シャボン玉ホリデー

 秋の長雨。なんて言葉が、日本にはあって。当然、そんな言葉が生まれる天候も、存在する。
 ついでに、秋といえば日本では、台風シーズンなんて言葉も聞かれる頃合い。
 基本的には過ごしやすく、食べ物も美味しい、紅葉は綺麗。本当ニ日本ハ美シイ国デスネー。なんて。
 日本通を気取る外国人が、満面の笑顔で言う声が聞こえてきそうな、今は、もう秋。

 外は、雨。

 ……だった。確かに昨夜、二人、過ぎる快感にドロドロに疲れた体を抱きしめあって眠った、その時までは。

ファッキンッ!! なんでオフにだけこんなに晴れやがんだ、この糞太陽!」

 晴れ渡る澄んだ青空清々しく、響く怒声も吸い込まれそうなほど。

「五日だぞ、五日! 五日も雨続きの上、台風まできやがって! 練習全滅させやがったくせに、なんでオフ日になった途端に胸くそワリィぐらい晴れやがんだよ、あの糞太陽はっ!」
「天気のこと俺に言われても困るんだがよ……」

 肩怒らせて喚き散らすヒル魔を眺めつつ、怒声で目覚めた葉柱は、眩しさに目をしばたたかせた。

「ウッセェッ! 全部テメェがワリィんだ、糞奴隷ファッキンスレイブ! 空が青いのもポストが赤いのも全部テメェの仕業だろゴルァッ!!」

 うっわぁ、言い切ったよ、この人。つか、今時ポストが云々言う奴がまだいるってほうが驚くよなぁ。

 八つ当たりも五日目ともなれば、いかに瞬間湯沸かし器タイプな葉柱とて、慣れる。と、いうより、慣らした。無理矢理にでも。
 なにせ相手はヒル魔だ。
 アメフトの、アメフトによる、アメフトのための、存在。そんな風に言い切ることすら、違和感のない男。
 身も心もアメフトに捧げて、その残りカスで恋愛してるような、葉柱のご主人様で、恋人で、なによりアメフトの奴隷。

 そんなヒル魔を全身全霊かけて愛し抜いていると言い切れる葉柱にしてみれば、ヒル魔が八つ当たりする原因が『アメフトができない』である時点で、いつも以上に理不尽すぎる言動は、覚悟の上。

 クリスマス・ボウルへの最後のチャンス。それなのに練習時間を不可避な出来事で減らされれば、いかにヒル魔といえども焦りもするだろう。不安にもなるだろう。誰にもそれを悟らせまいとしながら。
 痛いほどわかるから、この五日間葉柱は、ヒル魔を甘やかして、甘やかして、甘やかしまくった。
 命令厳守はいつものこと。青筋立ててとりあえずの文句もいつも通り。傍目には常とまるで変わりなく見えただろうけれど。
 それでも、ヒル魔には多分気付かれていたはず。
 いつもの悪態合戦の言葉の端々、怒鳴る声のほんのわずかなその和かさに。
 いつものスキンシップの手指が触れる、そのタイミングや温もりに。
 葉柱自身が隠しても、滲み出るなにか。とても温かくて、優しいもの。
 きっとヒル魔は気づいている。だからいつもの悪態は、二人きりならもはや駄々っ子のそれ。少しの不在も許さないとばかり、触れられたがる。触れたがる。

 甘えられている。

 わかるから、葉柱は嬉しい。甘えているんだと、わかることが、また嬉しい。
 早く晴れてやってくれと願いつつ、ほんの少しだけ、こんな日々もたまになら悪くない。そんなことを思っては、心のなかで慌ててこっそり、ゴメンと謝ったりして。
 ヒル魔の我儘を悪態つきながら叶えたり、動き足りなくて飛び出したがる体を宥めて、愛して、発散させての五日間。
 実のところ、日頃はいまだベッドの上では恥じらいが先に立ち、直截な言葉でねだるなんて、とんでもないけどできやしないらしいヒル魔が、余裕のない乱れっぷりを晒して縋って求めてきたのは、初めてのこと。それが続けて毎日ともなれば、葉柱が少しばかりこの事態を喜んでしまってもしかたないかもしれないが。

 ともあれ、そんななんとも珍しい日々を、それでもやっぱり変わりなく二人で過ごした、五日間。
 そして、今日。朝日を遮るもののないヒル魔の寝室で、ヒル魔は目覚めた瞬間から怒っている。
 なにしろ今日は完全オフ。ヒル魔自身が考え抜いて決めた、勝利のために必要と判断したからこその、完全オフ。
 賊学のオフ日と日程が重なったのは、あくまでも偶然。
 せめて雨だけなら、グラウンドに出るのにためらいなんてなかった。今までだって、雨のなかでも練習はしてきたしと、ヒル魔は唸る。
 そうできなかったのは、秋雨とともにやってきた急激な冷え込みが、「体調管理」の四文字を否が応にも意識させたから。
 馬鹿ばっかりのうちの糞野郎どもが、風邪をひくたぁ思えねぇが、万が一もあるしな。と、室内トレーニングに終始した五日間。無駄な時間など欠片もなかったのだけれども。
 それでも、グラウンドでボールを追えないのは、辛い。覚えこませたいフォーメーション。勝手に身体が動くまで。やらなきゃならないこと、やっておきたいこと、まだまだ山積みなのに。
 昨日にいたっては、とどめとばかりにやってきた台風のせいで、室内トレーニング場は停電。さすがにヒル魔といえども、早々に切り上げさせざるをえず。

 淋しい。悔しい。つまらない。アメフト、したい。

 ……怖い……。

 認めたくもないそんな言葉に、翻弄されるなんて、冗談じゃない。
 だけど、受け止めてくれる長い腕が、いつでも傍にあったから。

 コイツがいてくれなかったら、正直ちょっとキツかったかも。

 子どもみたいに駄々をこねて、甘えて、甘えて、甘えたおして。
 傍目にはいつもの暴君ぶり、なにも変わりなく見えただろうけど。

 甘やかされている。

 はっきりわかって、疑いもしなかったから。今だけな? こんなのは、今だけ。自分に言い聞かせながら。立ち止まることへの怯えすら包みこんでくれる長い腕に、ただ甘えた、五日間。
 我ながら、思い返せば恥ずかしさで憤死しそうなことも、数々あったけれど。総体的には悪くない日々だったかも、なんて、思ってしまった自分に、ちょっぴりムカつく。

 唸り続けながらヒル魔は、ぽすん、と、身体をベッドに沈ませた。
 すぐに長い腕が抱きしめにくるから、もぞもぞと温かい葉柱の懐に潜り込む。

「……オフ、撤回するか?」

 連絡まわしゃ、テメェんところの奴ら、すぐに集まるだろうし。
 葉柱が言えば、少しの間を置いて首を振る。

「グラウンドの使用権、今日は野球部と陸上部にやっちまったからな」

 本気でやってる奴らの邪魔はしない。
 ヒル魔を邪悪な暴君だと信じている輩には、きっと伝わるはずもないそんな言葉も、凶悪と邪悪の違いを飲み込んで、理解している葉柱には伝わるから。少し困ったように下がり気味の眉、ますます下げて。
 長い舌、てろんと垂らしたまま、どうしたもんかと考えている。

 そんな顔を見ていたら、なんだか胸の奥がほっこりと温かくなってきて、ヒル魔はこっそりと小さく笑った。

「しょうがねぇさ、オフにすんのは前から決めてたことだしな」
「でもよ……あ、うちのグラウンドなら使えるぜ? テメェんとこと違って、うちにゃ俺らぐらいしか、マトモに練習してる運動部はねぇからな」
 名案とばかりに早速起き上がろうとする葉柱に、ヒル魔の眉が小さく寄せられた。
「いいっつってんだろ。んだよ、テメェ、オフだって教えた時は浮かれまくってやがったくせに。俺と一日中一緒にいんの嫌になったか? あぁ?」

 練習できるグラウンドは惜しいけれど。
 でも今日は、完全オフ、だから。

「カッ! んなワケねぇだろっ! ……なんか、してぇことあるか? 行きてぇとこあんなら、バイクとってくるし」
 幸せそうに抱きしめる腕に力を込めて、葉柱は笑う。
 長雨のせいでバイクもお預けだったから、久しぶりにタンデムで遠くまで。悪くない。
「んー、そうだな……あ、ある。やりてぇこと」
「ん? なに? なんでもいいぜ、せっかくのオフなんだしな」

 葉柱の腕のなか、顔を上げたヒル魔、妙に真剣に。

「洗濯」
「は?」
「なにやるにしてもまずは洗濯すんぞ、糞奴隷! ッシャ、とっとと起きやがれ!」

 言うなり飛び起きて、思い切りよくシーツを引っ張りあげる。

「YA――――HA――――!!」
「ぅわっ、テメ、いきなり過ぎんぞ!!」

 ぬくぬくとしたベッドの上から転げ落とされて、葉柱が喚く。ヒル魔はベッドの上、素っ裸のまま仁王立ち。こういうのは全然恥らわないんだから、コイツの基準は本当にわからん。
 青筋立てつつ目のやり場に困っている葉柱に、ヒル魔はまた妙に真剣な顔でグイっとシーツを突きつけた。

「くせぇ。いい加減洗わねぇと、かなりヤベェだろうが」
「あ? あー……一回換えたけど、やっぱ臭うか。汗かきまくったしなぁ」

 他にも、まぁ、色々と……。

「おい、それ以上言ったらブッコロスぞ」

 うっかりニヤケかけた顔を慌てて引き締め、葉柱はのそりと立ち上がり肩をすくめた。

「んじゃまぁ、まずは洗濯な」
「おう、さっさとしやがれ。一日は二十四時間しかねぇんだからな。グズグズすんな糞奴隷」
「はいはい、ご主人様」

 ま、洗濯なんて洗濯機に放り込めばいいだけだし。
 洗濯機回してる間に朝飯作って、食い終わったらさっさと干してバイクをとりに行こう。なにしろ完全オフの今日は、二十四時間しかないんだし。

 なんて、ちょっとウキウキと葉柱がしていられたのは、洗濯機のスイッチを入れるまで。

「おい、ヒル魔! テメ、洗濯機壊れてやがんじゃねぇか! スイッチ入れても丸っきり動かねぇよ!」
「停電」

 どんなにいじりまくっても動かない洗濯機に焦れて、葉柱がリビングに怒鳴り込めば、葉柱以上に不機嫌そうなヒル魔が、ポツリ返したのはそんな一言。

「は? え? 停電?」
「多分、夜中か明け方にこっちのほうも送電線やられたんだろ。ノートの電源入んねぇから電気点けてみたが、アウトだ」
「げっ、マジで?! あ! 冷蔵庫もか!? やっべ、傷むもんなかったっけ。って、ここIHじゃねぇかよ! 朝飯作れねぇじゃねぇか!」
「ッダーッ! 糞ッ!! テメェはどこの主婦だってんだよ! 飯なんざコンビニでもファミレスでもいいだろうが! それより洗濯どうすんだ、おいっ! もうシーツねぇんだぞ!」

 喚くから、とりあえず。

「……OK。優先順位はそこな?」
「おう」

 葉柱がなにより優先させるのは、ヒル魔。
 そのヒル魔の優先順位は、まずはシーツ。

「しょうがねぇ、時間かかっけど手洗いすっか」
 肩を落としてシーツを取りに洗濯機に向かえば、ヒル魔がひょこひょことついてくる。
「なに?」
「暇」
「手伝ってくれたりとかは……」
「頑張れ、糞カメレオン。属性主婦の底力を見せやがれ」
 ケケケと笑いながら言われ、葉柱の肩はますます落ちる。それでも落ち込んでばかりもいられない。
 なにしろ今日は完全オフ。洗濯ごときに時間をとられちゃもったいない。

「タライ……は、ねぇよな。風呂でやっちまうか」
 昨夜も二人で使ったバスタブに、シーツを二枚沈めて。洗剤を入れたら、長い腕を伸ばしてゴシゴシと洗い出す。が、いかんせんシーツは大物過ぎる。

「あー、駄目だ。これ、腰にくるわ」
「ジジくせぇなぁ。だらしねぇぞ、糞奴隷」
「うっせぇ。そのジジくせぇ奴の腰使いで、あんあん啼いてやがんのはどこのどちら様だ……って、ゴメンナサイ、もう言いません」

 腰に突きつけられてるものがなにかなんて、考えなくてもわかるので。

 しかたないと、葉柱はざぶりとバスタブに足を突っ込んだ。
 最初からこうしてりゃ良かったなと思いつつ、シーツを踏んで、踏んで、掻き回して。鼻歌まで歌いつつ。

「……おい、ちょっとずれろ。俺もやる」

 うん、言うと思った。さっきからなんかうずうずしてる目ぇしてたし。
 可愛いなぁ、なんて思いながら、葉柱の長い腕が、バスタブに入るヒル魔を自然に支える。

 二人でシャワーを浴びるのを、照れなくなったのはいつからだっけ。

 初めての時をすぐには思い出せなくなるほど、当たり前になってた幾つもの光景。
 昨日までの五日間も、そんな一つになるのかな。少し思って照れくささに苦笑して。

「YA――――HA――――!! おい、糞奴隷、もっと洗剤入れろ!」
「んなに入れたら肌荒れするっつぅの。うわっ、テメェ暴れんなって!」

 ばしゃばしゃと水音立てて、子供みたいに。
 もう洗濯なんだかふざけあってるんだか、わからないくらい、二人、笑いあって。

 初めてが、また一つ。

「ちょっ、やめろって! こけるこける!」
「う、わ……テメ、馬鹿、引っ張んな……!」

 シーツに足を取られて、二人もつれるように尻餅をつけば、上がる水飛沫。ぷかりと飛んだ、シャボン玉。

「テメェ、気をつけろよ! 泡だらけになっちまったろ!」
「うっせぇなぁ。あー、メンドクセェ。このままシャワーで流しちまおうぜ。ついでにそろそろ濯ぎな」
「うおっ! 冷てぇ!」
「あー、停電してたんだっけな。ま、風邪はひかねぇだろ。テメェ馬鹿だし」
「はいはい、そうでしょうともよ!」

 笑って、笑って、ふと、笑いやんで、見つめて。
 くすり。二人揃ってまた笑みが浮かべば、少し距離が近づく。

 珍しい初めての出来事も、いつか当たり前の光景の一つになってゆく、二人でいるということの、不思議。

 いつもの、当たり前の日常の、始まりの日を毎日続けて、繰り返して。
 二人だから。二人でなら。悪くない。

 外は晴天、台風一過。
 バスタブのなかで、二人はシャワーの雨の下。
 今日の二人は、完全オフ。

 ぷかり浮かんだシャボン玉一つ。弾けるまで、キスをして。

                                     END