そしてふたりは目を瞑った

 朝から霧雨が降っていた。元々人の往来の少ない山道だが、この天気では尚更、人影はない。そんな山道に、義勇はじっと立っていた。もう何時間こうして立ちつづけているのか。義勇にもわからない。義勇の視線は群生する山紫陽花に向けられていた。
 寺社仏閣に名所の多い紫陽花が、死者に手向ける花だと知ったのはいつだったか。どこで知ったのかなどはもう覚えてはいないが、きっと心のどこかにその記憶は残っていたのだろう。初めてここを歩いたときに見た、この蝶が舞い飛ぶ様子に似た花に、葬送を思い起こした。蝶は死者の魂とも、死者の化身とも言われるそうだから、あながち間違った想像ではないかもしれない。
 五月雨に濡れた紫陽花は、赤く染まっている。その赤味は、愛しい赫灼とは違うけれども、青よりはこの場にふさわしい色だと、義勇はうっすら笑った。
 一時、花の色は見事な青に染まっていた。炭治郎なら、義勇さんの目の色だとうれしげに笑ったかもしれない。土壌が酸性なら青に、アルカリ性なら赤に。リトマス試験紙と逆の反応を見せる紫陽花の花の色味は、時間の変化を如実に表している。
 野辺送りに似合う道かもなんて話をしたのは、初めてここを炭治郎と歩いたときのこと。二人で出かける場所はいつだって、人目のない場所だったから、それ以来この山道を散策するのは度々あった。その日の会話は常にはない陰鬱な話題が多かった気がする。死にまつわる話など、それまで一切したことはなかったが、何故だか妙に盛り上がったのをおぼえている。葬送のイメージとしては菊がポピュラーなのかもしれないが、遺体のイメージとなると桜だと話したのもそのときだった。桜の樹の下には屍体が埋まっている。梶井基次郎の小説のそんな書き出しの一文のせいだろう。
 しかし今の義勇は、死を想うとき、紫陽花を思い浮かべる。炭治郎もきっと同様だ。だからこの花をえらんだ。死者を弔う花。心変わりするかのごとくに色を変える花。それゆえ紫陽花の花ことばは移り気なのだと言ったのは誰だったか。皮肉なものだと義勇の笑みに自嘲がにじんだ。
 たとえば義勇がもっと口達者だったのなら、違う結果が待っていたのかもしれない。思ってみたところで時は戻らないのだから、考えるだけ無駄だとわかっている。それでも考えずにはいられない。考えることしかできないとも言えた。
 忍耐強く話をし誤解を解けば、こんな未来が二人におとずれることはなかったのではないかと。
 鬱々と詮無き物思いに沈む。信じてもらえなかった悲しさは、もう心のどこにもない。ただ、触れられないことが悲しかった。ほんのちょっとのすれ違いが生んだ疑念は、炭治郎のなかでどんどん膨らんで、義勇にもそれを受けとめる余裕はなく……そうして、今、義勇はひとり紫陽花の前にたたずんでいる。
 ままごとのような恋だった。同性との恋愛に踏み込む覚悟は互いになくて、それでも愛しあっていると互いに自覚している。好きだとは互いに言わず、けれど恋人同士のように体を重ねる関係。恋人ごっこというのが、いちばんしっくりくるだろう。たった一言想いを告げたのなら、恋人同士になれるのに、その一歩が踏み出せないまま、恋人ごっこをしているだけ。そんな馬鹿げた恋だった。人目を避けて逢うから、誰もふたりの仲を知らない。友人や家族にも、互いの存在すら知らせてはいなかった。それでもよかった。恋人とは呼べなくとも、愛していたから。
 勤め先の上司からきた見合い話なんて、ただの笑い話になるはずだった。少なくとも義勇にとっては。学生のころより逢える時間が減ったことや、慌ただしく体を重ねるだけの逢瀬に、炭治郎の心が少しずつすり減っていたことにすら気づかずに、惰性のようなつきあいが、いつまでも続いていくのだろうと思い込んでいたのだ。
 手ひどい裏切りだと感じたのは、どちらだったろう。見合い話を告げられなかった炭治郎か、それとも説明ひとつさせてもらえず責め立てられた義勇か。いずれにしても、どちらも傷ついていた。
 いつもなら落ち着いて話せることでも、そのときはお互い、長く続いた多忙な日々の疲れもあってか苛立ちが勝って、歯止めが利かなくなった。
 ルーズな質ではない義勇だが、その日にかぎってテーブルにペーパーナイフを置きっぱなしにしていたのも良くなかったのだと、今ならば思う。誕生日に炭治郎がくれた銀色のペーパーナイフは、理容用のハサミを作っているメーカー製のものだとかで、鋭さも切れ味も、ごく普通の刃物と変わりがない。贈り物には物はいけない、縁が切れてしまうから。そんなゲン担ぎなど、炭治郎は知らなかったのだろう。
 ノーブルな感じが義勇さんにピッタリだと思ってと、誕生日を祝ってくれた炭治郎は笑っていた。義勇の愛した明るい笑みだった。その笑顔も見なくなって久しかったあの日。ナイフを手にした流れはもう思い出せやしないのに、ぐしゃぐしゃに泣きぬれた顔に浮かんだ幸せそうな炭治郎の笑みだけは、いつまでもまぶたの裏から消えない。
 離れないでと笑った炭治郎に、義勇の胸に込み上げたのは愛おしさ。肉に食い込んだナイフと、俺だけの義勇さんになってと笑った炭治郎の顔。呆然としたのは一瞬で、義勇の顔にもすぐに笑みが浮かんだ。だってこれでもう炭治郎は義勇だけのものになる。血に濡れて震える手で抱きしめれば、炭治郎の腕が背に回り、初めて好きと口にした。込み上げる愛しさに目をつぶった義勇の記憶は、そこで途切れている。
 黙り込んだまま、雨のなか義勇は紫陽花を見つめている。死者の化身に似た花を。ずっと青ければいいのにと炭治郎は言うのだろうが、もともと赤みが強かった花だ。土壌の成分が以前と変わらなくなれば、青さを保つのは難しい。腐敗した遺体が発する硫化水素系のガスにより、一時期酸性に傾いた土壌の成分も、年月とともに薄れたのだろう。青よりも、赤いほうがいいと義勇は思うので、炭治郎には悪いが今は白骨化しているだろう遺体には感謝している。赤く咲く花は、義勇の炭治郎への想いをあらわしている気がするから。
 恋々として消えぬ想いが義勇をここに佇ませる。パシャリと雨のなかを歩く足音がした。義勇さんとやわらかな声が聞こえる。振り返る義勇のかたわらに、炭治郎が足早にやってきて並び立った。微笑みをたたえた顔で炭治郎は紫陽花に向かい、今日も俺の義勇さんは綺麗と幸せそうに言う。傍らの義勇を見ずに。見たいものだけ見られるよう、炭治郎は片目を瞑って生きている。きっと一生。ほかの誰も瞑った炭治郎の瞳には映らない。幸せを噛みしめて、義勇も目を閉じる。触れられなくても、炭治郎はもう義勇だけのものだから。

                         終