聞かせて

 空は晴天。風は穏やかな追い風。静かに響く波音と、甲板で無邪気にはしゃぐ仲間の笑い声。
 どこまでも平和な昼下がり。キッチンで立ち尽くすふたりにしてみれば、いっそ憎らしく思うほど。

 海賊だろうが海軍だろうが、なんだってかまわないから今すぐ襲ってくりゃいいのにと、キッチンの入り口に立ちすくんだまま、サンジは思う。
 失敗した。しくじった。気づかれたらおしまいだってわかっていたのに、なぜ我慢しなかった? なぜ我慢できなかった?

 手にした紙コップ、衝動的に握り潰しそうになるのを、なんとか堪える。顔も、辛うじて動揺を隠せたはず。上出来だ、俺。安堵の溜息を噛み殺す。

 頭のなかはフル回転。口八丁はお手の物。ごまかせ。得意だろ? いつもの調子で笑やいいんだ。

 懸命に自分に言い聞かせても、言葉は出ない。やけに口のなかが乾いて、舌先三寸すら動かせない。

 船影ひとつ見えないなら、いつもみたいに乱入してこい、お前ら。今なら鬼ごっこだろうがかくれんぼだろうが、喜んで付き合ってやる。
 耳が拾う騒がしい甲板の笑い声に、食卓に着いたまま身じろぎひとつできず、ゾロは胸のなかでこっそり舌打ちする。

 いきなりの沈黙。手にした紙コップも、サンジも、勿論ゾロ自身も、黙りこんだまま。

 気づかれた? 伝わっちまった? ポーカーフェイスのできない自分が憎らしい。

 無愛想、ぶっきらぼう、仏頂面。てめぇはいつもそう言うけど、別にしたくてしてるわけじゃねぇ。自分の意思で表情を作るのが苦手なだけ。意図して丸め込むような言葉は出ないだけ。
 だから余計に不安になる。期待が顔に出なかったか。想いを伝えてしまわなかったか。
 たやすく潰せる紙コップが、やけに重く感じた。

 始まりは、テーブルに置き忘れられた一対の紙コップ。糸で繋がれた他愛ないオモチャ。
 気紛れに始めた風を装って、子どものように電話ごっこに興じたのは、ほんの数分前のこと。
 お互いに伝えたい言葉は隠したまま。穏やかに流れた時間を断ち切ったのは、ゾロに知られぬようそっと糸をたるませ囁いた、サンジの一言だった。

 聞こえないように、サンジは囁いた。
 伝わらないように、ゾロは心を隠した。

 伝わることに怯えていたのは、どちらも同じ。相手の心を探ることすらせずに。今も手にした紙コップを、口にも耳にも当てられず、ふたりは視線をさまよわせた。

 甲板の笑い声は相変わらず騒がしい。キッチンの重たい空気が、余計に息苦しさを増すほどに。

「……飯」
「あ?」
 ぽつりと呟くように言ったサンジの声に、ゾロの応えは少し上ずっていた。
「飯、冷めるだろ。さっさと食えよ」
「……遊ぶのに付き合えって言ったのは、てめぇだろうが」
 やけに乾いたサンジの声音に、ゾロがいつものように文句で返せば、サンジの顔にほんの刹那安堵の色が浮かぶ。ゾロがそれと気づかぬうちに、消える、微かな笑み。

「俺は食いながらって言っただろうが、ちゃんと聞いとけよ。そのマリモ頭の中身は空っぽか?」

 違うんだ。こんなことを言いたいわけじゃなくて。本当はもっと、先刻までみたいにお前と笑って話をしていたかった。仲のいい友達みたいに、笑いあっていたかった。それだけで良かったのに。

「てめぇみてぇに女のことしか考えられねぇよりゃマシだ、このエロコック!」

 なんでいつもこうなっちまうんだろう。多くは望んでいないのに。ただ穏やかに話をしたいと、笑ってほしいと思っているだけなのに。気がつけばいつもこの有り様。今日は違うと思ったのに。嬉しかったのに。
 一度堰を切ってしまえば、出てくる言葉はお互い悪態ばかりだ。

 相性が悪い。ウマが合わない。自分たちを言い表すのにふさわしい言葉は、きっとそんなものばかり。嫌われているとは、思いたくないけれど。好かれているなんて、思えないから。いつでも怒鳴り散らして、悪態の応酬ばかりになる。お互いに。
 耳が拾う悪態に、傷つきたくなくて声を荒げてやり返す。聞きたくない。もう黙れよと、お互いに。喚き散らして相手の言葉をかき消す。自分たちの会話なんて、所詮こんなもの。傍から見れば、きっと会話ですらない。

 それでもやめられないのは、これぐらいしか話すことができないから。
 こんなときしか、きっと相手にはしてもらえないと思うから。
 それが哀しい。だけど言葉はいつも喧嘩腰。それが切ない。

 サンジの瞳が、手にした紙コップにちらりと落ちて揺れる。
 ここから聞こえてきた声は優しかったのにと、ゾロは思う。

 ああ。やっぱりどうにもならない、俺たちは。ふたり、思い。
 聞いてと、願う。少しでいいから、耳を傾けてくれたなら。
 少しは素直になれるだろうに。伝える勇気も持てるのに。

 思ってみても、それを口にはできない。想いを伝えて避けられるよりはと声を荒げては、嫌われていく不安に耐え切れず、実力行使に出てしまうのが、お互いの常。伝えられない二人のコミュニケーションは、それが精一杯。今日もその轍を踏むはずだったのだけれど。

「んだと、てめぇ上等だ! 表に出やが……っ!?」
 突然サンジの声が止まった。口を塞ぐ二つの手。目を白黒させたのはお互い様。
「ロビン!? てめぇいつから……!!」
 ゾロの頭にもにょきりと生えた二本の腕は、やっぱり怒鳴る口を塞ぐ。力任せに引きはがそうとするゾロに比べ、サンジは為す術なく視線をさまよわせるばかりだ。抵抗ひとつしやしない。
 それに気づけば、ゾロの胸はツキリと痛む。
 今更これしきのことで傷ついてなどいられない。思うけれど、痛いものは痛い。辛いものは辛い。
 だからいつも馬鹿にしてみせた。くだらないと笑ってみせた。いつだって。
 ムキになって言い返してくるサンジに、どんなに胸がうずいても。サンジの瞳が自分だけを映すのは、そんな時ぐらいしかない。情けないと己を叱咤しても、心の奥が歓喜に震える。
 本当に言いたい言葉は、言えないまま。
 そして。抵抗するゾロの手から、わずかばかり力が抜けた。瞳が潤みだすのは、息苦しいからだと、サンジを睨みつける。胸の痛みが伝わってしまわぬように。
 だけど、本当は。

 
 不意にサンジの口を覆っていた手が消えた。
 大きく息をついて、サンジは途方に暮れていた瞳を苦笑に細めてみせる。
「ロビンちゃん、なんか用かい? お茶のお代わりなら今すぐお持ちしますよ」
 困惑も戸惑いも、笑みが隠してくれればいい。思いながらサンジは襟を正す素振りで少しうつむいた。薄く笑ったまま。
 少なくとも、ゾロにさえ伝わらずにいてくれれば、まだ笑顔を続けられる。辛い辛いと泣くのは簡単だけれど、それをゾロには知られたくないから。
 ゾロは本当は優しい男だと知っているけれど、同情で想いを受け入れるような人間ではないことも、サンジは知っていた。
 馬鹿なことをと笑ってくれりゃまだ救われる。気持ちワリィと避けられるなら、諦めることもできるかも。けれどきっと、与えられるのは最も望まぬ日々だろうと、サンジは思う。今までとまるで変わらず、なにもなかったかのように、ゾロは自分に接するのだろうと。
 そのくせ人の『本気』を笑えぬこの男は、自分を傷つけぬよう言葉を閉ざすようになるはずだ。

 喧嘩なんて本当はしたくない。けれど嬉しかったのは事実。楽しかったのも事実。ゾロの瞳が自分だけを映して、ゾロの唇が自分に向けてだけ言葉を紡ぐ。どんなに胸が痛んでも、嫌われていくことに怯えても、たったそれだけのことが嬉しくて、楽しくて。けれど。伝えてしまえばそれも終わる。
 ゾロの瞳にためらいが浮かんで、ゾロの言葉は閉ざされる。望まぬそれが、目に見えるよう。人生なんてそんなものだ。
 だけど、本当は。

「ガキの遊びはお終いだ。さっさと食えよ、寝ぼすけ剣士……っと、ロビンちゃん?」
 小馬鹿にした口調を装って言い、前へと踏み出しかけたサンジの足は、けれど動かなかった。
 サンジとゾロの視線が、サンジの足元へと落ちる。そこにあったのは、サンジの足を掴み止める二本の手。誰のものかは言わずもがな。
「あ、あの、ロビンちゃん?」
 さすがに困惑したサンジが身動げば、突然現れる新たな手。サンジの背中から。サンジの腕を取り、上へと導く。
「……続けろと?」
 口元に導かれたサンジの手には紙コップが握られたままだ。
「んんっ!」
 同じようにゾロの背中に生えた手は、ゾロの手を耳元へと。唇は、塞がれたまま。
「話せ……ってことなんだろうけど、もうこいつと話すことなんてないよ、ロビンちゃん。こんなもん使ってまで喧嘩する気もないし」
 サンジの声に微かな苛立ちがにじんだ。聞かれているとわかっていながら、ゾロが先刻までのようにこんな遊びに付き合ってくれるとでも? この男が意外と恥ずかしがり屋で意地っ張りなのは、ロビンだって知っているだろうに。
 自分だって聞かれたくなんてない。それがロビンでも、たとえナミでも。先刻までの時間が幸せだったのは、喧嘩ではない二人だけの時間を、言葉を、共有できたからだ。
 誰にも知られず大切にしまっておきたかったのに。
 溜息ひとつ。ちらりと上げた視線の先には、ゾロの憮然とした顔。不機嫌そのものだ。
 と、今度はゾロの口を覆っていた手が消え、サンジの口が塞がれた。
「ぷはっ! てめぇ、ロビン! ざけんじゃねぇぞ!」
 無理矢理動かされた手は口元に。その手には紙コップ。サンジの手は耳元に。手にはやっぱり、紙コップ。
 先のサンジの言葉に傷を増やした心を隠すよに、ゾロは大声で怒鳴る。思わずサンジが肩をすくめ、目を閉じるほどに。すると手がまた動いた。

「てめぇ、いきなり怒鳴ってんじゃねぇよ!」
「てめぇこそ怒鳴ってんじゃねぇかよ!」
「てめぇが怒鳴るからだろうが!」
「うっせぇっ! 俺はロビンに怒鳴ったんだ、てめぇにじゃねぇよ!」
「なお悪いわっ、レディに怒鳴るなんざ言語道断だってんだよ!」

 怒鳴り声の応酬では、紙コップは意味をなさない。いつもと同じ罵りあいに、ほんの少しだけ、ふたりとも安堵した。

 けれど、タイムラグはどうしたって生まれる。いつもなら、聞きたくないと怒鳴り声を被せあうところなのだけれど。

「……いつまでこんな阿呆なこと続けんだ?」
「さぁな。ロビンちゃん次第だろ」

 交代制の怒鳴りあいにもいい加減疲れて、お互いの肩が落ちて早十分ほど。溜息すら交互に零してるこの現状。端から見たらさぞかし滑稽だろうと、思いつつ。
「おい、クソマリモ……」
「……なんだよ、エロコック」
 疲れていた。怒るのも面倒くさくなってきてもいた。ついでになんとなくこの状態にも慣れてきてしまっている。
 相手の言葉を聞いてからでないと、言葉を発することはできないから、自然と耳をかたむける。考える。相手の言葉のその意味を。
 みっともないことこの上ない状況だから、これ以上晒す恥もない。どうせならもっとこいつの言葉を聞いてみたい。そんなことを、お互いに思ってみたりもする、この現状。

「飯、冷めちまったろ。後で温めなおしてやろうか?」
「……いや、いい。てめぇの作る飯は、冷めても美味いし」
「ハハッ、てめぇに誉められたの初めてだな」

 相手の言葉が聞きたくて。

「昨日の魚の煮付けも美味かった。俺の故郷の料理だろ? 作り方調べたのか?」
「まあな。海の上が長いと故郷の味が懐かしくなるだろうと思ってよ。気に入ったならまた作ってやるよ。ほかには食いたいもんあるか?」
「ある……けど、作り方調べるの手間じゃねぇのか?」
「レパートリー増やすのは手間とは言わねぇよ。気にすんな。ああ、でも食材や味はどんなふうだとか、なるべく詳しく教えてくれると助かる。教えてくれるか?」

 問掛ける言葉が多くなる。知りたいと思う。聞きたいと思う。
 相手のことを、その言葉を。その心の奥を。
 胸に湧く期待。溢れそうな言葉。想い。だけど自分の心より、今は相手の心をただ思う。

 至極穏やかな時は、ゆったりと流れる。体を束縛する腕の存在は、いつのまにやら忘れていた。交互に紙コップを耳に当てるのも、自然と自分の意思で行われている。

 もっと。もっと聞きたい、お前の言葉を。もっと知りたい、お前のことを。もっと。ふたり、同じように思いながら、笑いながら。

「……なあ、先刻……なんて言ったんだ……?」
 問い掛けるゾロの声は、どこまでも穏やかだ。瞳も、ただ静かにサンジを見つめている。
 聞いてほしい、と、思うことはあったけれど。いつでも本当は、聞いて、と思っていたけれど。

「……別に、大したことじゃねぇよ……」
「それでもいい。聞かせろよ」

 聞かせて、と、思ったのは、初めてで。

 本当はずっと、望んでいたことだったのかもしれない。けれど、いつだって自分の気持ちに手一杯で。相手の気持ちを聞くのはどうしたって怖くて。 聞かせてほしいと望むことを、端から諦めていたような気がする。
 けれども今は、聞かなければ話せない。言葉を遮ることはできない。だから今、聞かせてほしいと、ゾロは小さく笑った。
 もしも自分の気持ちが伝わってしまっていたのだとしても。サンジの答えがどうでも。逃げ道のない今でなければ、聞けない気がして。
 胸に少しの期待と、大きな不安。覚悟は、できた。

「なんで、こんなときばっか聞きたがんだよ、お前」

 こんな状況でも、ゾロの言葉を穏やかに聞いていられるのが嬉しいと。もっと聞かせてほしいと、思い始めたその矢先に。
 言えるわけがないだろうと、サンジは溜息を噛み殺す。我慢して飲み込んできた、その言葉ごと。
 本当は、ずっと、言いたくて。だけど、言うのは怖くて。
 そうして、逃げてきた。ずっと。
 聞いて。聞いて。本当は。そればかり考えながら、囚われながら、それでもそんな言葉は噛み殺してきた。
 苦くうつむき、そして。サンジは、ふと気づいたそれに目を見張った。

 怖かったのは、ゾロの気持ち。先回りして怯えて、そのくせ本当は聞いてほしいのにと、勝手に苛立ちを募らせた。不安を育てた。
 聞いて、聞いてと、望むくせに、聞かせてくれとは怖くて望めず。少しでいいから自分の言葉に耳を傾けてくれたなら、伝える勇気も持てるかもしれないけれど。きっと聞いてなどくれやしないから。会話になんてならないのが俺達の常だからと、少し逆恨みして、諦めと不安ばかり育ててきた。
 ゾロの言葉を、自分は聞かずに。聞きたくないと、怒鳴り声で、掻き消して。

 ゆっくりあげられたサンジの顔は、泣き笑いの表情。けれど瞳は真っ直ぐゾロを見据えていた。
 小さく笑いだしたサンジに、ゾロが小首をかしげる。澄んだ翡翠の瞳には、珍しくも不安の色が少し。

「……そりゃ会話になんてならねぇよな。馬鹿みてぇ」
 自分だけが喚いても、会話になどなるわけもない。そんな簡単なことにすら気づかぬほど、自分の心にばかり囚われて。勝手に怯えて落胆して、また喚く。なんて馬鹿馬鹿しい。
 そんな馬鹿馬鹿しさにすら、気づけずにいた自分に呆れ返る。情けなくて笑えてくる。

「初めて、なんだよ。こんなのは……」

 いつだって相手を楽しませることばかり頭にあって、キスもセックスも余禄みたいなもの。楽しく過ごせりゃなんだってかまわなかった。淋しさだとか諦めだとか、そんなものを誤魔化してくれる恋愛ごっこ。だけど恋だと信じてた。疑わなかった。
 こんなふうに、相手のことすら見えなくなるぐらい、自分の想いの重さに囚われるのは、初めてで。
 一緒にいれば楽しくて、でも、苦しい。笑ってくれれば嬉しくて、だけど、切ない。
 相手の気持ちに、ただ、怯える。そんな気持ちは、初めてだったから。

「知らなかったんだ……こんな気持ちが、恋だなんて……」

 見開かれるゾロの瞳に、綺麗だなと、サンジは思う。真っ直ぐに見つめてくれる瞳は、ただただ綺麗だ。
 その瞳に、吸い込まれていく。期待も、不安も、なにもかも。
 もっと話をしたいから、聞かせてほしいと、今、思う。それがどんな答えでも、そこですべてが終わるわけじゃない。耳をかたむけて言葉を聞けば、会話につながる。ゆっくりとでいい。少しずつでいい。心を近づけていく術は、そこにある。

 だから。

「好きだ……ゾロ」

 落とした紙コップが立てた音はかすかで、サンジの囁きに紛れて消えた。
 ゾロの唇が小さくおののくのを見つめて、いつのまにか束縛する腕が消えていたのを知る。

「好きだ」

 ゾロの手からも落ちた紙コップ。小さく震える手が口元を覆う。
 隠さないでと、サンジは願う。聞かせてほしいと、ただ希う。
 腕を伸ばして、その手に触れる。震える手で、そっと……。

「抱きしめたい。てめぇに触れたい。キス、したい。できれば、その、先も。……そう、言った」

 怯えないで。怖がらないで。願いながら。自分に言い聞かせながら。サンジはそっと囁いた。

「……嘘つけ。んなに沢山言ってねぇだろ」
 ちゃんと言葉になっているか、ゾロは少し不安になる。聞こえる声は掠れて上擦って、みっともなく震えているから。
「言ってたさ。ずっと。言葉にしなかっただけで、俺は、ずっとてめぇにそう言い続けてたんだぜ?」
 伝わってる? 聞こえてる? 聞いてほしい。聞かせてほしい。思いながら綴るこの言葉が、優しく響きますようにと、頭の片隅で考えた。

「いっつも怒鳴って、文句ばっか言ってたじゃねぇか」
 本当は淋しかった。本当は哀しかった。そんな言葉は伝えられそうにないけれど。拗ねた声音はきっと伝えてしまうから、少しうつむいて。けれど、目は逸らさずに。

「……ごめん。聞くのが怖かった……てめぇの気持ちを聞くのが怖くてよ、いつも聞こえないように怒鳴っちまってた……」
「まだ……怖いか……?」
「少しな……」
 サンジの顔は少し不安の残る苦笑。そんなサンジを上目遣いに睨むようにゾロは見るけれど、その頬も、耳も、赤く染まっていた。
 可愛いと。抱きしめたいと、サンジが思ったその刹那に。

「……俺も、好きだ……」

 抱き寄せられ、抱きしめられ、震える囁きは、耳元に。紙コップが伝えてくれた声よりも、近くに。
 ぴたりと合わさった胸に、響く鼓動。速くて。胸が、腕が、すべてが、震える。

 海賊も海軍も、今だけは襲ってくれるなと、ゾロの背中をかき抱いてサンジは思う。
 今だけは、ゾロの声だけを、ゾロの鼓動だけを、聞いていたいから。

 船影ひとつ見えず飽きたとしても、いつもみたいに乱入するなよ、お前ら。今だけは、付き合ってやれそうにない。
 ゾロは腕のなかに閉じ込めたサンジの鼓動に、耳を擽る嗚咽に似た吐息に、小さく微笑み目を閉じた。

「今日の喧嘩は随分早く終わったわね」
 パラソルの下、キッチンのほうを見やってナミは呟いた。時刻はそろそろおやつの時間。喉を潤すアイスティーもちょうど切れた。
「私のでよければどうぞ、航海士さん」
 サンジを呼ぼうとした声をロビンに遮られ、ナミの瞳が小さくまばたく。
「……もしかして、邪魔しちゃう?」
「そうね、今は声をかけるのは可哀想だと思うわ」
 微笑むロビンに、ナミは少し唇を尖らせた。
「自分ばっかり楽しむのはズルいんじゃない?」
「あら、少し手を貸してあげただけよ?」
 睨みつける視線を微笑みでかわせば、ナミの肩が小さくすくめられた。
「まぁいいわ、最近かなりうっとうしかったしね」
 まったく、お互いを見てれば好きあってることなんて丸わかりなのに、なんで気づかないのかしら。呆れ返った声で言い、ナミはロビンのグラスに手を伸ばした。
「ゾロはサンジくんの言うことにだけ、いちいち反応するし、サンジくんはサンジくんで、ゾロにだけつっかかるし。ちょっと素直になればすぐわかることなのに、馬鹿みたい」
 こくりと一口飲み込んでグラスを返すナミに、ロビンは微笑んだまま小首をかしげる。
「全部どうぞ」
「んん、一口でいいの。ロビンも好きでしょ? サンジくんの淹れたアイスティー」
 ナミも笑って、ちらりとキッチンを見やる。甲板の大きな笑い声は、平和そのものだ。キッチンからはなにも聞こえてはこない。
「ちゃんとこんなふうに会話しないからいけないのよね。ふたりともお互い相手の気持ちを先回りして考えすぎて、ちゃんと話を聞こうとしないんだもの」
「聞いてって願うことは、聞かせてって願うのと同じだものね。どちらか片方じゃ成り立たないわ」
「まったくよ。でも、これで少しは喧嘩も減るかしら」
「それはどうかしら。痴話喧嘩になるだけじゃなくて?」
「あぁ、それはそれで考えるだけでうっとうしいわね」
 げんなりと溜息をつくナミに、ロビンも笑ってグラスに口をつける。だいぶ小さくなった氷がカラリと音を立てた。
 なんとはなしにその姿を眺めながら、ナミは、ルフィたちがおやつって騒ぎ出すのがもっと後になればいいのにと、ぼんやりと思う。穏やかな時間を、もう少しだけ。あのアイスティーが全部なくなるまで。
「で、あいつらどんな話をしてるの?」
「あら、それは駄目よ、航海士さん。それは恋人たちの秘密。覗き見しちゃ可哀想よ」
「それは残念。ちょっと興味があったんだけどな」
 口元に立てる指が綺麗、少し思いながら、ナミは笑って空を仰いだ。

「本当に今日はいい天気ね」

 空は晴天。風は穏やかな追い風。静かに響く波音と、甲板で無邪気にはしゃぐ仲間の笑い声。
 どこまでも平和な昼下がり。キッチンで抱きしめあうふたりの耳にはもう、届かない。会話もない。

 お互いの唇は、今、言葉にしきれぬ想いを伝えようと、重なりあうことにだけ、夢中。

                                     終