エンゼルキッス・デビルキッス

「えーと、ですね、ヒル魔さん」
「その呼び方、ウゼェ」

 一語のもとに切って捨てる冷ややかな声に、葉柱はぐっと言葉に詰まる。バイクを止めた瞬間からヒル魔の全身から発せられる不機嫌のオーラに、ああやっぱりね、判ってましたけどねー、と気圧されながら、早5分。漸く口を開けばこの始末。怒りの理由を察することは容易いが、その理不尽さにはやはり青筋のひとつも立とうというもの。

「ダーッ! いつまでも仏頂面してんなよ! そこまで不機嫌になるようなことか? しょうがねぇだろっ、あれ以上走らせんなぁ無理だったんだからよ!」
「あぁ? テメェがあと1分45秒速く走ってりゃ、この先の本屋に入れたんだろうが! テメェのノロさ棚に上げて歌ってんじゃねぇぞ、ファッキンカタツムリ!」
「カッ! 爬虫類通り越して軟体動物かよ、おいっ! この雨でスピード落とさず走ったら、スリップするっつうの! 大体テメェがもう1ラウンドなんて……スイマセンデシタ、モウイイマセン」

 ジャキっという音とともにテーブルの下、膝に突きつけられた冷たい感触の正体なんて、見なくてもわかるから、葉柱は両手を上げて降伏のポーズ。とはいえ理不尽だとは、やっぱり思う。

 お互い暫しの無言、アメリカンテイストに溢れた店内に聞こえてくるのは、妙にのんきで甘ったるい歌声ばかり。休日の夕方に、客は自分らのほかには耳も遠くなってそうな爺さんひとり、うとうと居眠りなんかしてやがるってこの状況。寒いのは、雨に濡れた身体ばかりじゃないと、葉柱はこっそり溜息を吐いた。

 降水確率20%の天気予報。からりと晴れた青空に誘われて、久しぶりのオフは遠出に決めた。昨夜のお泊りはヒル魔の家。せっかくのデートに自分ひとり制服なのはいただけない気もしたが、至極上機嫌のヒル魔はそりゃもう可愛くて。
 バイクを走らせた海岸沿い、その手の建物の看板がウザイほど並ぶのはお約束。名前のひとつひとつ読み上げてはゲラゲラ笑うヒル魔に、わかったから足ばたつかせんじゃねぇと怒鳴りつつ、葉柱も浮かれていた。
 タッチダウン。その名前が、きっと決め手。な、そこ入ろうぜ、喜々とした声に思わず振り向けば、ヒル魔の瞳はすでにスイッチオン。断るなんて滅相もない。
 入った部屋はシンプルな内装。シャワーもそこそこにベッドにダイブ。張り切ったのなんのって、ここで張り切らなきゃ嘘だろ、おい。

 ええ、もう、たっぷり決めさせていただきましたよ、タッチダウン。前半戦はベッド、後半戦は風呂。ベッドに戻って延長戦。ヒル魔も珍しく積極的で、自分から咥えてきてくれちゃったりなんかして……。

「……おい、テメェ、なに考えてやがる」
「ナニモカンガエテマセン、マスター」

 だからお願い、その銃口どけて、と、上目遣いに見れば舌が垂れる。
 チッ、と舌打ちひとつ、S&Wスミスアンドウェッソンをしまい込みアメリカンをすするヒル魔の髪は、いつものヘアワックスじゃないっていうのに、突然の土砂降りにもまだ天を突いている。
 それ以上追求しないのは、ヒル魔にもまだ先ほどまでの余韻が残っているからなのか、体力使い果たして怒鳴り散らすのも億劫なのか。どちらにせよ、店内で発砲されないのは有り難い。

 また零れそうになる溜息を辛うじて堪えて、葉柱はカフェオレに口をつけた。自然と視線が皿に置かれたままのそれに落ちる。正直、小腹は空いているのだが、目の前のそれにかぶりついたが最後、ヒル魔の機嫌は地を這う気がする。
 なんでこれにしちゃったかなぁと、自分でもちょっとばかり選択肢を誤った気はするのだが……BGMに触発されたとしかいいようがない。それにしたって、お前も食えと強要したわけでもないのに、そこまで睨みつけるこたねぇだろうよ、おい。などとは言えるわけもなくて、葉柱はしょんぼり肩を落とした。
 なんとはなしに視線を遣った窓ガラスは、まだ雨が打ち付けている。耳につくBGMは、何度も同じ歌繰り返す。甘すぎるほどの恋の歌。聞いていると、特に甘いもの好きでもない葉柱も、つい食べたくなるよな商品名織り交ぜて。
 甘いものを蛇蝎のごとく嫌悪するヒル魔にしてみれば、こんな店に入ったのは生涯で初の出来事なんじゃなかろうか。葉柱が商品を選んでいる間中、眉間に盛大な皺寄せて、居並ぶ商品には目もくれずにメニューを睨みつけていたヒル魔が注文したのは、アメリカンオンリー。当然、砂糖もミルクも目にすら入れず。
 失敗したなぁと、葉柱だって思わなくはない。だが、このいきなりの豪雨の中でバイクを走らせるなんて、自殺行為でしかないわけで。とにかくすぐにでもバイクを止めて雨宿りしなければ、冷えてくヒル魔の身体だって心配なわけで。
 と、思った途端にくしゅっと小さなくしゃみが聞こえ、葉柱が我に返れば、ヒル魔はふるりと肩震わせて、バツ悪そうに糞っと呟いた。
 妙に可愛いくしゃみになったのが癪に障ったらしい。なんだかやけに可愛い風情ではあるけれども、葉柱にしてみれば、そんな可愛らしさを堪能している場合じゃない。
 残暑の厳しさを思えば、店内に冷房がかかっているのは当然だろうけどよ、こんな天気の日にぐらい融通きかせりゃいいものを。ちらりと思いながら、白ランを脱ぐ。

「おい、これ羽織ってろよ。裏地しっかりしてっから、雨染みてねぇし」
「……イラネ」
「風邪ひいたらどうすんだ。いいから着とけよ」

 ヒル魔が言葉を重ねる前に立ち上がって、震える肩に白ランを羽織らせれば、ヒル魔もそれ以上は文句をつけず、ほんの少しだけ俯いて、そっと白ランの襟を引いた。

「まだ寒いようなら冷房切らせっけど……」
「……べつにいい」

 答える声が羞じらっているように聞こえるのは、気のせいばかりではないと思う。
 照れてる? なにに? 奴隷兼恋人として至極当然の行為。照れるようなことでもあるまいに。
 思いながら、それでもなんだか自分も照れくさくなって、誤魔化すようにカフェオレをまた一口。少し冷めてきてるのに、ちょっと眉間に皺寄せて。

「……それ、食えば?」
「あ? ……いいのか?」
「注文しといて今更なに言ってやがんだかよ。いいから、食え。その代わり、キスすんのは10回歯磨いてからな」
「じゅ……っ、て、あー、わかりました! 歯磨いてから、な」
「おう」

 それでもキスさせてくれるんだ。思えば葉柱の頬も緩む。
 素手で掴むのは躊躇する砂糖にまみれたそれを、備え付けのナプキンに包むようにして持ち上げれば、ヒル魔の瞳が少しばかりげんなりと細められる。人が食べてるのすら見るのも嫌だっていうこの嫌いようは、いっそ天晴れなぐらいだ。

「えーと、そんなに見つめられると食いづらいんですが……」
「あぁ? 人が優しく許可してやってんのに、文句つけやがるか、糞奴隷ファッキンスレイブ。俺様の半分は優しさでできてんだろうが。良かったなぁ、寛大なご主人様で」

 いやいや、どっちかってぇと優しさナノサイズ。浸透力抜群だから、いっけどな、それでも。思いつつ、言葉にする愚は犯さず、葉柱は力なく笑いながら手にしたそれに齧りついた。

「甘ぇ……」
「そんだけ糞砂糖まぶした上に、糞クリーム詰め込んでりゃ当然だろうが。ほかにも甘くなさそうなのあんのに、なんでそれよ」
「や……なんとなく……」
「ふーん……単純だな、糞カメレオン」

 ニヤっと笑ったヒル魔が、ちょいと耳を動かす。BGMは丁度葉柱が食べている商品の名に差し掛かったところ。図星だから、葉柱の頬は赤く染まる。

 思わず力が入って、溢れたクリームが零れそうになるのに慌てれば、ヒル魔はガキがいると笑うから。
 機嫌直ったのかなと、照れ隠しに食いづれぇのが悪ぃんだよと怒鳴りながらも、葉柱もやっぱり笑いたくなってくる。
 ファーストフードの店は色々と世間に溢れかえっているけれど、こんな空気が似合うのはこの店だけのような気がするのは、店内に漂う甘い香りのせいなんだろうか。それともこの甘くて擽ったいBGMが、そんな気にさせるからなのか?

「クリームつけてんじゃねぇよ、賊学ヘッド。みっともねぇ」

 言いながら、細い指先ひょいと伸ばされ……拭われたそれを赤い舌がちろりと舐めとるのを、葉柱は呆然と見る。

「糞甘ぇ……」

 眉をしかめて、声は不機嫌そうに。けれど耳の先、真っ赤に染めて呟くから、言葉になんて、できなくなる。
 逢ってすぐに虜になって。だけど上手く言えなくて。泣いて笑って時は過ぎ、今は二人、ドーナツショップ。身体を重ねることすら自然になったのに、こんな些細なことひとつに盛大に照れてる。

 テーブルに片肘ついたヒル魔の顔は、窓ガラスに向けられている。
 雨はまだやまない。
 葉柱も、同じように肘をつき、窓へと顔を向けた。
 薄暗い雨模様の屋外と、明るい照明に満ちた店内を隔てる窓ガラスは、歪めながらもお互いの顔を映すから。瞳はそれだけじっと見つめてしまう。

「……次にいくときは、飲茶あるとこにしろ」
「了解、マスター」

 顔をあわせず、けれど、見つめあったまま、ぶっきらぼうな会話。甘くて、甘くて。
 こっそりとテーブルの下、伸ばした指先。振り払われないから、もう少しこのまま。
 お代わりを聞きに無粋な店員がくるまでは、絡めあったままで。
 奥の喫煙席からくしゃんとくしゃみが聞こえ、思わず顔を見交わせあって笑っても、もう少しだけ、このままで。

 その先は……。

                                    END