光風霽月

 敵船の奇襲は、突然の雷雨とともに訪れた。
 手強い相手は皆無と言ってよかったが、天候の悪さと船団組んでの敵の多さには多少てこずり、戦闘が終わった頃には、それまでの激しさが嘘のように雨はやんでいた。

 既に時刻は夜半。晴れた夜空に蒼白い月が輝いている。
 月夜に波の音だけが静かに響く。

 向こうも終わったかと、乗り込んだ敵船の甲板に独り立ち、ゾロは、冴えた月明かりのなか遠くに見える幾つかの船影に目をやった。
 真っ先に敵の頭がいるとおぼしき大型船に乗り込んだルフィは、もうメリー号に戻っただろうか。メリーにはロビンが残ったはずだ。ウソップやチョッパーもいる。ナミの腕前ならば、あの嵐でも心配はいらないだろう。

 眼差しが、残る船を無意識に探す。
 敵を粗方斬り伏せた後、次の船に乗り込んだはいいが、どうやらこの船の航海士の腕はあまり良くないらしい。荒れ狂う波を考慮に入れても、他の船から流されすぎだ。
 まぁいいか。じきに迎えがくるだろうと肩を竦め、ゾロは両手に下げた刀を同時に振るい刀身に残る血を払うと、鞘に納めた。

 足りねぇ。

 知らず浮かんでくる言葉に、小さく眉根を寄せる。
 口に咥えた刀も鞘に納め、ゆっくり息を吐き心を鎮めようと試みたが、やはり両手はその感触を求めていた。
 人の肉を、骨を、命を断つ、その手応え。すでに馴染んで久しい、その感触。好んだことなど、ないはずだが。
 それでも、ゾロの手はそれを求めていた。海に出たばかりのころには、震え、嘔吐までした、人を殺す手応えを。

 望み、挑み続ける剣の道に、人を殺すなどという発想は、子供だった時分にはなかった。
 殺さなければ、殺される。今では当然のように受け入れているそんな現実を、思い悩むことはすでにない。人の命を初めて奪ったときに覚えた恐怖も、ためらいも、今ではもう思い出すのは困難だ。罪悪感などとうに消えた。

 野望のためには、生きねばならないのだから。

 生き残ること。それはすなわち、海に生きる者に課せられた掟であり、野望を果たすための第一条件でもある。
 血に濡れ、汚泥に塗れても、果たさなければならない約束がある。そのためならば、己が身の浄不浄などかまっていられるものか。

 思っていても、越えてはならない一線もまた、ゾロのなかにはあった。
 人を殺すことは、野望に近づくために避けては通れぬ手段ではあるが、目的ではない。人殺しのための剣など持ってはいない。
 持ってはいけないのだと。

 それを快楽と捉えたが最後、野望も約束もなく、ただ血だけに餓えた獣へと堕ちるだろう。

 獣に、剣の道はない。
 上を望むなら、人のままで。

 自身に強く言い聞かせたのは、何人目の命を奪ったときだったか。もう覚えてなどいないが、命の重さを心に留め置くこと、それが自分を『人』へと繋ぎ止めるのだと、今も思う。

 けれど。

 熱をおびる体と裏腹に、血だけが静かに凍りつく。穏やかな鼓動を裏切るように、息遣いは獣じみていた。

 いつも、こうだ。

 死線をくぐり抜け、幾人もの命を殺めたその後に、心が欲するのは、新たな血だった。

 足りない。
 まだ、足りない。

 獣が心の奥底で叫ぶ。吼える。血を求め、血に餓える。

 純粋な欲望だけが、そこにはあった。
 ぞくりと背筋を駆け上がる、快楽としか捉えようのない、欲望。
 何故こんなにも、抗いがたい。

 鎮まりやがれと、ゾロは小さく唸る。
 いつからだろう、この獣が心のなかに産まれたのは。
 いや、もしかしたらコイツはずっと以前より、そう、初めて人を殺めたそれ以前から、心の奥底で眠っていただけなのかもしれないと、ゾロは暗く燃える瞳を伏せた。
 累々と横たわる死者の群れのなかに立ち、もっと血をと望む。これは果たして人の所業だろうか。
 少なくとも己が望み、選んだ剣の道に、獣の歩む余地はないというのに。

 風が凪いだせいか、先程までより強く血の臭いが鼻をつく。大方の血は先ほどまでの雷雨が洗い流していたが、周囲に漂う死臭は消し去りようがない。
 なによりも、自分自身にそれは染み付いている気がした。

 血の臭いが、死の香りが、獣の餓えを掻きたてる。
 血が、凍る。

 いつからか始まった獣との諍いは、日を追うごとに烈しさを増している。今はまだねじ伏せ鎮めることもできてはいるが、いずれは危うくなるのではないだろうか。
 そしてその時こそ自分は人ではなくなるのだろうと、ゾロは、甲板を埋め尽す屍を見つめながら、ぼんやりと思う。自身の手で殺めた生の残骸を前にしても、もはや憐憫の情や罪悪感など浮かびもしない。
 獣が心の奥底で嘲笑う。もうわかっているはずだろうと、舌舐めずりして待ちかまえている。

 お前の本性は、俺なのだと。俺こそがお前だと、獣が吼える。

 獣の名を、狂気と呼ぶ。

 一体どれほどの時間、立ち尽くしていただろうか。背後に感じた気配に、ゾロは無意識に溜息をついた。
 振り返ることなく待てば、呆れたような声がかけられる。

「派手にやったもんだな」

 やりすぎだろうなどと責める調子は、まるでない。死者を悼む響きも感じられない。事実を言葉にしただけと言わんばかりの声に、心の奥で獣が唸る。
 ゾロは、薄く笑った。

「ほかの船は?」

 ――お前もわかっているんだろ?――

「とっくに終わったよ。テメェが迷子にならねぇよう、わざわざ迎えに来てやったんだ、感謝しやがれクソマリモ」

 ――だから焦っているんだろう?――

 暫しの沈黙に、背後で小さな溜息の気配がした。

「こいよ、ゾロ」
 呼び掛けに、ゾロはゆっくり振り返る。
 だが、まだ足は動かない。

 獣が叫ぶ。

「……おいで」
 月明かりに立つ、男の姿。やわらかな笑み。差し伸べられる手。

 屍を踏み越えて、ゾロはゆっくりと男に近づいた。

「クソコック」
「……おかえり、ゾロ」

 ――お前のいるべき場所へ帰っておいでと、呼ぶ声は優しく――

 サンジの手が、ゾロの手を取りそっと口許に誘う。
 手の甲への口づけは、恭しくすらあった。

 息を詰め、サンジの施す行為を見つめていたゾロの体から、少しずつ力が抜けていく。
 両の手に幾度か繰り返された口づけの後、静かに顔を上げたサンジと視線があえば、サンジはふわりと微笑むから。ゾロは、ゆるゆると息を吐いた。
 それに誘われるように、サンジの手がゾロの腰に回り、抱き寄せられたときには、ゾロは瞳を閉じていた。

 ――お前は獣にはならない。させない――

 一度として言葉にしたことのないゾロの不安を感じ取っているのか、サンジもまた、言葉にはせぬまま。
 けれど、戦闘の後には必ずゾロを抱き締める。
 血に濡れた手に唇を落とし、そして、口づける。
 帰っておいでと、口づけでゾロを呼ぶ。

 唇を噛み合わせ、深く差し入れた舌を絡めれば、獣の悔しげな唸り声が、次第に小さくなっていく。

 血が、流れだす。人の心を取り戻す。

「……メリー号は……?」
「風がないからな、迎えにくるまでまだ時間はあるけど……したい?」

 唇を触れ合わせたままの会話が、快楽の火を灯す。
 ニヤリと笑って見せれば、サンジの手が、早くも愛撫の色をのぞかせて背を撫でた。

 月明かりに照らされる死者の群れは、物言わぬままそこにある。抱き合う体に染み付いた煙草の匂いも、周囲に満ちる死臭を薄れさせることはない。
 こんな場所で性急に互いを求めてまさぐりあう姿は、よほど獣じみているのかもしれないが。

 それでも、コイツがいる限り。

 ――俺は、獣にはなれない。ならない――

 まるで儀式のように、ゾロはサンジの唇を、愛撫を、求める。触れられるたび浄化されてゆく血は、けれど、すぐにまた濁り、凍りついてゆくのだろう。サンジとの情交で、いつまで心のなかの獣を封じることができるのか。ゾロにも判りはしない。

 だが。

 今、サンジはここにいて。
 今、獣は再び眠りに就いた。
 今はまだ、それでいいと思う。
 晴れた空に照る月。風が吹いた。
 総ての憂い晴れる日はまだ来ない。

 それでも。

 [simple_tooltip content=’心になんのわだかまりもない様’]光風霽月[/simple_tooltip]の心持ちもたらす口づけ、今はただ酔って。
 明日はまた、己が信じた道に立つ。
 たとえばその道の先が、獣と化すより辛い修羅の道でも、きっと繰り返し抱き締める腕があることを、信じているかぎり。

 ――俺は、獣にはなれない。ならない。だから、ずっと側にいて、ずっとテメェが見張ってろよ、クソコック――

 愛してるなど、きっと生涯口にはしてやらないだろうがと小さく笑えば、ゾロ、とサンジの呼ぶ声がする。
 大丈夫だと漠然と思い、口づければ、確信に変わる。

 心のなかでだけ繰り返し呟くゾロの言葉は、切なく呼ぶ名とともに、風に消えた。

                                     終