泥門高校アメフト部の部室に、賊徒学園アメフト部主将の姿があるのは、彼が泥門高校アメフト部主将の自他共に認める専属奴隷であり、もはや両校部内では公然となった恋人同士である以上、なんの不思議もない。泥門生、特にアメフト部員にしてみれば、嫌になるぐらい見慣れた光景ですらある。
だがしかし。
今日の状況は、いつもと違っていた。
いや、傍目には大して変わりないのだけれど、纏う空気が明らかに、違う。
特に、両校主将と泥門の出戻りキッカーの周囲には、どこかタイミングを計りあう緊迫感のようなものが漂っていた。
ただでさえ極悪外道だの金髪の悪魔だの言われる主将が、そんな様子で。おまけにこの界隈で最も恐れられている賊学の、最凶ヘッドなんて呼ばれている男まで、そんな調子で。
とどめとばかり、そのどちらにも動じない、同じ高校生とは思えぬ老成っぷりを遺憾なく発揮した、冷静なツッコミ役のはずの先輩までもが、そんな有り様。
一体誰がそんな部室に居残る神経を持ち合わせているというのか。
「もう、なにもそんなに睨みあわなくてもいいでしょ?」
そそくさと、あの栗田までも含めて皆が出て行くなか、ことりと葉柱の前にマグカップを置いたのは、泥門アメフト部の良心ともいうべきマネージャー。意外と気が強いのは知られたことではあるけれども、存外神経の太さも並ではないらしい。
と、いうか、ナチュラルに変なところで無神経なときがあるんだよね。実は結構野次馬だし……(幼馴染の某S・Kさん・談)
「葉柱くん、改まってムサシくんに話ってなんなの? 私がいちゃまずいなら出てるけど……」
お茶を出すのはお客様から。基本に忠実な敏腕マネージャーが、続いてムサシの前にカップを置くのを、緊張した目で眺めつつ。
「いや、それは、べつに。むしろ、いて、ほしいっつうか」
「ッダァー、もーっ、テメェさっさと言えよ! ぐだぐだしてんな!」
キれるのは、やっぱりヒル魔。見目麗しいおみ足、カジノテーブルにどかっと行儀悪く投げ出して。
「わぁってる! 言うよ、言うけどよ! こういうのって緊張すんだって! こちとらご挨拶なんて初めてなんだっつぅの!」
「あーそうかよ、奇遇だなぁ! 俺も彼氏の紹介なんて初めてだってんだよ!」
「は?」
動きを止めて凝視するムサシとまもりの視線を浴びて。
「え? あ? あれ?」
会話――というより怒鳴り合いだけれども――を思い返して、葉柱は真っ赤に染まる。
「……ほんと、決まんねぇ奴なのな、テメェ……」
呆れ返ったヒル魔の声が耳に痛い。
「カメレオンの属性がへたれだって、テメェとつきあうまで知らなかったなぁ。世のなか知らねぇこと結構あんよなぁ、なぁ、おい、糞へたれカメレオン」
ヒル魔くん、容赦なさすぎ……まもりが思っていれば、そこまで言われて黙っていられるはずもない葉柱、キッと顔を上げて。
「おおおおお父さん!」
「どもんな、馬鹿」
あの、それよりも、お父さんって、誰? まもりの当然のツッコミが言葉になる前に。
「うっせ、黙って聞いてろ! お、お父さん! お父さんを僕にください!!」
「お父さんっていうのは……俺か?」
「…………いや、ちがっ、タンマ! 今の間違い! お父さんじゃなくて、俺が欲しいなぁ娘さんだからっ! 俺より老けた面の女房はいらねぇからっ!」
……問題点って、そこなの?
フリーズ寸前、エプロンの裾握り締め、ふるふる震えつつ。ここが我慢のしどころ。風紀委員だもの、モラルとルール、なにより常識を忘れちゃ駄目よ!
だけど無慈悲なヒル魔の溜息。わざとらしく呆れ返ってはいるけれど、存外本気そうな呟きひとつ。
「……本当にこの人と結婚していいのかしら……」
さよなら、日常。さよなら、常識。
「……帰ればよかった……」
泣きながら呟いたまもりの心の叫びは、誰の耳にも入らぬまま。
一人慌てる葉柱と、すっかり不貞腐れているヒル魔。部室は二人の喚きあいに包まれて。
そんな二人の毒気に当てられて、もはや理性が現実を拒否し始めているまもりはといえば、とうに床とお友達状態。
常日頃の二人の会話だけでも、かなりHPを削られるっていうのに、今日は一体なんなの? いつも以上にわけがわからない。
葉柱くんがカメレオンでご挨拶でお父さんをくださいでヒル魔くんが娘で彼氏の紹介で結婚でお父さんがムサシくんならお母さんは誰とかそんなことは今はどうでも……ああああああ、もういやぁぁぁぁっ。
涙が水溜まりを作るに任せていれば、不意に頭上から聞こえたのは落ち着きはらった渋い声。
「あんた……葉柱、とかいったか?」
その声は、まもりにしてみればまるで天上から降りてきた蜘蛛の糸。すがりついて振り返れば、一人落ち着き払ったその姿。瞬時見惚れて。
ああ、そんな場合じゃないのよ。ちょっぴりドキドキしながらまもりは頭を振る。
「あんたにお父さんと呼ばれる覚えはないんだが?」
うんうん、そうよねっ。ムサシくん言ったげてっ。
心はもはやムサシ親衛隊。一昔前ならネーム入りサテンの法被にペンライト。写真入り団扇でも振りたいところ。
「あんたみたいな不良に、うちの娘はやれん!」
…………いつもと丸っきり変わらない、何事にも動じない落ち着きっぷりのままで。
「そんなパニクり方、反則だと思うの……ムサシくん……」
ごめんなさい。今日のあなた、カッコイイとは、言ってあげられないわ……。
もはや涙の乾く間もないまもりの心中など慮る気配のない男三人はといえば。
「ふ、不良って……」
今更そんな基本的なとこにダメ出しかよっ! と、いつもなら即座にツッコムところだが、いかんせん今日の葉柱にはそれしきの余裕さえない。
なにしろ、ご挨拶、なのだ。
プロポーズに続いておとずれる、結婚というゴールの前に連なるハードルのなかでも、人によってはこのハードルの高さゆえに涙の別れになるとも聞く、重要な分かれ道。
流れる冷や汗はもはや、カメレオンというよりもガマの油状態。頭のなかは大混乱。
ああ、やっぱりスーツにしときゃよかったか? けど、これ、言うなれば俺の正装だったりするわけで。そこから否定されるのは、俺の存在意義まで否定されてるような気がしなくもなくて。
……はっきり言って、へこむ……。
大体にして、結婚だの同学年相手にご挨拶だのと、そもそも前提が間違ってるとは考えもしない辺りで、すでに終わっているけれども。へこみきっている葉柱は、そこら辺気づきもしない。
「うちのヒル魔は、仮にも泥門デビルバッツの主将だ。この大事な時期に、あんたみたいな不良のところに嫁に出すとでも思ってるのか?」
そもそも男は嫁になど行かんがな。
そんな極当たり前の一般常識などどこへやら。ムサシは頑固親父の風格で葉柱を睨みつけつつ、ダンッとカジノテーブルを叩いた。
この男を知る者にとっては随分珍しい怒りの表し方が、ムサシの怒り具合を示しているようではあるが、あにはからんや。
実のところ、今まで特に反対なんてしたこともなかったどころか。あのヒル魔に恋愛なんて叙情的なことができるとは思わなかったが、まあ俺のことにくちばし突っ込まなくなるなら静かになっていいかもな。なんて、聞きようによっちゃ随分と失礼かつ呑気なことを考えて、鷹揚にかまえていたのである。
だが、いきなりの結婚話だ。そこまで一足飛びにこられりゃ、さすがに驚きもする。ついでに、驚きとともに沸き上がったのは、ちょっとした嫉妬。まさに娘を嫁にやる類の。それにまた自分でも驚いて。
結局、誰の目にもわからないまま、この男もまた、静かにパニックに陥っていた模様。
「お父さん、落ち着いてっ」
もしも卓袱台だったら、某スパルタ親父代表の人みたいに引っくり返してたのかしら。
などとどこか的外れな感想を抱きつつ。テーブルに溢れたコーヒーを咄嗟に拭いてしまう根っからの世話焼き保母さん体質なまもりはというと、思わず口にした自分の言葉への違和感にすら気づいていないらしい。
苦労性なあのお姉さんも、きっといつもこんな思いをしてたのね。と、遠い目で懐かしのスポコン漫画キャラに感情移入しだすくらいには、現実逃避。
さすがは優等生。正しい判断といえる。
なにしろ、こういう時は、理性を残した者が負けなのだから。
と、三人三様のパニック振りのなか、いきなり響いた一発の銃声。
「……黙って聞いてりゃ言いたい放題……」
いやいや、さっきまであなた一番やかましかったですから。全然黙ってませんでしたから。
そんな言葉にしないツッコミを視線に浮かべる一同を、ギロリ睨みまわして。ヒル魔はすっかり悪魔の形相。
「そりゃあコイツのナリは化石か天然記念物かっつうぐれぇの過去の遺物な不良スタイルだしそれでなくてもテメェ分類間違ってんだろそもそも爬虫類が白ラン着てんなとか思われてもしょうがねぇほどの人外だがコイツの真価はそんな見た目じゃ計れねぇってんだよ!」
息継ぎもせず一気に言い切って。肩で息しながら一同を睨みつけるヒル魔の姿は、言いようによっては恋人を庇う麗しい光景と、言えないこともないかもしれないと思いたいけれども。
……それ、フォローになってないから。っていうか、誰よりもキツイですから……。
葉柱の瞳にきらりと光ったのは、決して感動の涙ではないだろうなと、思わず同情の眼差しをムサシとまもりが見交わせば、ただ一人陰鬱な暗雲背負って落ち込みまくっている葉柱を、ちらり、横目で眺めて。ヒル魔はますます眉をしかめる。よくよく見れば、ちょっぴり目が潤んでいるような?
ああ、きっと自分が駄目押ししてるなんて、気づいてもいないんだろうな。本人だけは純粋にフォローしてるつもりなんだろう。そう、まさしく、恋する乙女の心境で。
……結果はともあれ……。
見交わす視線でムサシとまもり、同時に思い。同時に溜息をついた、のが、まずかったか。
ダンッ! とテーブルを叩いて、またヒル魔はムサシとまもりを睨みつける。なにを誤解したものやら、傍迷惑な恋する乙女モードに火がついた模様。
「とにかく! テメェらにはただの不良にしか見えねぇだろうが、俺にはコイツが必要なんだよっ!」
なんて。
恋すれば悪魔も乙女、まさか『アノ』ヒル魔の口からこんな言葉が聞けるとは。
思わずムサシやまもりが感嘆に目を見開いたぐらいだから、落ち込みまくっていたはずの葉柱にいたっては、もはや言葉もない。
だって、『アノ』ヒル魔が。必要。コイツが必要、だって。
きっちりきっぱり恋愛してくれていると思ってはいても、ヒル魔はなかなか言葉にはしてくれないから。こんなにはっきりと、おまけに人前で、必要だなんて言われたら。
「生きてて良かったぁぁぁぁ!!!!!」
「うわっ! ちょっ、いきなり抱きついてんじゃねぇよ糞奴隷!」
先ほどまでの落ち込みっぷりはどこへやら。すっかり周囲は薔薇色、小さな天使まで周りを飛び交ってそうに見える葉柱の単純明快さは、可愛いと言えなくもない。
ヒル魔に抱きつき感涙の雨に濡れる葉柱と、そんな葉柱に照れているのか顔を真っ赤に染めて、それでも無理矢理振り払おうとはせずにいるヒル魔。傍目にはどう見たってバカップルそのものだ。
……なんでこんな馬鹿げたことにつき合わされてるんだろう……。
もうなんだかすっかり馬鹿らしくなって、すとんと憑き物が落ちるようにパニックから我に返れば、目の前にはイチャついてるバカップル。これを苦労と言わずしてなんと言う。若いうちの苦労は買ってでもしろとはいうけれど、こんな苦労ならしなくて済むほうが幸せなんじゃなかろうか。
そんな風にまもり達が思ってしまっても、誰にも責められはしないだろうけれど。
世の中には、それ以上の苦労を背負い込む羽目になっている人物も、いるわけで。
「なにそんな浮かれてんだよ」
「カッ! 浮かれるに決まってんだろ、テメェの口から、俺が必要だなんて可愛い言葉聞けたらよ」
「……バーカ、んなの必要に決まってんじゃねぇか」
恋する乙女の恥じらいもそのままに。
「だって、テメェみてぇに使える奴隷、他にいねぇし」
キラキラと、瞳を輝かせて。
ほんのりと、頬を染めて。
「パシらせりゃ誰より早い上に完璧だしよ」
ちょっと待て。いくらなんでもそれはどうなんだ?
「足として使っても車と違ってバイクだから渋滞も関係ねぇし」
それがヒル魔くんにとって、恋人の必須条件なの……?
「脅迫ネタちらつかせなくても言うこと聞くし」
もういい。もう、わかったから。頼むから。
「ほんと、奴隷の鑑だよな、テメェって」
ああ……言っちゃった……。
どんよりとした空気は、ひたすら重い。ヒル魔の周りだけを除いて。
恋をすると、空気を読めなくなるのが、悪魔の習性なんだろうか。
せめて、彼氏の顔色くらい少しは察してくれないもんだろうか。
絶対に魂抜けてる。どこか遠いところにイッちゃてるってば。
ああ、だけど、どんなに心の中で叫ぼうが、悪魔は一人ご満悦。
元々凶悪、人を地獄に叩き落すのが悪魔の常だと知ってはいるが。
恋する悪魔こそ、史上最強にタチが悪いなんて、知りたくなかった。
もはや溜息すら吐きたくもないところだけれど。このまま放っておくには、あまりにも哀れな奴隷……もとい、男が一名。
「あー、あんた。その、葉柱、さん……」
躊躇いがちにムサシが声をかければ、一欠片でも意識が残っていたものか、はたまた『ご挨拶』の立場がこんな状態でもきっちり刻み込まれていたものか。ギギギと軋んだ音が聞こえそうなほどぎこちなくではあるけれど、葉柱の首がムサシの方へと向けられた。
「まぁ、なんだ、(心底大変だろうが)ヒル魔を、頼む……」
見交わす瞳から、確かに伝わる、心の声。
「なにかあったら(ヒル魔くんに苛められたりとか)、いつでも来ていいのよ?」
互いの瞳に浮かぶ涙に、相通じるものは苦労性の悲哀。
「ありがとうございます……っ(もう、慣れました、から……)」
和やかに。一見、感動的に。それはまさしく、『ご挨拶』のよくある光景では、あるけれども。
「YA――――HA――――!! ッシャァ! これで結婚できんな、糞奴隷!」
「あ、うん、そうだな……」
「おめで、とう……ヒル魔くん……」
「……ま、仲良く、やってくれ」
当の娘より、婿と心の結びつきを固くする『ご挨拶』は、多分きっと珍しかろう、なんて。
そもそもの大前提、『男同士が結婚のご挨拶を同級生相手にするなんてことは、有り得ないから』というその事実だけが、しっかりきっぱり忘れ去られたまま。空々しい様式美の笑い声だけが、部室に満ちていたそうな。
さて、夕焼けの浴びながらタンデムで二人、轟音撒き散らしながら帰るバカップルを、肩にずっしりと疲労の二文字を背負って見送ったまもりとムサシ、溜息を落としたのはどちらが先だったろう。
「……俺らも帰るか……」
「そうね……」
言って、まもりは次の溜息より先に、ふと思いついた疑問を唇に乗せた。
「結婚がどうとかはともかく、なんで私達にご挨拶なんてことになったのかしら」
「そうだなぁ……ヒル魔にとっちゃデビルバッツが家族みたいなもんだからじゃないのか? そうなると俺が父親で姉崎が母親なのは、順当なところだろう」
ムサシはほんの少し笑い。そして。
「まぁ、その内本当にそう呼ばれるんだから、予行練習だと思っておくか」
「……え?」
「嫌か? 俺の隣でお母さんなんて呼ばれるのは……」
思わず。ぶんぶんと首を振って、まもりは少しだけ俯いた。
夕焼け空でよかったと、ちょっぴり思う。真っ赤に染まった顔、夕焼けのせいにできるから。
「じゅ、順番が逆になっちゃったわね」
「ああ、子供に結婚を先越される父親と母親ってのも、珍しいな」
うん、それもあるけど。
ちらりとムサシの横顔見上げて、溜息を飲み込む。
まもり、って、まだ呼んでもらってないのに、お母さん、か。
ちょっぴり不貞腐れたくなるのは、致し方ないところ。なにしろまだ女子高生。それなりに夢見ていたいお年頃。一足飛びに大きくて悪魔な子供までいるお母さんっていうのは、なんだかちょっと釈然としない気もする。
それでも、まぁ。
「……幸せだから、ま、いっかな」
こんな幸せのカタチがあってもいいかと、笑っていられるうちに笑っておこう。
きっと明日からもドタバタと、びっくりさせられることばかりの毎日だろうから。
それでもきっと、あんなカタチや、こんなカタチ、もっともっと幸せになれるはず。
だからまずは、手始めに。
「目標は、悪魔に負けない日本一の肝っ玉母さんよねっ。頑張らなくちゃ、ね、お父さん」
「……あー、まぁ、あんまり頑張り過ぎないようにな、母さん」
なんとなく、尻に敷かれた亭主二人の図が頭に浮かんだのは、言わぬが花。
並んで歩き出す二人の頭上、なにはともあれ、どちら様もお幸せにと、一番星キラキラ輝いていた。
END