アップルジャックで乾杯

 その日、メリー号中にあふれていた香りは、キッチンの戸を開けた瞬間、より強く香った。

「スゲェな……」

 思わず呟いたゾロに、振り返ったサンジの顔は上機嫌だ。

「おう、いい匂いだろ」

 弾むような声で言い、芳香の元である赤い果実に軽く口づける様子は、まるでその実に恋でもしているかのようだ。
 肩をすくめて椅子に腰掛けたゾロは、やれやれと周囲を見回した。
 夕食の時間まではひとまず格納庫に仕舞い込まれていた赤い果実が、テーブルの上は言うに及ばず、床にも棚にも、あふれている。
「市場で買い込むときにチェックはしたが、箱買いしたからな。一応一通りチェックし直さねぇとと思ってよ」
 ついでに仕込みも色々と。夜食を食いに来たなら、もうちょっと待ちなと、サンジは言う。
「そりゃ別にかまわねぇが、買い込みすぎじゃねぇのか? 腐らせちまったら勿体ねぇだろ」
「ざけんな、クソマリモ。俺様が食材をそんな目にあわせるわけねぇだろ。それにリンゴは貯蔵性が高いからな、幾ら買っても足りねぇぐらいだよ」
 栄養価は高いし日持ちもする。まさしく林檎様々だと、サンジは手にした果実を見つめたまま、愛しげに笑う。

 今日立ち寄った島が林檎の名産地だったことが、サンジの上機嫌の始まりだ。
 嬉々として市場に向かったその二時間後には、メリー号は林檎であふれかえっていた。

「そういうもんか?」
 なんの気なしにゾロがテーブルの上の林檎をひとつ取ると、すかさずサンジが手にした林檎を放り投げてきた。
「食うならそっちにしな」
「なんでだよ。どっちも変わらねぇだろ?」
「変わるんだよ。今てめぇが手にしたのは紅玉だ。生で食うより菓子に使うのがベストだな。んで、俺が投げたやつがジョナゴールド。生なら断然そっちのほうが美味いぜ」

 笑いながら言われ手にした林檎を見比べるが、ゾロには違いがわからない。
 林檎は林檎。赤くて甘酸っぱい果実。なんの違いもないだろうと思うのに、サンジの目には一つ一つがちゃんと異なって見えるらしい。

「こっちは王林。貯蔵性はこいつが一番だな。だからこいつを食うのは、一番最後。紅玉は三分の一をジャムにすんだ。そのまま食ってもいいし、タルトのフィリングにしてもいい。明日の朝食のサラダは、そのジョナゴールド入れてやるよ」

 前に気に入ったって言ってたろと、サンジは嬉しそうに笑う。
 以前サンジが作った、林檎と水菜のサラダとやらが美味かったのはたしかだから、ゾロは小さくうなずいた。
 けれど、それにふさわしい林檎などと言われても、やっぱりゾロの目にはどれも同じに見える。違いだって、より甘いか酸っぱいか、噛み心地は固いか柔らかいか、そんなことぐらいしかえわからない。
 それだって食べ比べてみてやっとわかるだけで、どれがなんの料理に向くだの、生で食べるならどうのと言われても、なにがなにやらちんぷんかんぷんだ。

 けれど。

「けどまぁ、てめぇにはこっちの林檎のほうがいいかもな」
 どうせ目当ては夜食より酒だろと、笑いながら立ち上がるサンジの背中を見つめ、サンジの機嫌がいいならそれでいいかと、ゾロはぼんやりと思う。
 苛々している時のサンジは扱い辛くて敵わない。たかだか林檎ぐらいでにこにことしているなら、いくらでも買い込んでくれとこっそり肩をすくめる。

 サンジの目に映るものと、自分の目に映るもの。同じものを映していても、捉え方はこんなにも違う。
 けれど、それは決して不快じゃないと、ゾロは小さく笑った。

 と、棚からなにやら取り出したサンジが戻ってくる。

「ほらよ」
 ゾロの目の前に置かれたのは、一本の酒瓶。
 「アップルジャックっていってな、林檎で作るブランデーだ」
 言いながらグラスを差し出され受け取れば、サンジは、手にしたナイフで器用に瓶の蜜蝋を剥がした。
 手にしたグラスにとくりと注がれる酒は、林檎の香りがする。
「……甘ぇ」
「味わい的にはリキュールに近いからな。けど、珍しい酒なんだぜ? カクテルにしてやってもいいが……そっちも試してみるか?」
 言われうなずけば、サンジは笑みを浮かべたまま酒瓶を手に立ち上がり、流しに向かった。
 それを見つめながら、こくりとまた一口グラスの酒を口に含めば、口のなかに広がる、とろりとした甘さ。

「このアップルジャックで作るのが本来の作り方なんだけどよ、手に入りにくいから、大概の酒場じゃ、カルヴァドスっていう同じ林檎で作る蒸留酒を使ってるカクテルがあんだよ。グレナデンシロップ入れるから、やっぱり甘いんだけどな。けど、こいつの魅力はその色にもあるから、あんまりシロップを控えるのも良くねぇ」

 ゾロを振り返り見ることなく、サンジは手を動かしながら言う。低い声音は至極穏やかで、どこか甘い。

 とろりとした酒が、またゾロの喉を滑り落ちていく。酒の肴にサンジの背を見つめたまま、こくり、こくりと、ゾロはゆっくり酒を呑む。
 口中に広がる酒気をおびた林檎の芳香と甘味が、ゆるゆるとゾロの身を満たしていく。

「ジャック・ローズだ」

 やがてゾロの目の前に置かれたカクテルグラスのなかで、深紅の酒が、ゆらゆら揺れる。
 手に取り口をつければ、密やかな囁きひとつ、小さく響いて。

「俺とセックスしてる時のてめぇの瞳と、同じ色だぜ……ゾロ」
「……くだらねぇ」

 言い捨てゾロはグラスを呷る。

 機嫌がいいのは結構なことだが、こいつの上機嫌にはこれが付き物だったかと眉しかめ。
 けれど、不思議と今日は悪い気がしない。

「てめぇはどれが一番好きなんだ?」
 聞けばサンジはにやりと笑って、ゾロの隣に腰を下ろした。

「俺の好きなやつはここにあるけど、てめぇの目には見えねぇやつだ」

 首をかしげるゾロの手からグラスを取り上げ、自分の口に含むのを、ゾロは咎めずただ見つめていた。
 その先の展開は、わかりすぎるほどわかっていたが。

 口移しで注がれた甘い酒が、飲み込みきれずゾロの首筋を伝う。サンジの唇がそれを追い、そして。

「……つっ!」
「……こいつが、俺の一番好きな林檎、な」

 軽く喉元に歯を当てたまま言い、サンジは笑う。

「な、その酒の礼によ、こいつ食っていい……?」
「……悪酔いしそうな酒だがな……」

 聞きながら手はもうゾロの背を撫でているから、ゾロは喉を仰け反らせたまま、小さく苦笑する。

「じゃ、酒より俺に酔ってもらおうか」
「くっだんねぇ」

 くっくっと密やかな笑い声を響かせあい、口の中に残る甘さを堪能するように、また唇を噛み合わせれば、体の芯が熱くなる。
 見ているものは異なっても、この熱も、この甘さも、きっと同じように感じることだろうと、サンジの背をゆるりと抱いて、ゾロは静かに目を閉じた。

 そして二人は、甘い香り漂うキッチンで、甘い、甘い、夜に酔う。

                                     終