「いい加減にしろ! 何が気に入らねぇんだよっ!」
隣の部屋から聞こえてきた従弟のゾロの声に、義母と一緒に洗濯物を畳んでいたくいなは、少し呆れた顔をしてみせた。
「今日は保った方かな?」
サンジが黙りこんで一時間。いつもならとっくにゾロは切れている。
次いで聞こえた義弟の堰を切ったような泣き声に、肩をすくめながら苦笑とともに言えば、義母は優しい笑みを返してくれる。
「そうねぇ」
栗色の髪をさらりと揺らして、義母は楽しげに笑う。そうして義母が笑うたび、くいなは今も少しドキドキして、とても誇らしい気持ちになる。
義母は美しく儚げな風情をしており、こんな田舎町では見かけることもなかったタイプの人だ。父に連れられて行った街のレストランで、初めて引き合わされた時には、女優さんみたいだと驚き、こんな人がお母さんになるのかと少し緊張したものだ。
それも、義母が連れていた小さな男の子を見た時の驚きほどではなかったが。
キラキラと光を弾く金の髪。澄んだ大きな瞳は海の碧。あどけない頬や母親の手を握る細い指先は、淡雪のように白かった。
友人の家で見たフランス人形か、絵本のお姫様のように愛らしく綺麗な子ども。
義母によく似た顔立ちは大層愛らしく、初めて見る金の髪や碧い瞳への驚きも相まって、思わず息を飲んだくいなに、その子ども――サンジは、笑みを見せることもなく、ぺこりとお辞儀したきりだった。
こんなに綺麗な人達が家族になる。ただもう嬉しくて興奮して、その時は気づかなかったが、サンジは会食中一度も声を聞かせてはくれなかったように思う。
だから別れ際、初めてサンジがはにかんだ笑みを浮かべ、「バイバイ、くいなお姉ちゃん」と手を振ってくれた時には、なにかふわふわしたものに包まれたような心地がした。感動をおぼえ、家族として、姉として、私があの子を守ってあげるんだと、固く誓ったのだが……。
「ゾロくんには我侭ばっかり言って……困った子よねぇ」
呆れているような言葉とは裏腹に、義母の声はやはり楽しげだ。くいなも笑んだ声で呆れてみせた。
「ゾロが悪いの。サンジくんにだけは甘いんだから」
笑いながら、ずるいなぁとくいなは少し思う。閉ざされたままの襖の向こう、冷えた和室の隅。膝を抱えて泣くサンジと、仏頂面をして泣けずにいるゾロが、見える気がして。
サンジは表面的には愛想もいいが、なぜだか周囲に壁を張り巡らせているような気が、くいなにはしていた。
その壁は薄く透き通って、脆いように思えるのだが、その実ひどく硬い。義母たちがこの家に引っ越してきたその日まで、くいなには、壊すことも乗り越えることも出来なかったというのに。
そこで初めてサンジと顔を合わせた従弟のゾロは、いともたやすくその壁にヒビを入れ、気がつけば粉々に打ち壊してしまっていた。
「ずっとあの子、あんな風に大声で笑うことも、泣くこともなかったのよ」
私が悪いのだけれどと、なにかの折に義母が、少し眩しげに庭で遊ぶ二人を見つめ呟くように言った時、くいなは不意に納得した気になった。
きっと二人は、ずっとお互いを探していたのだ。出逢う前から。
ゾロは本当はとても優しい子だけれど、ひどく短気で不器用な性格をしている。
それをわかっているくいなや、剣道の師匠でもあるくいなの父の前では、それはもう明るく子どもらしい笑顔を見せるのだが、見かけによらず人見知りする質なので、慣れぬ相手には無愛想極まりない。照れたり嬉しかったりすると、殊更、無愛想な仏頂面になってしまう悪い癖があるのだ。
その上、腕っぷしの強さと短気だけれど生真面目な性格も相まって、大概の友達は、どこか一歩引いてしまっている印象を受けた。
好かれていないわけではない。むしろ友人達は皆、ゾロの特別になりたがっていた。問題はゾロにあるのだ。
ゾロは、自分の心に誰かを入り込ませることは滅多にない。それはもう、かたくななまでに。
少なくとも、サンジと出逢うまでその特権は、くいなたち親子だけのものであったのだ。笑顔にもまして、涙など決して見せることのない負けず嫌いなゾロが、泣き出しそうに瞳を揺らすのは、自分たちの前だけだと、くいなは信じていた。
それを誇らしいと思わなかったと言ったら、嘘になる。
ずるいなぁと、くいなはまた少し思った。 同じような年頃の子どもたちのなかで自分だけが持っていた特権を、血の繋がりもなく、生まれた時からの付き合いという時間の長さもないサンジも、簡単に手に入れてしまった。
いや、きっとそれは、くいなが持っていたものよりずっと大きい。
今ゾロが瞳を潤ませるのは、いつだってサンジの前でだけだ。
従姉弟で。同じ道場に通い。不在がちなゾロの父に成り代わり、本当の姉弟のようにすごした、くいなより。
従兄弟とはいえ血の繋がりはなく。初めて会ってから、まだ一年半ほど。ともすれば喧嘩ばかりのサンジを。
ゾロの独りぼっちの心は、望んだのだと。
まるで昔見た理科の実験みたいだ。くいなは少しだけ可笑しくなった。
強く引き合って、ぴたりとくっついて離れない。あの二人はまるで磁石みたいだ。
なるほど、ゾロの後を一所懸命ついてまわるサンジは、磁石にくっついてまわる砂鉄のように思えなくはないなと、小さく笑う。
本当のところ、どちらが磁石でどちらが砂鉄だか、判断は難しいのだが。
「……似合わねぇもんっ! あんなの、ゾロには全然似合わねぇもん!」
大きな声で泣きじゃくるサンジの声がして、くいなと義母は顔を見合わせた。
サンジの不機嫌の理由は、思った通り今日届けられたゾロの制服だったかと、くいなは呆れた溜息をつく。
それを聞き取ったか、やはり少しばかり苦笑した義母は、
「中学校の制服、ゾロくんよく似合ってたのにねぇ」
春になったら学校が分かれること、制服姿を見たら実感しちゃったのね、と、困ったように、けれどどこまでも優しく嬉しげな声で言った。
世界一の剣豪と名高いゾロの父は、国内のみならず世界中を飛び回る忙しさで、妻亡き後もゾロを顧みる余裕がない。この春、中学にあがるゾロの、制服やらなんやら一切合財を用意したのは、この義母だ。
去年くいなが一足早く中学生になった時も、義母はあれやこれや手配し、男親では行き届かない細やかな気配りをしてくれた。初めて袖を通すセーラー服に面映ゆくうつむいたくいなを見て、嬉しげに目を細め、よく似合うと一番に誉めてくれたのも義母だった。
ゾロたち男の子と混じって遊び、スカートなど穿いたこともなく。男の子なら良かったのにと、ひっそり悩んだこともあるくいなだが、幸せそうな義母の笑みは、女の子で良かったと誇らしさすら感じさせた。
その時はサンジも、天使のように愛らしい笑みを満面に浮かべ、くいなお姉ちゃん綺麗、可愛いと、手放しで誉めてくれたものだ。
それどころか、自分のお小遣いを貯めて買ったシャーペンとペンケースを、お祝いだと言ってプレゼントまでしてくれた。
近所では到底買えそうにない洒落た造りの少し大人びたそれらを買うのに、わざわざ街までお守りさせられ三時間も連れ回されたと。不機嫌そうに言ったゾロの顔は、嬉しげな仏頂面。
まったく馬鹿馬鹿しくなっちゃう。
少しずつ小さくなっていくサンジの泣き声を聞きながら、くいなはちょっとだけ口惜しい気分で、小さく頬を膨らませた。
なんでわからないんだろう。
私が離れても、サンジ君はきっとあんな風には泣かないし。
私が誘っても、ゾロはあんな嬉しげに、甘やかしたりはしないのに。
お互いだけが気づいていないのだから、本当に馬鹿馬鹿しい。
なぜだか二人はお互いに、互いの一番はくいなだと思い込んでいる節がある。
それは、くいなにしてみれば迷惑極まりなく、だが、決して二人には教えてやる気などない、くいなだけの秘密だ。
ゾロの瞳が泣き出しそうに潤んだ時だけ、サンジは自分のすべてを晒け出すように泣くのだということも。
サンジの瞳が哀しげに濡れる時だけ、ゾロは泣き出しそうに瞳を揺らすのだということも。
くいなから教えてやる気などない。
まるで泣かないゾロの代わりだというように、惜しげもなく綺麗な涙を零すサンジには。
サンジと出逢ってから、まるでサンジの守護者であろうとするかのように、ますます涙を堪えるようになったゾロにも。
そういうのって、悪循環っていうんだよね。
先日習ったばかりの言葉を思い浮かべ、くいなは小さく溜息をついた。
だけど。
教えてなんかやらないんだから。自分で気づくまで、二人とも精々悩めばいいんだと、少しだけ意地悪したくなる。
勝手に勘違いして嫉妬やくなんて、男の子って本当にどうしようもない。
でも。やっぱり女の子はつまらないとも思う。どんなに頑張っても、いつかはチビなサンジくんだって、私より大きくなっちゃうだろうし。今は私の方が強い剣の腕だって、いつかはゾロと並ぶことさえできなくなるかもしれない。
なによりも、女の私には入り込めない二人の空気が悔しい。
閉ざされたままの襖を少し睨んで、くいなは小さくうつむいた。
だけどもしかしたら女じゃなくても、あの二人の間には入れなかったかもしれない。
女だから、一番じゃなくてもそれなりに、自分のことを特別だと思ってくれているのかもしれないから。
だから、ほんのしだけ。
誰より大切な、ともに切磋琢磨し並び立つ仲間だったゾロを、独り占めしたサンジに。
誰より大切な、なにをおいても守るべき愛し子だったサンジを、奪ってしまったゾロに。
これぐらいの意地悪は許されるだろうと、ちょっぴり笑う。
「百面相。どうしたの?」
つんと不意に頬を突かれて、慌てて顔を上げれば、義母が優しく笑っていて。くいなもつられて、照れくさく笑ってみせた。
「お義母さん、大好きっ」
畳んだ洗濯物をよけて、義母に抱きつき笑って言う。
驚いた様子もなく細い腕でくいなを抱きとめ「お義母さんもくいなちゃんが大好き」と、義母は綺麗な笑みを見せてくれるから。
男の子同士、私には入り込めない世界を作るなら、それでもいいよ。女の子同士、二人の大好きなお義母さんは私が貰っちゃうんだから。
少しの淋しさと口惜しさは、小さな意地悪で忘れてあげる。
ほとんど聞こえなくなったサンジの泣き声。
きっと今頃あの襖の向こうで、サンジは涙を流したままそれでもまっすぐゾロを見て、小さな声でごめんなさいと告げている。ゾロはその声にホッとして、ますます無愛想な仏頂面になり、不器用にサンジの頭を撫でるだろう。
いつもと同じように。
そうしてもうすぐ、襖が開くのだ。泣きじゃくって汚れた顔に、バツの悪げな照れた笑みを浮かべるサンジと。そんなサンジの手をぎゅっと握った、嬉しそうな目をした仏頂面のゾロが。揃って顔を覗かせる。
そうしたら、笑って言ってやるのだ。喧嘩ばかりするから、お義母さんは私が貰っちゃったよと。笑って舌を出してやろうと、くいなは決めた。
きっと二人は一瞬ぽかんとした顔を見合わせて、揃って笑顔を見せてくれるだろう。
くいなお姉ちゃんずるいと笑いながら、サンジは、義母に抱きつくだろうか。ゾロの手を握り締めたままで。
ゾロは慌てて顔をしかめるけれど、それでも小さな手を振り払うことはないだろう。ただ照れて無愛想になった顔で、義母を困ったように見上げるのだ。
義母はいつもの優しい笑顔で、皆の頭を撫でてくれるはずだ。もしかしたら、頬にキスなどしてくれるかもしれない。
それを思い浮かべると、なんだかワクワクとして、くいなの顔は花開くように綻んだ。
早く開かないかなと、甘える仕草はそのままに、くいなは閉じた襖を見た。
もうすぐ二度目の春が来るよと鶯が、庭の梅の木で一声鳴いた。
終