炭治郎は石頭だ。いろんな意味で。頑固者って言われることはすごく多い。友だちが悪いイタズラをしようとしたら、どんなにみんなが盛り上がっていたって、そんなの駄目だって叱ってみせる。つまんないって言われようと、仲間はずれにするぞって脅されようと、意志を曲げたりしないのだ。
石みたいに固いのは頭のなかだけじゃなくて、頭自体もとっても固い。突然開いたドアにゴツンと頭を打ち付けられたって、怪我なんかしたことがない。前に転んで、禰豆子とおでこ同士がぶつかったときだってそうだ。禰豆子のおでこには血が出て、おっきなタンコブができたけど、炭治郎はなんともなかった。あれは本当に申しわけないことをした。思い出すたび炭治郎はしょんぼりしてしまう。
だから、ちゃんと断ったのだ。何度も。だけど。
「本当に痛いですよ? 禰豆子だって目を回しちゃって、お医者さんに行ったぐらいだし」
「俺は禰豆子よりも大きいから大丈夫だ!」
自信満々に言う煉獄は、ちっとも引く気がないらしい。炭治郎は困りきって、へにゃりと眉を下げた。
仲良くなった秋田犬のハチを連れて、みんなで公園へ散歩に行った帰り道。そこで知りあった煉獄と宇髄も一緒の帰路は、行くときよりもさらにワイワイとにぎやかだ。
嫌な目にもあったけど、煉獄たちとも仲良くなれたし、義勇のすごく格好いいところも見られた。炭治郎のモヤモヤの正体もわかったし、やきもちと嫉妬の違いも義勇が教えてくれた。そのうえ、やきもち妬いてもいいって、やさしく笑ってもらえたのだ。結果的にはいいお休みになったと思う。
このまま、楽しかったなぁと家に着ければよかったのだけれども。炭治郎は、ちょっとため息をつきそうになった。
話の流れで、煉獄が炭治郎の頭突きに興味津々になってしまったのが、どうにも困る。最初は呆れ顔だった宇髄まで面白がる始末だ。
「こいつ全然引く気ねぇみたいだし、一発派手なのぶちかましてやればいいんじゃねぇの?」
「俺も炭治郎の頭突きの威力がどんなもんか、ちょっと興味あるな」
「禰豆子ちゃんは、血とタンコブのほかは大丈夫だったんでしょ? 煉獄さんは強そうだから、平気じゃないかなぁ」
「錆兎たちまで……」
思わず炭治郎が肩を落とすと、禰豆子もちょっぴり困り顔で、煉獄に向かって小首をかしげた。
「でも、お兄ちゃんのおでこ本当に痛いんだよ? 煉獄さん、えーんえんってしない?」
さすが禰豆子! だけど、唯一の味方の発言に炭治郎が喜ぶ間もなく。
「おぉ、禰豆子はやさしいな! だが心配無用! 俺はえーんえんとは泣かないからな!」
「そっかぁ! 煉獄さん、すごいね!」
駄目だ。全然助け舟になっていない。
堂々と言い切った煉獄と、キャッキャと楽しそうに笑う禰豆子に、炭治郎の肩がますます落ちた。楽しげなふたりは、かみあっているようでなんだかズレている気もする。あと、高笑いしている煉獄は、どこを見てるのかわからなくて、ちょっぴり怖い。
まったく気は進まないけれど、このままでは収まりがつかなそうだ。
イタズラや意地悪だったら、炭治郎としては絶対に駄目と断るところである。だけど、頭突きしてみてほしいと言い出したのは煉獄なのだ。頼みごとなんだしやってあげるべきだろうか。でも、絶対に痛いはずだし、怪我をさせたら申しわけない。
本当にどうしよう。視線を泳がせたら、ぼんやりとしている義勇と目があった。
じっと見つめてくる義勇の顔からは、なにを考えているのかさっぱり伝わってこない。
義勇さんもみんなと同じで、俺の頭突き見てみたいのかな。
じっと見つめあったら、炭治郎の腹も決まった。よしっと拳を握ると、しゃがみこんだ煉獄に向き直る。
もしかしたら、義勇はなんにも考えていなかったかもしれないけど、まぁいい。このままでは家に帰れないのも確かだ。そろそろ、おうちに帰りましょうのメロディも流れてくるだろう。鱗滝の家は炭治郎の家よりもさらに遠いのだ。あんまり遅くなったら鱗滝だって心配するし、そうしたらご飯も遅くなって、義勇たちのお腹がぺこぺこになっちゃう。それはたいそう申しわけない。
「じゃあ、いきますよ?」
「よし、こいっ!」
グッと身構える煉獄に向かって、炭治郎はすぅっと息を吸い込みギュッと目をつぶった。煉獄の頭に勢いよく自分の頭を振り下ろす。途端にゴツンッ! と大きな音がして、むぅっ、と小さな唸り声がわずかに遅れて聞こえた。
「煉獄さん? 大丈夫ですか?」
目を開いて、炭治郎は恐る恐る煉獄に聞いたけれど、返事はなかった。大きく開いた目も、ちょっと唇の端を上げた笑みもそのままで、見た目はなんともないように見える。なのに煉獄は、まったく反応してくれない。
どうしようと焦って炭治郎がみんなを見回すと、みんなの口があんぐり開いていた。義勇さえもが、目を丸くしている。
「おい……すっげぇド派手な音したぞ。大丈夫かよ、煉獄」
いち早く我に返った宇髄が聞くと、煉獄はようやくユラリと立ち上がった。
「いや、すまん。だいじょう、ぶ、だ……」
宇髄を振り向き見た顔は、笑みが浮かんだままだったけれど。
「煉獄さん!?」
「お、おいっ!」
笑った顔はそのままに、スゥッと後ろに倒れ込んでいくから、慌てたのなんのって。
うわぁぁ! と慌てふためくいくつもの声が通りに響きわたる。驚いたらしいカラスがバサバサと飛び立って、不満げな声でカァ! と鳴くのが妙に呑気に聞こえた。
もちろん頭突きした張本人である炭治郎が、一番慌てたのは当然だ。血の気だって一気に引く。
直立不動のまま倒れていく煉獄に、炭治郎は反射的に手を伸ばした。けれども、炭治郎の手が煉獄を掴むよりも、義勇のほうがずっと早かった。
素早く踏み出し、倒れ込んできた煉獄をガシリと受けとめた義勇を見て、炭治郎の口から大きなため息がこぼれる。とんでもない頭突きを食らったうえに地面に頭を打ち付けては、踏んだり蹴ったりどころじゃない。
最悪のパターンは回避したと、一同からもはぁぁっと安堵の吐息が聞こえた。が、それも一瞬だ。義勇は細い。心が迷子になって以来、食事もろくろくできなかったから、体つきはかなり華奢だ。対して煉獄はといえば、義勇よりもはるかに体格がいい。宇髄にはおよばないが背だって高いし、鍛えているとの言葉どおり、体重だって義勇よりずっと重いに違いない。
すぐに義勇の腕がプルプルと震えだしたのは、しょうがない。それでも、煉獄を落とすのはマズイと思っているんだろう。ハラハラと見守る視線のなか、義勇は小刻みに震えつつも、どうにか地面に座り込んだ。抱えたままの煉獄は、必然的に地面に横たわることになってしまったが、これもまたしかたのないことだろう。
どうにか正座した膝に煉獄の頭を乗せた、いわゆる膝枕に落ち着いた義勇は、無表情のまま疲れたようなため息をついていた。
「義勇さん、大丈夫ですかっ?」
つい息を詰めて見守ってしまっていたが、ぼんやりしている場合じゃない。泡を食って炭治郎が聞くと、みんなも慌てて義勇と煉獄を取り囲んだ。
「おいっ、煉獄!」
「煉獄さんっ、しっかりして!」
声をかけても、煉獄の目は閉じられたままだ。義勇が青紫色になったタンコブにそっと触れてみても、ピクリともしない。
「こりゃ、完全に気を失っちまってるな」
「マジか……とんでもない頭突きだな」
「禰豆子ちゃん、この頭突きされて平気だったの? すごいね」
「でも痛かったよ? 煉獄さんも痛そう……大丈夫かなぁ」
「……固い」
ポツリと言った義勇の言葉に、キョトンとしたのは炭治郎と禰豆子だけだった。
「んじゃ、とりあえずコブに関してはヤバい状態じゃねぇな」
「やわらかいと危ないんですか?」
炭治郎の疑問に、宇髄だけでなく錆兎と真菰も神妙にうなずいた。
「んっとね、やわらかいタンコブは、頭のなかに血が溜まっちゃうかもしれないんだって。鱗滝さんが言ってたよ」
「じゃあ、煉獄さんのタンコブは固いから大丈夫なのか?」
「コブはともかく、脳震盪は起こしてるからな。とにかくどっかで休ませて、状態によっちゃ医者に診てもらわねぇと」
しょうがねぇなぁと言いたげにガシガシと頭をかいて、宇髄が煉獄を背に担ぎ上げた。支えるのでさえいっぱいいっぱいだった義勇とは違って、宇髄の動作にはまったく危なげがない。大きな煉獄も、さらに大きな宇髄が背負うと軽々として見える。
「しかたねぇ、どっかでタクシーでも拾うか」
「あっ、あの! 俺の家、この近くなんです! 煉獄さんが起きるまでうちで休んでください!」
必死に炭治郎が言うと、宇髄の眉がヒョイッと上がった。ちらりと一同を見回して、ニッと笑う宇髄の顔は飄々としている。
「んじゃ、そうさせてもらうか。おまえらもついてくんだろ?」
「俺らだけ帰るなんて、そんな薄情なことするわけないだろ」
「心配だもんね。義勇、炭治郎の家で鱗滝さんに遅くなるって電話させてもらおうよ」
錆兎たちの言葉にホッとして、炭治郎も義勇へと視線を投げた。義勇はまだ座り込んだままだ。
「義勇さん、もしかして足がしびれちゃいました?」
固い地面に正座して、煉獄に膝枕をしていたのだ。しびれてもおかしくない。けれども心配して聞いた炭治郎にふるりと小さく首を振ると、義勇は支障なく立ち上がった。それでも、少し目を伏せている様が、炭治郎にはなんとはなし不安になる。
義勇は、安心しているようにも、なんとなく悔しそうにも見えた。とは言え、今は一番気遣わなくちゃいけないのは煉獄だ。それに、そんな様子は一瞬で、義勇はすぐに視線を上げると、なぜだか炭治郎の頭をポンポンとなでてくれた。
「えっと……」
「おらっ、行くぞ。こいつ地味に重てぇんだからよ」
どうしてなでてくれたのか聞こうとした炭治郎の言葉は、うながす宇髄の声で、そのまま喉の奥に飲み込まれた。
そうだ、急がなくちゃ。煉獄さんがこんなことになったのは、俺のせいなんだから。
頭に乗せられていた義勇の手を置き去りに、炭治郎はあわてて踵を返した。タタッと宇髄の隣に駆け寄った炭治郎の頭のなかは、責任感と罪悪感でいっぱいになっていた。だから、そのとき義勇がどんな目をしたのか、炭治郎は見ていない。離れてしまったから、義勇がどんな匂いをさせていたのかも、気づけなかった。
「おい、坊主」
「竈門炭治郎です」
「あー、はいはい。炭治郎ね。おまえ、これからは非常事態以外には頭突き禁止。何度もこんな重てぇやつ背負ってくのは地味に勘弁だわ」
「はい……ごめんなさい」
なんだかもう、本当に泣きたい。やっぱり、どんなに頼まれても断るべきだったんだ。禰豆子にだってすごく痛い思いをさせちゃったのに、煉獄さんまでこんな目に合わせちゃうなんて。
「……頭、取り替えられたらいいのに」
みんなに怪我させちゃう頭なんて、自分でも怖い。思わずポツリと言ったら、また後ろからポンと頭に手が乗せられた。振り向かなくても誰だかわかる。
「義勇さん……」
不安がそのまま声になったみたいに、呼びかけも震えて、いよいよ涙がこぼれそうになる。
立ち止まった炭治郎をちらりと見ただけで、宇髄はそのまま禰豆子の先導で歩いていく。錆兎と真菰は、ちょっと離れて立ち止まり、炭治郎たちを見守っていた。
怒られるのかなとドキドキしながら炭治郎が義勇を見つめていると、義勇は静かにしゃがみこんだ。目線の高さが同じになる。え? と思う間もなくきれいな顔が近づいてきた。
コツン。炭治郎のおでこに義勇のおでこが、やさしく触れた。
なんでこんなことをされたのかわからなくて、でも義勇の顔が近いのにドキドキもして。一気に騒がしくなった心臓に、ドギマギと炭治郎は、上目遣いに義勇を見返した。義勇はなにも言わず、そっとおでこを離すと小首をかしげていた。
うれしいような怖いような、ドキドキしすぎて苦しいぐらいなのに、ちょっぴり甘い変な鼓動。義勇はなにを考えているんだろう。わからないけど、でも、瞳はとてもやさしい。
「えっと……」
「これなら痛くないから大丈夫だってさ」
「炭治郎の頭を取り替える必要なんてないって。そうでしょ? 義勇」
クスクスと笑い声は錆兎と真菰から。義勇はこくんとうなずいた。怒ってないし、嫌われたりなんかしてない。炭治郎のヒーローでいたいって言ってくれたときと、同じ目をしてる。
「……必要なときも、くるかもしれない。ないほうがいいけど」
「頭突きがですか?」
静かな声に問い返せば、義勇はまた、小さくうなずいてくれた。
「非常事態以外は禁止って天元も言ってたしな」
「二度としちゃ駄目ってことじゃないもんね」
錆兎や真菰も笑ってくれる。
「……わかった。今度こそ絶対に、ちゃんと必要なときしか人には頭突きしない!」
グッと拳を握り約束した炭治郎の頬に、不意に義勇の指先が触れた。
くるりくるりと円を書く指先がくすぐったい。炭治郎は思わず、ちょっぴり首をすくめた。
「えーと……今の、花丸ですか?」
「ちゃんと約束できて、えらい……あと、さっきの頭突きはすごかった」
だから花丸。よくできました。義勇の瞳が笑ってる。唇もほんのり弧を描いて、少しだけいたずらっ子めいて見えた。
ホワンと炭治郎の頬が花の色に染まって、面映ゆさにゆるむ。はにかむ炭治郎に錆兎たちは顔を見合わせ、肩をすくめあっていた。
「うぉいっ! おまえらいつまでくっちゃべってんだ!」
「お兄ちゃん、早くぅ!」
宇髄と禰豆子の声にみんなで視線を見交わせあって、クフンと笑みが浮かんだら、みんなで走る。煉獄がたいへんな目にあったのは確かなのだ。急がなくっちゃ。
でも、やっぱりなんだか楽しい気が、ちょっとしてしまう。こういうのって、なんて言うんだろう。炭治郎が思っていれば、「ちょっと不謹慎かもしれないけど、なんか楽しいね」と真菰がクスクス笑った。考えるのはみんな一緒みたいだ。錆兎も苦笑している。
「義勇、さっきまた煉獄にちょっとやきもち妬いてただろ」
そんなことを言って、少しからかうみたいに錆兎は笑う。驚いて、本当に? と、炭治郎が義勇を見ると、義勇はすまし顔でちょっと視線をそらせた。
どうして義勇がやきもちなんて妬くのかはわからないけど、やきもちは、好きだから。独り占めしたいから。それを炭治郎はもう、知っている。義勇が教えてくれたのだ。
だから炭治郎は、胸の奥がムズムズとこそばゆくなって、ホワホワとうれしくなって、義勇の手を握った。なんにも言わなくても、義勇は炭治郎の手をキュッと握り返してくれたから、手を繋いだまま一緒に走る。炭治郎にあわせて走ってくれる義勇の手は、やっぱり少しひんやりで、さらりと乾いていた。
先を行っていた宇髄たちにはすぐに追いついた。
「ごめんなさい」
「む……んぅ?」
炭治郎が息せき切って謝ったのと、小さな唸り声は同時に聞こえた。
「お? 気がついたかよ?」
「……父上?」
宇髄の問いかけに返された煉獄の声は、なんだかぼんやりとしている。ちょっと子供っぽい幼気な声だ。
「誰がおまえの親父さんだよ! おい、マジで大丈夫なんだろうなぁ」
言い返した宇髄は、怒っているようにも焦っているようにも見える。煉獄の返答に、義勇も心配になったのだろう。おずおずとしつつも煉獄の顔を覗き込んだ。炭治郎だってもちろん心配だ。やっと目を開けてくれたのはいいけれど、煉獄はさっきまでの威風堂々とした姿が嘘みたいに、ポヤポヤとしている。自分の頭突きで煉獄の頭が変になっちゃったんだったら、義勇に花丸をもらってもまったく喜べない。
みんなが不安げに見守るなか、恐る恐るおでこに触れた義勇をぼんやり見返した煉獄は、ゆっくりとまばたきして、そして。
「母上?」
「おまえ、本気で頭いかれたんじゃねぇだろうな!? それじゃ俺と冨岡が夫婦になるじゃねぇかよ!」
「えっ!? 義勇さんと宇髄さんが結婚しちゃうんですか!? だ、駄目! そんなの駄目です!」
義勇さんをとっちゃやだ。そんな焦りでいっぱいになって、思わず炭治郎は叫んだ。義勇は目を丸くして、煉獄のおでこに手を当てたまま固まっている。錆兎と真菰は一気に目が据わり、禰豆子はキョトンとしていた。
と、パチンと音がするほどに煉獄がまばたきした。再び目を見開いたときには、意識がはっきりしたらしい。ちょっぴりポカンとした顔をして、キョロキョロみんなを見回すと、合点がいったのか重々しく煉獄はうなずいた。
「すまん、迷惑をかけたみたいだな」
「まったくだぜ。ちゃんと俺らの名前言えっか?」
「煉獄さん、気持ち悪くなったりしてない? ね、今日は何曜日だかわかる?」
「なんで気を失ったか覚えてるか?」
口々に言う声に応え、ハキハキと返答する煉獄に、一同の顔にも安堵が浮かぶ。炭治郎も思わず胸をなでおろして、はぁっとため息をついた。
「すまなかった、宇髄。ありがとう。もう大丈夫だ、おろしてくれ!」
「ここまできたら最後までおぶっても変わんねぇよ。すぐに動くのはマズイだろ。炭治郎の家で休ませてもらうことになったからよ、そこまでは大人しくガキみてぇに背負われてろや」
からかうみたいな声で笑った宇髄に、煉獄はちょっぴり情けない顔で眉を下げた。
「すぐそこですから、無理しないでください。あの、痛くさせちゃって、本当にごめんなさい」
心底申しわけない気持ちを込めて炭治郎が謝ると、煉獄は、宇髄の背に揺らされたまま明るく笑ってくれた。
「なに、頼んだのは俺だからな。謝るべきは俺のほうだろう。不甲斐なくてすまん! 次は絶対に気絶などしないように、頭も鍛えることにしよう!」
「いや、リベンジしようとすんなよ! おまえ、ちょっとは懲りろや、振り落とすぞこの野郎!」
「頭なんて鍛えてどうすんだよ。頭突き勝負なんてめったにしないだろ?」
「炭治郎も、非常事態以外は頭突き禁止って約束したから、勝負してくれないよ」
錆兎や真菰の声は呆れ返っていた。炭治郎もちょっとポカンとしてしまった。気を失っちゃうぐらい痛い思いをしたっていうのに、前向きと言うかなんと言うか……。いい人だけどちょっと変わってるなぁと、呆気に取られてしまう。
「むぅ、それは残念だ。だが、鍛えるのは悪いことではないからな! 面打ちで脳震盪を起こす可能性もある、鍛えて損はないだろう!」
「おい、人の背中でふんぞり返ってんじゃねぇよっ。腕組みすんな! ちゃんと掴まってねぇなら、マジでぶん投げるぞ!」
そんなことをわめきつつも、本気で振り落とす気はなさげな宇髄も、口は悪いけどいい人だ。なんだかまた楽しくなってきて、炭治郎は思わず禰豆子と顔を見合わせ、クスクスと笑った。
けれども、笑う炭治郎と禰豆子とは対照的に、錆兎と真菰を見ればなぜだか真顔になっている。
「煉獄も剣道やってるのか?」
「ねぇ、もしかして、煉獄さんって産屋敷剣友会の大会で、中学生の部で優勝したことない?」
「去年の夏の大会だな。あぁ、あのときは俺が優勝だった!」
明るく答えた煉獄が、宇髄の背に背負われたまま不意に義勇を振り向き見た。じっと見つめる眼差しは強い。その目がわずかにたわみ、やわらかな笑みを浮かべた。
「冨岡、君も剣道をやっているんだろう? まだ初段ですらないのに、ずいぶん強い剣士がいると噂になっていた。あれは君のことだろう? 大会では一度も対戦できなくて残念だった。ずっと、君と対戦したかったんだ。君と仲良くなれてじつにうれしい!」
そう言って、煉獄はカラリと笑う。
煉獄の言葉を聞いて、炭治郎はぶわりと胸に湧き上がった興奮に、頬を紅潮させて義勇を仰ぎ見た。
「すごい! 俺も義勇さんと煉獄さんの試合、見てみたいです!」
義勇が強いのは知っているけれど、煉獄も優勝するぐらいだからすごく強いんだろう。ちゃんとした剣道の試合を見たことはないけれども、ふたりの試合はきっととっても格好いいに違いない。
だけど義勇は、炭治郎の興奮しきりな声に、少しだけ困ったように眉を下げた。
「……義勇は、まだ体が弱ってるから」
「でも、体が元に戻ったら、絶対に煉獄さんにだって負けないんだからねっ」
答えたのは義勇ではなく錆兎と真菰だ。義勇はなにも言わない。煉獄に視線を向けることすらしなかった。
「そうなのか? だが、またいずれ試合には出るんだろう?」
義勇は、煉獄の問いかけにも答えない。
繋いだままだった義勇の手に少し力がこもった。わずかにうつむく義勇は、なんだかとっても悲しそうだ。
表情はなんにも変わってないけれど。匂いもうっすらとしていて、なにを考えているのかわからないけれども。でも、悔しくて悲しい気持ちを持て余しているように見える。
「あのっ、義勇さん! ちょっとしゃがんでください!」
義勇が悲しんでるのが嫌で、元気になってほしくて、炭治郎は必死に声をかけた。
炭治郎はまだ、ちょっとしか義勇のことを知らない。どうしたら喜んでくれるのかとか、なにをしたら元気になってくれるかとかなんて、本当はまだ全然わからない。でも、さっきだって義勇は炭治郎の不安な気持ちを和らげてくれたから、炭治郎だってお返しがしたかった。
一所懸命お願いする炭治郎を、義勇は、少し不思議そうな目で見下ろしてくる。それでもなぜとは聞かず、義勇は静かに膝を折ると、炭治郎と目線を合わせてくれた。
繋いだ手を離して、炭治郎はじっと見つめてくる義勇の頬に、そっと触れた。そうして、くるくると指先で描いたのは、大きな花丸。
「がんばるって言ってくれた義勇さんにも、花丸あげます! ヒーロー一等賞の花丸です!」
言葉もなく大きく見開かれた瑠璃色の目、炭治郎をまっすぐ見つめていた。みんなが息を詰めて見守っているのを感じる。錆兎も真菰も、宇髄や煉獄だって、義勇の答えが気になるのだろう。禰豆子だけはちょっと不思議そうな顔をしてたけれど、それでも、じっと義勇と炭治郎を見ていた。
そうして。
「一等賞でいられるよう、がんばる」
そう言ってほんの小さく笑ってくれた義勇の瞳は、やっぱりあったかくってやさしくて。哀しい気配は、消えていた。
竈門ベーカリーに一同が到着したのは、夕方の混雑が一段落した時間帯だった。笑ってみんなを迎えてくれたお母さんたちは、炭治郎の頭突きで煉獄が気絶したことを聞くなり、泡を食ってペコペコと謝り倒したものだ。
もうお客さんも少ないからと、鱗滝が迎えに来てくれるまで、みんなでイートインスペースを貸し切りにしておしゃべりさせてもらえたのがありがたい。事情はともあれ、炭治郎はまだまだみんなと離れ難かったのだ。にぎやかで楽しいのは、公園に行く前と同じだけれど、煉獄と宇髄が加わった今は、もっとずっと愉快な気持ちになる。
煉獄さんは、謝るお父さんやお母さんに逆に恐縮しきってた。タンコブは痛そうなままだったけど、すっかり元気だ。宇髄さんにからかわれて錆兎がムキになるのには、真菰がちょっと呆れた顔をしてた。知り合ったばかりだけど、三人はかなり仲良くなったらしい。
でも、楽しい時間にも終りが来る。
鱗滝の車に義勇たちが乗って、お父さんが煉獄たちを送っていったら、にぎやかだったお店はすごく静かになった。ちょっぴり寂しい気持ちにもなったけど、でも、楽しくてうれしい気持ちも、まだ胸をポカポカとさせてくれている。
いっぱい笑って、いっぱい怒って、いっぱい心配した日曜日。ベッドのなかで炭治郎は、たいへんな一日だったけど、でも楽しかったなとクフンと笑った。
ちょっと変わってるけど煉獄はすごくいい人だし、とっても強いらしい。宇髄だって格好良くって頼りがいがあって、大人っぽかった。ふたりとも、やさしくて頼もしいヒーローみたいだ。もっと仲良くなれたらいいなと、炭治郎は、フワァッと大きくあくびしながら思う。
でも、やっぱり炭治郎のヒーローは義勇だけ。心が迷子になっても強くってやさしい、炭治郎にとっては一等賞のヒーロー。
うとうととまぶたが降りてくる。明日は月曜日。また元気に学校に行かなくちゃ。義勇には逢えないけど、でも学校だって楽しいから。次に逢える日まで、元気で勉強も運動も、禰豆子たちのおもりやお店の手伝いだってがんばらないと。義勇にまたよくできましたの花丸をもらえるように、いっぱいがんばるのだ。眠くてふわふわしてくる頭で、炭治郎はがんばるぞと繰り返す。
そうして。
ゆっくり落ちていった眠りのなか。炭治郎が見た夢は、義勇の夢。
いっぱいの花丸に囲まれて笑う義勇の顔は、夢のなかでもやさしかった。