミの小言だ。不機嫌になってもしかたないだろうと憮然と顔をしかめたまま、呆れと不安を視線にない混ぜたナミと、そんなナミに笑って手を振るサンジを見やり。宿へと向かって歩き出した仲間たちの、騒がしい背中を見送って。

 いきなり不機嫌さを露にしたサンジに促され、ゾロは不貞腐れたいのは俺のほうだとしかめめた顔もそのままに、祭りの余韻が残る通りへと足を踏み出した。

 それがちょうど、三時間前。

 久し振りに寄港したこの島は、ナミが言うにはここらでは有名な観光地らしい。ただでさえ人の出入りが多い街なうえ、運がいいのか悪いのか、数日間に及ぶ祭りの最終日にあたってしまったとかで、いつも以上に人出が多いと聞いた。
 ログが貯まるのは一週間後。ようやく確保した宿には、けれど二人部屋が二部屋しか空きはなく。船はこの際とばかりに点検の為のドッグ入りさせてしまったし、明日には部屋も空くから誰か二人あぶれてくれとナミに頼まれた時に、すでにその人選は決められていたように思う。

 女共を野宿させるわけにゃいかないし。目を離せばどんな騒動を引き起こすかわからない船長は論外。小さな船医は誰かのベッドに潜り込めば問題はないと、はなから頭数に入っていなかったし。

 では残る三人のうちで、誰が今宵のベッドにありつくのか。検討するより早く、自分がゾロと一緒に街で過ごすとサンジが言い出した時には、誰も異を唱えなかった。
 おそらくは誰もが予想した組み合わせだったんだろう。ゾロもそれが無難だろうとうなずいてみせた。
 サンジが言い出さなければ、多分自分から言い出したに違いない当然の選択だと思うのに。それどころか、サンジ自身が言い出したことでもあるというのに。呆れたことにゾロがうなずいた瞬間、サンジの顔には少しばかり不満げな色があった。
 まったく厄介な男だと、ゾロはこっそり溜息をつく。なんだか知らないが、またうだうだと悩んで、勝手に不機嫌になっているに違いない。
 ここ数日のサンジときたら、まったくもって不機嫌極まりなかった。いつもより視線を合わせない。会話も減った。いつもは隙あらばコトに及ぼうとするくせに、仲間の目を盗んでキスを仕掛けてくることすらしない。
 仲間の前ではいつもと変わらない風を装ってはいたけれど、ゾロにしてみればそれで隠しているつもりかと、呆れるほどわかりやすい。
 原因は大方あれだろうと目星もついているのだが、サンジは自分からそれを言う気はないように見える。
 言いたいことがあるなら素直に言えばいいじゃないかとゾロは思うのだけれど、サンジはそうもいかないようだ。お前と違って繊細なんだと、ことあるごとに小憎たらしい顔でぶつぶつと文句を言う様を思い出せば、わざわざ原因をこっちから尋ねるのも億劫だし。予想した答えが返ってくればきたで、サンジの気に入る言葉なんてかけてやれそうにないんだから、しょうがない。
 気にならないわけではなかったが、そのうち気も晴れるだろうと放っておいたのがまずかったか。気付かないうちに、サンジの煮詰まり具合は最高潮に達していたようだ。

 うだるような夏島の熱気も、サンジの不機嫌に拍車をかけているんだろう。黙りこくって振り返りもしないまま歩き回るサンジの青いシャツの背に、汗が滲んでいる。いつも隙なく着込んでいるスーツのジャケットはさすがにウソップに預けてきたものの、ネクタイや見慣れた長袖のシャツはそのままで、腹巻一つ脱ぎ去っただけで随分楽な自分と比べると、その出で立ちはえらく暑そうに思えた。
 その背中を眺めたまま、最後にあの背に腕を回したのはいつだったかと、ぼんやり思ってゾロは、熱くなった顔を慌ててうつむけた。

 なにを馬鹿なこと考えてんだ、俺は。

 つい零しそうになった舌打ちを先越されて、ちらりと視線を上げると、サンジが乱暴な手付きでネクタイを緩めていた。
 舌打ちよりも、むしろ溜息ぐらいつきたい気分になったけれど、それもサンジに振り回されていますと告げるようで癪に障る。軽く肩を竦めるだけに留めて、ゾロは頭上の月に視線を投げた。
 大きく丸い月が、煌々と自分達を照らしている。いい月だと、ゾロはゆっくり口角を上げた。
 まとわりつくような熱気はいただけないが、こんなに綺麗な月夜だ。祭りの余韻に自分も少し酔っている。サンジに付き合って自分まで不機嫌になることもないかと、唇に笑みを刻む。
 なにしろ、今夜は二人きりなことだし。
 どうせこの男のことだ、そのうちなにかしら仕掛けてくるだろうし。
 気が晴れるまで付き合ってやるかと肩を竦めれば、なんだか妙に楽しい気分にすらなっていた。
 何件か覗いた酒場にも空席を見つけられなかったのが不服なのか、ますます苛立っていくことを隠しもしないで歩くサンジとは裏腹に、ゾロの気分は右肩上がりだ。サンジがどう出るか楽しみですらあった。
 サンジが行くままに、場末の芝居小屋に足を踏み入れた、その時までは。

 それは多分、二時間ぐらい前のこと。

 そして、今。

 あのとんでもない場所での一時間ほどの出来事は、二度と思い出したくもないと、ゾロは憮然としかめた顔を赤らめた。
 できれば今、自分が置かれている現状も、考えたくないところだけれど。
 噛み締めた唇から小さな唸り声を洩らして、ゾロはますます眉根を寄せる。

 やばい。やばい。やばい。いい加減、やばい。

 なんだって開いてる店はどこもかしこも満員なんだ。宿がいっぱいだからって、何時間も居座ってんじゃねぇよ。こっちは別に席を開けてくれって言ってるわけじゃねぇんだ。ちょっと便所を借りられりゃ、それでいい。呑みすぎて腹でも壊したかと笑われるのはどうでもいいし、そこでなにをするかわかっているのはサンジだけだ。誰も、自分がそこでなにをするかなんて気付くわけがないと思うのに。

 たった一人、全部承知している男のにやにや笑いが気になって、結局その一言を言い出せないまま、歩くことすでに一時間近く。もういい加減どうにかしないとと焦れば焦るほど、それは存在感を露にして、ゾロの額に気温のせいではない汗が滲んだ。
 苛立ちのままに足早に歩いていた足も、どうにも気になってしかたがないそれのせいで、のろのろとしか進まないし。
 早いところどうにかしないことには、不快感だけでは済まされなくなるのも、経験上わかっている。

「なぁ、いい加減強がんのやめて、どっかで処理したほうがいいんじゃねぇの? 腹壊すぜ?」

 傍らを歩いていたサンジが、顔を覗き込むようにして言う。先刻までの楽しげな様子はどこへやら、心配そうな瞳と言い聞かせるように優しい声に、ゾロはまなじりをつり上げた。

「誰のせいだと思ってやがんだ!」
「俺。だからさ、ちゃんと始末してやるって言ってんじゃん」

 こともなげにとんでもないことを言うな。てめぇがそんなことを言うから、酒場にも入れなかったんじゃねぇか。大体、全部お前のせいだってわかってんなら、これ以上変なこと言ってんじゃねぇよ。なにもかも、てめぇが悪い。なにがお仕置きだ。あんなところで、あんなことをするから……。
 浮かぶ悪態を飲み込ませたのは、不意にまざまざと思い出されたほんの二時間前の出来事。途端に少し青ざめかけていたゾロの顔に朱が散った。
 二時間前にようやく腰を落ち着けたその場所は、芝居小屋と銘打ってはいても、演目は下世話極まりないストリップでしかなくて。絡み合う男と女の痴態に、こんなところ冗談じゃないと思ったのに。いつのまにか流されて。サンジの意地悪な瞳に捕らわれて。舞台の上でみっともない喘ぎ声を上げる女と同じように嬲られ、他の客だっているというのにいい様に喘がされ、上り詰めさせられて……まだ、その時にサンジが放った精も身体の奥に残ったまま……。

 叫びだしたくなるような羞恥がカッと身を焼いて、ゾロはうつむいたまま小さく唸った。顔が熱くてしょうがない。

「ゾロ?」
 黙り込んだゾロを訝しんだのか、サンジが引き寄せるように肩を抱いてきて。思わずゾロは小さな声を上げた。
「……んっ!」
「あ……ごめん。零れちゃった……?」
 わずかに体勢を崩した瞬間、太腿を伝った濡れた感触に言葉を失う。わかっていても声には出すなと、真っ赤な顔で睨みつければ、サンジは困ったように笑った。
 その顔になんだか無性に胸がうずいて、ゾロはやっぱり言葉を飲み込む。 正直なところ、サンジのこんな顔には弱い。つけあがるのはわかりきっているから、言ってやる気は毛頭ないが。
 まったく卑怯な男だと思う。なんて厄介な男だろうと、呆れ返る。なんでまたこんな男に、とも思う。
 なにをそんなに不安がるのか知らないが、余裕ぶってみせるわりに、サンジは、口ほどには己の価値を信じない。意地悪な瞳をして人を辱めても、瞳の奥にある怯えを隠し切れずにいるから、ゾロはいつでも流されてしまう。 好きで好きでどうしようもないと、青い瞳の奥で叫ぶから、どんなに不快な言葉で嬲られても、結局は許してしまう。
 こんなにも自分を振り回すのはお前だけだというのに、肝心のお前はそれに気付きもしないで、勝手に傷付いて、勝手に悩んで。

 挙句、三時間前までは不機嫌さを撒き散らし。不埒な行為で確かめようとしてきたのは二時間前。
 少しだけ素直に愛しさを伝えてやれば、漸く安堵したかたちまち上機嫌になって、一時間が経ち。

 今はすっかり困り果てている、馬鹿な男。

 だけど、まぁ。
 月を見上げて、ゾロは深く息を吐いた。
 そんな男に惚れちまったんだから、しょうがねぇ。馬鹿はお互い様かと、苦笑して。
「……どうにかしろよ。てめぇのせいだろ? 責任とりやがれ」
 できるだけ不機嫌に聞こえるように言ったつもりだったけれど、口元につい浮かんでしまう笑みが、すぐにそれを裏切る。ぽかんと口を開けてまじまじと見つめてくるサンジの顔が、唐突に真っ赤に染まったのを見てしまえば、こらえようもなくなった。
「な……てめっ、笑ってんじゃねぇよ! クソッ、てめぇがいきなり変なこと言うから……」
「してやるってうるさかったのはてめぇだろ?」
 笑いすぎて苦しい息で言ってやれば、不貞腐れたように唇を尖らせる。けれど、それもほんのわずかな間でしかなくて、サンジはすぐににやりと笑うと、ゾロの手を取った。
 その笑みに現金な男だと思い呆れもするが、口に出してまた機嫌を損ねることもないかと、ゾロは大人しくサンジの肩口に頭をあずけた。
 まったくもって今日は大サービスだと、喉の奥で笑う。
「酒場行くか?」
 ひそめた声に耳元をくすぐられて、びくりと肩が震えたけれど、いつのまにか腰に回された腕から逃れようとは、思わない。
 我慢できそうにないとかすかに首を振ることで伝えれば、サンジの腕に力が増して。身の内でいまだ存在を知らしめている情交の残滓が、また少し伝い落ちてくるのに、気恥ずかしくなるぐらい切なげな吐息が零れる。
 人影はもうないとは言っても、こんな往来で一体自分は何をしているんだろう。いつ酔客がさまよい出てくるとも知れないのに、男の腕に抱かれて小娘のように震えているなんて、馬鹿げた話だ。
 夏島の熱気にあててられたか。もしかして、まだ先ほどの興奮に煽られてでもいるんだろうか。

 それとも……体の最奥に放たれたサンジの熱に、まだ自分も焼かれているんだろうか……。

「……ちょっとだけ我慢できるか?」
 囁くように聞いてくるサンジの息も熱い。こんなに綺麗な月明かりには到底不似合いな、欲情の熱をともなった息が耳をくすぐる。
「さっきのとこは嫌だからな」
 力の抜けそうになる足をなんとか踏みしめて、掠れる息に舌打ちしたくなりながら、それでもどうにか断りを入れる。
 もう二度とあんな場所でするのはごめんだと、毒づくように言ってやればサンジはまた困ったように笑って。了解と、頬に小さくキスしてきた。

 そのまま腕を取り足早に歩き出したサンジに、ゾロも大人しくついていく。情欲の残滓に覚える不快感より、再び疼きだした体の熱をどうにかしてほしくて。たまにすれ違う酔漢が、下卑た興味をあらわに振り返っても、サンジの腕を振り払えない。今はそんなことどうでもいいような気がした。
 汗ばんだサンジの手が伝える体温が、いつもより熱く感じられる。その理由はきっと、夏島の熱気のせいだけじゃないと思うと、体の芯がまたうずいた。
 そんな自分が妙に気恥ずかしく思えて、ゾロは顔を伏せたままサンジの後を歩いた。