恋愛って、メンドクセェ。
それはとてもとても小さな声で。耳に入ったのは、本当に偶然。たまたまPCにデータを打ち込んでた彼の前に、煎れ直したコーヒーを置いた瞬間の出来事だったから。
偶然、には違いないけど、私のほうはちょっと気になることがあって話しかけるつもりでいた分、狙った偶然と言えないこともない。
ぼんやりしてるところなんて一度も見せたことのない彼が、タイピングの指を止めたまま、なんだか心ここにあらずって顔でいたから。おまけに、尖った耳の先、なぜだかちょっと赤らんでたりして。その上、時々ほんの小さくだけれど唸ってたりなんかしたら。
気にならないほうが、おかしいわよね。
だって、誰からもちょっと怖がられてて、金髪の悪魔なんて呼ばれてる人よ?
信じられないくらい傍若無人。言動はいつでも破天荒で理不尽。人の弱味はいくらでも握っているけど、自分の弱さは絶対に見せない人。
皆が思ってるほど、酷い人なんかじゃないってことは、もう知ってるけど。
多分彼も、私に聞かれるなんて思ってもみなかったんだろう。大体、すぐ傍に他人がいることに気づきもしなかったなんて、本当にらしくない。
ポツリと呟いた次の瞬間には、我に返ったのか、私を振り返り見た顔がカアッと赤く染まった。
……初めて見たわ、そんな顔。
どうしたのって心配するより先に、なんだか可愛いって思っちゃったこと、内緒にしといたほうがいいかしら。
もう、睨みつけなくたっていいじゃない。訊かないわよ、さっきの科白の意味なんて。きっと訊かれたくないだろうし。私だってなにをどう聞けばいいか、わからない。
だって、よりにもよって、『恋愛』だなんて。
そんな言葉がその口から出てくるなんて、私の聞き間違いじゃないかと思えるくらいだもの。
ああ、もう、なんだか気まずいなぁ。
練習が終わって、部室に残ってるのは彼と私だけ。本当はもう一人残ってるんだけど、今は外で犬小屋の修繕中。だから、今は、二人きり。
こんなシチュエーションは、実は珍しくない。鈴音ちゃんは誤解してるみたいだけど、私と彼が二人きりでいたって、お互いべつにどうということもない。たしかに、ほかの女の子に比べたら、私は彼にとってちょっとだけ特別なのかなって感じることはあるけど。でも、それは仲間として認めてくれたからなんだって、わかるもの。
それに、彼だけは知ってるし。私と誰かさんのこと。
だから、お互い二人きりでも気にしない。たまに誰かさんとのことをからかわれたりして怒ることはあるけど。だけど、こんなに気まずいのは初めてで、どうしたらいいのか……。
「……おい、糞マネ」
「えっ、あっ、はい、なに?」
いきなり話しかけてくるからビックリした。なにもなかった振りで無視されると思ってたから、心の準備が……。
「お前、ムサシと、その……恋愛、してんだよな?」
「……べ、別にやましいことはしてないわよっ」
またからかうつもりかと思って、ついムキになって言ったら、彼はちょっとだけいつもの皮肉っぽい笑顔を見せた。でも、それもほんの数秒。すぐに視線を外して、珍しくもためらってるように黙り込んでなにか考えてる。
ねぇ、本当に今日はどうしちゃったの? なんだか頬が赤い気がする。
思わずマジマジと見つめちゃったけど……肌、すごく綺麗なのね。知らなかった。色が本当に白くて、触ったらすべすべしてそうな肌。ちょっと嫉妬しちゃいそうなくらい。
それがほんのり赤く染まってて、少しだけ伏せられた切れ長の眼、長い睫が影を落としてる。
なんだか、そう、色っぽい、なんて。そんな言葉が浮かんできて、ドキドキする。
男の人にこんな言葉、変かしら。なんだか可愛い、なんて言ったら、怒られちゃうだろうな。
「……恋愛してんの、メンドクセェって思ったこと、あるか?」
色々と変なことばかり考えてたら、またぽつりと彼が口を開いた。どこか頼りない声で、ためらうように言葉をたしかめながら。こんな話し方、本当に珍しい。
「面倒くさいって、どういうこと?」
彼は視線を合わせない。少し俯いてさえいる。こんなこと、初めてだ。
「相手がなにしてるか、四六時中気になったり、誰かといるのにムカついたり……そういうの、ウゼェだろ。メンドクセェって、思ったりしねぇのか……?」
誰かのことが、四六時中気になるの? ほかの誰かとその人が一緒にいると、淋しかったり哀しかったり、ちょっぴり嫉妬したり、するの?
「恋、してるの……?」
思わず言ったら、彼の白い肌がますます赤く染まった。
ああ、本当に、恋、してるのね。
外道だとか、悪魔だとか。そんな風に言われて皆に恐れられてる彼が、たった一人の人を想ってる。こんな風に頬染めて、頼りなくなっちゃうくらいに、誰かに恋してる。
やだ、私、感動してる? でも、それぐらい驚いて、それぐらい、なんだか嬉しい。
だって、彼はいつだって、誰といたって、一人に、見えたから。
ああ、ううん、ちょっと違う。ムサシくんや栗田くんには、きっと気を許してる。でも、一人で立ってることに変わりはない。気を張って、一人で全部背負い込もうとして見えることに、変わりはない。
それがムサシくんにはちょっと淋しいみたいで……ちょっぴり妬けちゃうのは、内緒。
それから、あの人。いつも彼がバイクで迎えに来させている、彼曰く、糞奴隷。
他校の人なのに、いっつもこき使って、きっと迷惑してるんだろうと思うんだけど。実際、いつも彼と盛大に怒鳴りあったりもしてるんだけど。
でも、なんでかしら。二人とも、楽しそう、なの。
きっとそれは、あの人が彼を恐れていないからなんだと思う。試合に負けて奴隷なんて酷い扱いを受けることになっちゃったはずなのに、あの人は、彼と対等だと思っているみたい。
彼はいつでも命令してるし、あの人はそれをちゃんと叶えてるし。主人と奴隷。お互いそんなポジションを守ってるように見えるのはたしかなんだけれど。
それなのに、ううん、それでも、あの人は、彼を恐れていない。卑屈に謙ったり、不必要に媚を売ったり、しない。膝を屈しても、対等であり続けてる。
彼もそれがわかっていて、だからこそ、楽しそうなんだろう。あの人と怒鳴りあってる時の彼は、なんだか年相応に見えるもの。お互いやりあった後に笑うその顔は、なんだか信頼しあってるようにも、見えるの。
栗田くんがそれを見て「仲がいいよねー」って嬉しそうに言うたび、二人とも「どこが?」って顔をしかめるけど、皆本当は思ってるのよ? 仲がいいって。ちょっと嫉妬しちゃうぐらいに。
だって私たちは仲間だけれど、彼にそんな顔はさせられないんだもの。淋しいけど。私たちじゃ、駄目なの。
彼は私たちを導く人、だから。私たちの先に立って、道を切り拓く人、だから。隣には、立てない。
その彼が、恋してる。純情な女の子みたいに頬染めて、その子のことを四六時中考えてる。一人じゃなく、隣に誰かを迎え入れようとしてる。
それが、なんだかとても、嬉しい。
変ね。私までちょっとドキドキしてる。どんな女の子なんだろう。彼にこんな顔をさせることができたのは。
「好きな人のこと、つい考えちゃうのは当たり前だと思うけど……それって、ごく普通のことよ?」
自分でも信じられないくらい、優しい声が出た。不思議、本物の悪魔みたいに狡猾で、なんでもできちゃう人に見えるのに。今の彼、まるで年下の女の子みたい。
将来結婚して娘ができたら、こんな風に恋愛相談することになるのかしら、なんて。そんなことまで考えちゃう。
「……普通なんて、知るかよ。恋愛なんて、俺には関係ねぇって思ってたし、そんな邪魔くせぇもん、いらねぇって思ってたし! 誰かを好きになるとか、俺だけは絶対にありえねぇって思ってたし!」
……ちょっとビックリ。もしかして、初恋、なの?
「アイツが俺のことどう思ってるのかやたら気になって、命令した後で本当は嫌がられてるかもしんねぇとか考えて落ち込んだり、アイツの受け答えに一喜一憂したり! 笑顔ひとつに馬鹿みてぇにドキドキしたり! メンドクセェったらねぇだろうがよ! クリスマス・ボウル控えてそんなもんに振り回されんの耐えらんねぇから、玉砕するつもりで告ったはずなのに、あの野郎、俺も好きだとか言い出しやがっし!」
えーと……それって、奴隷扱いしてるって、ことで。それから……あの、俺って、いうのは、その、すごくボーイッシュな女の子……っていうわけじゃ、ないのよね。やっぱり。
「おまけに、俺のこと、可愛い、とか、言いやがるし……! この俺にだぞ!? ありえねぇってんだよ! どんな目してやがんだっつぅの!」
ビックリしすぎてなにを言ったらいいかわからないんだけど……ああ、うん、そうね。男の人が可愛いって言われても、困っちゃうだけかもしれないわね。ましてや悪魔って呼ばれてる人だもの。
でも、ごめんなさい。今のあなた、私にも、可愛く見える。
「両想いになった途端、一人で勝手に想ってたときよりドキドキするとか、ありえねぇ……。前よりもっと気になるとか、触られた瞬間、たまに泣き出しそうになるとか……変じゃねぇの? こんなメンドクセェこと、なんでほかの奴らはできやがんだよ。信じらんねぇ。いらねぇのに、こんな、メンドクセェ感情……」
「……面倒くさいんじゃなくて、怖い、のね……」
「……俺が、なにを怖がってるってんだ、糞マネ」
目をつり上げて、低い声で威嚇しても、怖くなんてありません。だって、あなたが可愛いこと、もう知ってるもの。
ねぇ、気づいてる? さっきのあなた、つんつんに尖らせた髪や幾つもつけたピアスなんて、全然脅しにならないくらい、素のままの顔してたこと。
ねぇ、まるで咲き綻ぶのを待ってる蕾みたい。少し震えながら、ちょっとだけ外の空気に怯えながら、それでもお日様の光で花開かされるのを待ってる、小さな蕾みたいで。なんだかいじらしくて、なんだか、可愛いの。
「自分の気持ち、かな」
彼と私、似ているところなんて全然ない。なのに、不思議ね。恋する気持ちは、一緒なんて。
「好きで好きで、その人で一杯になってく自分の気持ちが、時々、ちょっと怖い。今までと自分は全然変わってないつもりでも、その人を好きになってから、気がつくと知らなかった自分が色々出てくるのも、ちょっと怖いな。いいとこばかりじゃないから。でも……」
それでも。
「好きなのよね、どんなに、怖くても」
嫉妬したり、ちょっと意地悪してみたくなっちゃったり。そんな自分、本当は嫌い。それでも。
「捨てられないの。好きって気持ちは」
だって、大切なことは、ひとつだけ。
「大好きだから、捨てたくないの。大好きだから、怖いけど、怖くないのよ」
ねぇ、同じでしょう? 私と貴方。きっと、同じ。
少しだけ泣き出しそうに見える顔して、彼はそっと視線を外す。赤く染まった頬はそのままに。
「……お前に耐えられること、俺が耐えらんねぇわけ、ねぇよな? 糞マネ」
「もうっ、どうしてそんな可愛くない言い方するのよ」
「俺を可愛いなんて言う馬鹿は一人で十分だからな」
いつもの皮肉っぽい笑み浮かべて。悪魔復活。ちょっと残念。
「あ……」
不意に、彼の表情が変わった。
なに? 思った時に聞こえた、バイクの音。
そして。
蕾が綻び花開くように。
優しく、優しく、笑う。
幸せそうに、花が笑む。
ああ、そうか。そうなのね。
あの人、なのね。
「カッ! テメェいつまで待たせやがんだ!」
「ウッセェな、糞奴隷。今日はまだ呼んでねぇだろ」
「どうせ呼ぶんならさっさとしろってんだよ! いつ呼び出しかかるかわかんねぇ状態で待つ身になってみやがれ!」
「どうせ呼ぶってわかってんなら、もっと早くくりゃいいだろ。巡りワリィな、カメレオンは」
「カメレオンって言うな!」
ドアが開いた瞬間から、騒がしい。いつもの光景。楽しそうにいつもの悪魔顔。でも、私の目には咲き綻ぶ、満開の花、花、花が見える気がして。
「ッダー! もういい! 行くぞ、オラッ!」
「ご主人様に命令すんな、糞奴隷」
「はいはい、早くしてくださいませ、外道ご主人様! ほら、荷物寄越せよ、帰んだろ?」
「おう、今日の飯、デビーズな」
喚きあいながら、手は帰り支度。嬉しげに。ああ、なんで気づかなかったのかしら。こんなにわかりやすいのに。
二人騒がしく出て行く背中。幸せそうに寄り添って。
「ヒル魔くん!」
思わず声をかけた。振り返る顔に、ちょっとだけバツの悪そうな色。
笑って、人差し指を唇に当てて見せた。内緒のサイン。一瞬目を瞬かせて、ニヤリと笑ったヒル魔くんの長い指が、私と同じように唇に当てられた。
ごめんね、葉柱くん。あなたの好きなご主人様と、二人だけの秘密、持つことになっちゃったわ。誰にも言わないから、許してね。
入れ替わりに入ってきたムサシくんと私を残して、轟音が遠ざかっていく。ああ、どうしよう。なんだかとても。
「嬉しそうだな」
優しい声で言われて、ちょっとびっくりした。ムサシくんは少し笑ってる。その笑顔にドキリとする。
何度も見てるのに、今もやっぱり、ドキドキする。
本当ね、ヒル魔くん。恋愛って、面倒くさい。こんな風にいつまでもドキドキするの、自分が変になっちゃったんじゃないかって、ちょっと怖い。
だけど。
きっと1000回喧嘩しても、1001回目の仲直りでまたキスをするの。
きっと1000回涙流しても、1001回目の笑顔でまた大好きになるの。
そうやって、ずっと、きっと、少しだけ怖いまま、面倒だなって思いながら、二人で歩いていきたいって、思う。それは、あなたが、好きだから。
「ムサシくんのこと大好きだから、幸せなの」
笑って言ったら、ムサシくんは少し照れた顔して小さなキスをくれた。
あっちもこっちも、遅咲きの花、咲き綻んで。まるで、狂い咲き。幸せ色に染まってく。
あなたが好きって、花が笑う。
END