ずっと、ずっと、いついつまでも

 今日はどうにか十一時には帰宅できた。いや、それでも遅すぎなのに変わりはないけれど。湯船に足を入れた義勇は、われ知らず深く嘆息した。
 そろそろ日付も変わるだろうか。疲れた。いや、疲れ果てている。温かな湯に包まれると気づかぬようにしていた疲労が、一気に襲いかかってくるようだ。ため息だって出ようものである。
 出勤前のあわただしい時間に、炭治郎が「今日は早く帰れますか?」と聞いてきたのに対して「…………頑張る」と答えはした。したが、無理なものは無理だった。面目ないことこの上ない。
 カレンダーの今日の日付に炭治郎が書いてくれた『義勇さんお誕生日!』そんな文言が虚しく感じられる。花丸までつけて帰ったらプレゼント渡しますねと言ってくれたのに、このザマとは。
 毎年のことながら、受験シーズンの教師なんてゾンビのような有り様だ。生徒を不安にさせるわけにはいかないの一心で、平然とした顔を装ってはいるが、ぶっちゃけ三年生の担任はそろって鎮痛剤と胃薬がお友達。職員室のゴミ箱にはエナジードリンクの空き瓶が山となっている。
 部の顧問も請け負っているとなれば、自分の時間なんてないも同然だ。手当なんて雀の涙だというのに。やりがい搾取ってこういうことを言うんだろうか。
 ハァッとまた深い深いため息が落ちる。
 去年も一昨年も炭治郎の誕生日だけはどうにか時間を捻出したけれども、義勇自身の誕生日といえば、そうもいかない。今年は去年とは違って、炭治郎からのおめでとうの一言で終わってしまいそうだ。それだって、朝のあわただしい時間でのことである。文句なんてない。言える立場か。望んだのは義勇自身だ。
 去年、同棲して初めて迎えた義勇の誕生日には、炭治郎はご馳走を作って待っていた。義勇はやっぱり午前様で、炭治郎は、冷めきったご馳走が並んだテーブルに突っ伏し眠っていた。
 すぅすぅと眠る炭治郎の寝顔に見出した落胆と疲労の色や、冷えた料理の数々に、うれしさよりも罪悪感と心配に胸を締め付けられたのは言うまでもない。
 目を覚ました炭治郎は、当たり前のように疲労の色など見せずうれしげに笑った。その笑顔にまた胸が痛んで、来年からはなにもしなくていいと言ったのは義勇自身だ。なにもないまま終わろうとしている誕生日に、ガッカリするなんて身勝手が過ぎる。
 ずいぶんと長い付き合いになったが、祝うななど言ったのは、去年が初めてだ。それでも確かに自分はそう炭治郎に言い渡した。だから今年、代わり映えのないメニューがラップされてテーブルに乗っていたことに、文句なんてない。忘れずにおめでとうと言ってくれただけでも、ありがたいと思わねば。
 わかっているのになんだかやるせないなんて、傲慢にもほどがある。深まる罪悪感と疲労に、義勇は、浴槽のへりに頭をあずけ静かに目を閉じた。
 ポタンと天井から落ちた水滴が、湯に波紋を描く。義勇の口から三度みたび落ちた深いため息は、風呂場にこもる湯気に紛れて溶けた。

 義勇が炭治郎と出逢ったのは、炭治郎が三歳、義勇が中学一年生のころだった。新装開店したベーカリーで、レジに立つ母親の足にしがみついていた幼児が、炭治郎だった。
 客の一人ひとりに、母と一緒になって「あいあとでちた」と笑う愛想のいい子で、パンの味もさることながら、炭治郎に逢いたくてパンを買いにきたという客は多かった。義勇の姉の蔦子もそのひとりで、すごくいい子なのとべた褒めしていたものだ。
 義勇もメロメロになっちゃうわよ。そんな言葉つきでお遣いに行かされたときには、その子がまさか将来自分の恋人になって、同棲までするなど微塵も思わなかった。
 思い出した幼い笑顔に、義勇の唇が小さく弧を描いたが、それもすぐにへの字に変わる。
 やたらと懐いてきた幼子に、少し困惑しながらも弟ができたようでうれしくて、義勇も炭治郎をかわいがってきた。
 炭治郎の弟妹である禰豆子や竹雄もかわいかったし、その後に生まれてきた花子たちだって、生まれたときから知っているだけに愛おしさはひとしおだ。それでもやっぱり義勇にとって炭治郎は特別で、どんなに悲しいときでも、落ち込んでいても、炭治郎が明るい笑顔で「ぎうしゃん」と走り寄ってくるだけで心が晴れた。
 炭治郎をはじめ、竈門家の子どもたちに自転車の乗り方や逆上がりを教えてやったのは、義勇だ。縄跳びだってバドミントンだって、竈門家の子たちはみんな、義勇に教えてと言ってくる。夏には市民プールでバタ足から教えて、通信簿の体育が五だと「すごいでしょ、ぎゆさんありがとう!」と炭治郎たちは笑ってくれる。
 けれども茂と六太だけは、義勇自ら教えることはかなわなかった。地方の大学に進んだ義勇の代わりに、炭治郎や竹雄が「義勇さんはこうやって教えてくれた」と茂や六太にいろいろ教えてやったらしい。
 上の子たちが義勇さん義勇さんと懐くから、茂や六太もあまり逢えずにいた義勇に、ちゃんと懐いてくれている。それがあったから、炭治郎とこうして暮らすことにも反対はされなかった。

 きっと自分は恵まれているのだ。文句など言えば口が腐ると思うほどには。

 同じ男で十も年下の炭治郎と、こんなふうに同棲することを許されたばかりか、炭治郎をよろしくと葵枝や禰豆子たちに頭まで下げられた。姉の蔦子だってそうだ。炭治郎とつきあうことになった、一緒に暮らそうと思うと告げたとき、ただ静かにうなずき微笑んでくれた。
 いつかそういうことになるんじゃないかと思っていたから。そう笑ってくれた蔦子には、頭が上がらない。たったひとつ約束させられたのは、二人とも幸せでいること。それだけでいいわと、蔦子は笑っていた。

 また、ハァッと深く息を吐き、義勇は濡れた手で顔を拭った。ため息をつくと幸せが逃げちゃいますよ。炭治郎が苦笑して言う声が聞こえた気がする。
 真剣な顔で蔦子にうなずき返したときの決意は、今だって微塵も薄れちゃいない。けれども、今の生活を幸せと言いきるには、少しだけためらいがある。
 不幸せなのかと言われれば、きっぱり否と答えられる。けれどもそれは義勇だけのもので、炭治郎は違うかもしれないじゃないか。
 出逢ってから今まで、炭治郎と疎遠になったのは義勇が大学にいた四年間だけだ。十も年下の男の子である炭治郎に、あらぬ想いをいだいているのだと自覚したのは、高三のとき。忘れもしない。
 あの日は、ひどく暑かった。最悪なことにエアコンが故障して、押し入れから引っ張り出してきた扇風機だけが頼りというありさまだった。ジーワジーワとセミがやかましく鳴き、風はなく、軒下の風鈴は揺れもせずに沈黙していたのを覚えている。
 炭治郎と禰豆子が夏休みの宿題を教えてほしいとやってきたのは、そんな午後のことだ。居間で自分の勉強をしつつ、炭治郎たちの宿題をみてやるのは、いつものことである。代り映えのない光景のはずだったのだ。
 午前中に友達とプールに行ったとはしゃいでいたふたりは、やがてウトウトしだした。それもまたよくあることだ。なにもめずらしいことじゃない。
 卓袱台に突っ伏して眠ってしまった二人に苦笑して、禰豆子を抱きあげ自分のベッドまで運んだ。少しずつ重くなっていく幼子に浮かぶ微笑みは、とろけるようにやさしい顔をしていると姉によくからかわれる。その日もきっと同じ顔をしていたはずだ。
 義勇の庇護欲は、竈門家の子どもたちに一心に向けられている。末っ子である義勇がわりあい早くから自立心を培えたのは、じつの弟妹と変わらぬ炭治郎たちがいたからにほかならない。
 だというのに、なんであの日にかぎって、すやすやと眠る炭治郎の幼い寝顔に引き寄せられるように、頬にキスなどしてしまったのか。唇にでなくて、本当によかった。

 ともあれ、それが自覚のきっかけだ。以来、十年余もの狂おしい片想い。
 小学生に対してなんてことをと頭を抱えても、炭治郎だってどんどん成長していく。長い片想いの大部分は、じつは両片想いだったと知ったのは炭治郎が卒業する日のことだった。それからの展開は早い。長く押さえつけてきた恋心はお互いさまで、トントン拍子に同棲を始めて今に至る。
 けれども。
 恋人になってから今まで、かまってやれた日はいったいどれぐらいあったのか。ブラック企業も顔負けな、教職という地獄の釜の蓋を開けてしまったのは自分だし、やめる気なんてサラサラないけれども。それにしたって、もう少しぐらいは炭治郎とのんびり過ごせる時間を作らないと、そろそろ三行半を突きつけられそうで怖い。
 俺は性欲処理サービス付きの家政夫じゃありません。そんな言葉と軽蔑の目で、愛想づかしされても文句は言えないなと、思った瞬間、湯のなかにいるというのに義勇の背が寒気にブルッと震えた。
 待つなと言っても今年も起きて待っていた炭治郎は、ごちそうこそ作ってはいなかったけれども、義勇の好物である鮭大根を食卓に乗せていた。風呂から出たら食器は洗っておくから先に寝ろ。そんな言葉しかかけてやれなかった自分を思いだし、義勇は慌てて立ち上がる。
 義勇のそっけない態度にも、炭治郎は苦笑するだけだったけれども、あれは駄目だろう。のんびり風呂に浸かっている場合ではないのでは? 破局のきっかけになったら目も当てられない。
 せめて後片付けはしっかりして、明日の朝には、早く帰れなかったことや諸々を詫びねばなるまい。

 急いで風呂から上がると、炭治郎が緊張した面持ちで正座していた。その姿を見ただけで、義勇の危機感も否応なしに高まる。
「義勇さん、お話があります」
 切り出された声の真剣なひびきに、ドクリと心臓が嫌な音を立てた。
 炭治郎が高校を卒業して同棲を始めてから、もうじき二年。破局の危機はおおむね三年目に訪れると、どこかで聞いた覚えがあるが、まさか二年でもうだめなのか? いや、文句を言える筋合いなどないけれど。非はきっと義勇にばかりあるけれども。
 逃げ出したくなるのをこらえ、義勇は炭治郎の向かいに腰を下ろした。別れ話には最悪のタイミングだ。今日は誕生日だというのに。
 三十でキリがいいからなんて理由だったら、泣くかもしれない。

「俺と義勇さんの将来についてなんですけど」

 きた。知らず体が硬直する。喉の奥が詰まった。男同士だ。結婚もできず子も望めない。成人した炭治郎が不安をおぼえても、義勇にはどうしようもない。だけど、別れたくなんてないのだ。義勇には炭治郎しかいない。別れても、一生炭治郎一人を想いつづける自信がある。確信なんて生易しいもんじゃなく、それ以外、ありえないのだ。義勇の半分はもはや炭治郎でできている。捨てられようと嫌われようと、それは生涯変わることがないと言い切れる。
 覚悟も決まらないまま、黙ってうつむきかけた義勇は、耳に飛び込んできた炭治郎の言葉にギョッと目をむいた。

「老人ホームのパンフレット貰ってきました。お薦めは住宅型の有料ホームで」
「ちょ、ちょっと待て! 今日三十になったばかりだぞ!?」

 気が早いにもほどがある。別れたあと、独り身のまま孤独死しかねないと思われてるのか?
 思考が卑屈になってきた義勇に、炭治郎はといえば。
「入居対象年齢ってほとんどの施設が六十歳からなんですよ」
 義勇さん折り返し地点です。と、ケロリと言った。
 絶句した義勇をよそに、炭治郎は手早くパンフレットを並べだす。
「実際の入居は七十歳以上がほとんどみたいですけど、ふたりで入れるとこって少ないらしくて。早めに検討したほうがいいでしょ?」
「ふたり」
「あ、義勇さんは自宅介護希望でしたか?」
 いや、まだ介護とか考える年じゃないし。問題はそこじゃなく。
「そうか……ふたり、か」
「そうですよ。別々の部屋とか嫌じゃないですか」
 衝撃が過ぎ去れば、ただもう笑いたくなった。三十年後も、その先も、炭治郎のなかでは『ふたり』が決定事項なのだ。
「最高の誕生日プレゼントだ」
 ホームのパンフレットが? と首をかしげる炭治郎を、闇雲に抱きしめたくなった。思っただけでなく体は勝手に動いて、ギュッと力いっぱい抱きしめたら、ひょあ!? と素っ頓狂な声を上げた炭治郎は、すぐに痛いですよと笑いながら抱きしめ返してくれた。

 キスはやさしく、ベッドへとさらっていく腕は、急いて少しだけ荒ぶっていたかもしれない、そんな誕生日の夜の話。