Hello! my family 9

第2章

 春とはいえ、四月の宵闇はまだ少し肌寒い。通りを歩く義勇の肩に、はらりと散った桜の花びらが乗った。
 やっと月末月初め恒例の忙しさも終りだ。今日は取引銀行との折衝で、精神的な疲労はいかんともしがたい。けれどもそのぶん、成果は上げた。
 外出先からの直帰だから、定時よりもいくぶん早い帰宅だ。こんな時刻に家に帰れるのは久し振りで、桜を見上げて歩く義勇の足取りは軽い。一年前には、禰豆子と手を繋ぎ歩いた夜道を、義勇はひとり歩く。
 あのころは日々を必死に過ごすばかりで、四季の移り変わりすら気に留めることは少なかったように思う。だが、今はなんの憂いもなく日々は穏やかに過ぎていく。
 家に帰れば、温かな食事と心安らぐ笑顔が待っている。ただいまと玄関で言えば、おかえりなさいと禰豆子と炭治郎が迎えてくれる毎日だ。家が近づくにつれ、義勇の口元にはほのかな笑みが浮かぶ。

 炭治郎と出逢ってから、一年。月日の流れるのは早いものだ。六月から始まった同居生活に、当初は戸惑うことも多かったが、今ではすっかり炭治郎のいる生活にも慣れた。
 最初から炭治郎に懐きまくっていた禰豆子はといえば、先日小学校に入学し、小学一年生となった。ピカピカのランドセルを背負って毎日楽しげに学校に通っている。
 そのランドセルも、炭治郎も一緒に三人で買いに行ったものだ。入学式で撮った、義勇と炭治郎に挟まれて笑う禰豆子の写真は、やっぱり一緒に買いに行った写真立てに入れられて、居間に飾られている。禰豆子は以前よりずっと笑顔が増えた。夜にうなされることもかなり減った。
 離婚前には平均よりもずっと成長が遅かった体も、グングンと背が伸びて体重も右肩上がりだ。まだ心の傷が癒えたわけではないだろうが、炭治郎がいつでも心砕いてくれているおかげで、禰豆子は毎日楽しげに過ごしている。
 友達も増えたようで、毎朝仲良しの女の子たちが禰豆子ちゃんおはようと、そろって迎えにきてくれる。ときどき家にも遊びに来ているが、みんなよい子だ。
 父親と兄らしき高校生という組み合わせは、父母や祖父母のなかでは目立っていたのだろう。炭治郎ほど若い出席者など見かけなかったから、かなり珍しかったものとみえる。入学式でこそ妙に周囲の視線を集めてしまって、義勇は少々居心地の悪い思いをしたものだが、禰豆子を迎えにきてくれる子たちの親御さんたちもいい人たちばかりのようだ。
 義勇自身は仕事が忙しいこともあり、なかなか接する機会を持てずにいるが、炭治郎が家政夫だと知っても奇異の目で見たり変な詮索はしないでくれているらしい。ありがたいことだ。

 炭治郎もすっかり家政夫業が板についてきたように見える。最初のうちこそ張り切りすぎて、義勇の顔をしかめさせることも多かったが、今ではそれなりに自分の時間を持つようになってきたように思う。
 働き者なのはいいが、炭治郎の本業はあくまでも高校生だ。いくら通信制だとはいえ、学業をおろそかにするようでは、雇う義勇としては罪悪感にさいなまれてしまう。
 義勇が休みの日に、約束通り勉強を見てやっているからというわけでもないだろうが、単位も着実に取れているようだ。この分ならちゃんと三年で卒業資格がとれそうですと、誇らしげに笑っていた炭治郎を思い浮かべると、義勇の笑みはますます深まった。

 家の生垣沿いを歩いていると、通りから様々な匂いがしてくる。夕飯どきだからだろう。焼き魚の匂いだったりカレーの匂いだったりと、気づくたびに義勇の空腹感も増していく。同時に心も弾む。
 帰宅が楽しいと感じるようになって久しい。義勇の家は大仰な門から離れているから、我が家の夕飯の匂いまでは漂ってはこない。だが、帰ればきっとすでに温かくおいしい夕食が、食卓には用意されているはずだ。

 我が家という言葉を、感慨を持って思い浮かべる日が来るとは、炭治郎と暮らすまで思いもしなかった。

 昔は神経をすり減らすばかりの場所だったし、ひとりになったころも結婚したころも、寝に帰る場所でしかなくくつろぐことなどありはしなかった。禰豆子が生まれてからは、義勇にとってはあくまでも禰豆子が暮らす家であって、生まれたときからこの家で暮らしているのは義勇のほうが長いのに、帰るというよりも禰豆子に逢いに行く場所のような気がしていた。
 離婚騒ぎから炭治郎がやってくるまではといえば、正直なところ、戦場だ。禰豆子を苦しめる記憶と戦い、慣れぬ家事と戦い、必死にもがいて疲弊していく場所でしかなかった。
 それが、今ではすんなりと『我が家』なんて言葉が口をつく。
 これもまた、炭治郎の功績なのは疑いようがない。

 不思議な縁だ。禰豆子が初対面から懐いたこともそうだし、人とかかわるのに怯える自分が炭治郎には最初から警戒感を抱かなかったことも、思えばなにかに導かれたかのようでもある。
 神など義勇は信じてはいない。願っても祈っても義勇に安らぎや『普通』の暮らしを与えてくれなかった、奪うだけの神になど祈る気は毛頭なかった。それでも、炭治郎との出逢いが神の采配とやらなら、感謝せざるを得ない。
 思いつつ閉ざしっぱなしの門の通用口をくぐり、義勇は、玉砂利の敷きつめられた庭を家に向かって歩いていく。
 今日は金曜日だ。明日は炭治郎の勉強を見てやり、禰豆子の宿題もみる。その後は、三人で買い物だ。少し離れた大手の総合スーパーへの買い出しも、もはや週末の恒例となった。
 炭治郎が勤めていたスーパーは、いよいよ経営が厳しくなったのか、最近では品ぞろえがとみに悪いらしい。
 義勇にしてみればあんなことがあった店だ。もう二度と行く必要はないと思うのだが、炭治郎は保育園の帰りに禰豆子と毎日通っていた。憎々しげに嫌みを言われもしていただろうことは想像にかたくないというのに、炭治郎は、ちっとも気にする様子がなかった。
 それでも、炭治郎ひとりが贔屓にしたところで、大手の競合他社に個人経営の小さなスーパーが太刀打ちできるわけもなかったのだろう。洗剤などの消耗品はまだしも、生鮮食品などはどんどんと質が悪くなってしまったそうで、食材に関してはしかたなしに、自転車に禰豆子を乗せて大手のスーパーへ買いに行っているらしい。
 しばらくは歩いたりバスに乗ったりしていたようだが、いかんせん幼児連れでは遠すぎたのだろう。夏になるころには、炭治郎は給料で自転車を買ってきた。
 しかも、チャイルドシートまで。
 必要経費だと代金を払おうとした義勇と、俺の都合で勝手に買ったんですからと拒む炭治郎で、またもや言い合いになったのも、もはや懐かしい。まったくもって炭治郎は頑固だ。
 結局、チャイルドシート分だけは受け取ったものの、炭治郎は他人行儀と少しむくれていた。
 他人だろう? なんて。そんなこと言えるわけもなく。言いたくもなかったから、義勇は黙り込んだだけだった。
 十二月になって六歳になった禰豆子は、もうチャイルドシートも卒業だ。半年も使わなかったチャイルドシートは、今は庭の隅の物置で埃をかぶっているはずである。
 
 ともあれ、毎日の食材に関しては禰豆子の自立心を育てるにもいいからと、買い物のお手伝いという名目で禰豆子を後ろに乗せ、炭治郎は自転車をフル活用して買い物に出ている。おかげで禰豆子はすっかり買い物の仕方も覚えたし、野菜の鮮度の良し悪しまでわかるようになったらしい。
 とはいえ禰豆子を連れてでは、米やらなんやらの重い買い物は手に余る。だから週末には三人そろって車で買い出しに行き、米だのサラダ油だのを買い求めたり、精肉や鮮魚のまとめ買いもするのだ。たまに禰豆子の下着や、炭治郎の服なども買ったりする。
 義勇としては全部支払いたいところだが、炭治郎は自分のものは頑として義勇に買わせようとしないので、義勇が炭治郎に個人的に買ってやったものなどスニーカー一足きりだ。他人行儀はどちらやら。
 去年、不死川たちも一緒に初めて炭治郎と買い物に出たときに、買い求めたものそのスニーカーを、炭治郎は大事に履いてくれている。履き古して底も薄くなった靴では危ないからと、半ば強引に買い与えたスニーカーを手にした炭治郎は、戸惑いながらもうれしそうにはにかんでいた。大事にしますとの言葉通りに、こまめに洗っているらしい。量販店で買った安物だというのに、律儀なことだ。きっと物を大事にする習慣ができているのだろう。

 そんな炭治郎だから、以前の義勇のように食材を無駄にすることも一切ない。さらには、炭治郎が言うことには、冨岡家の冷蔵庫はかなり高性能だそうで、きちんと使いきれば鮮度が落ちることもなく、まとめ買いのほうがお得らしい。買い出しから帰ると禰豆子と一緒にせっせと下ごしらえに精を出している。
 一週間分のメインの食材は、三人での買い出しで十分賄える量だから、毎日の買い物は、むしろ禰豆子のためなのだろう。日課となって久しい買い物を、禰豆子は今も毎日、今日はアレを買った、コレを自分が選んだと、義勇にうれしそうに報告してくれる。
 そんな毎日は、結局のところ炭治郎の勤め先が劣悪な環境だったゆえに、もたらされたものだ。
現状を思えばあの店主のお陰と言えなくもないが、感謝する気はない。炭治郎への仕打ちを思い返せば、いまだに義勇は腹が立つ。

 炭治郎の元雇用主からの借金返済は、近ごろ滞りがちだ。炭治郎には言っていない。言う必要もないと義勇は思っている。
 違法な超過勤務に対する炭治郎への未払い金は、すでに義勇が立て替えて支払い済みだ。もしこのままあの店長が借金を踏み倒したとしても、義勇にとっては懐が痛むわけでもない。炭治郎を逆恨みさえしなければ、どうとでも好きにするがいいと思っている。
 炭治郎には到底言えるものではない。義勇はわれ知らず小さく苦笑した。

 施設育ちの炭治郎は、どうにも金銭面ではしまり屋が過ぎる。度が過ぎているわけでもないから、文句を言う筋合いはないけれど。
 だというのに、炭治郎は食事に関しては自腹を切ってでも良いものをと考えていたふしがある。最初こそ、できるかぎりいい食材で豪勢なメニューをと考えていたようなのだが、禰豆子のご所望に沿えばどうしたってハンバーグだのオムライスだのになる。大人の目には豪勢になどしようのない献立だ。申しわけなさげにするから、呆れてしまった。
 『普通』がいいのだ。『普通』でいいのではなく、『普通』がいい。ご馳走や値の張る食事をしたければ、ケータリングや外食で済む。元妻が料理教室とやらで習ったと自慢げに作っていた豪勢な食材をふんだんに使ったアクアなんたらだの、ローストビーフだのなど、辟易している。
 ブランド食材にかかった食材費ばかりが自慢の種のような、冷めきった食事などもう真っ平だ。食べる者の気持ちなど一切考慮しない、身勝手な料理が並ぶ食卓。それですら手料理はごく稀で、大概はデパ地下の高額総菜が常だった。当然、義勇の帰宅に合わせて温め直すなどされたことはない。
 当時は不満もなくただ黙々と食べ、元妻の機嫌取りに無理にも褒めねばならなかったが、炭治郎の温かく心尽くしの食事に慣れてしまえば、もうあんな食事はしたくないし、禰豆子にもさせたくはない。

 今日の夕飯はなんだろう。そんなことを考えつつワクワクと玄関の戸を開け、ただいまと声をかける日々。おかえりなさいと笑顔が帰る毎日。いまだに義勇はときおり不思議な心持ちになる。
 これは全部夢で、自分はもしかしたら『あの部屋』で夢を見ているだけなのではないか。起きたらまた母の人形として粛々と従い、ビクビクと周囲の目に怯えて暮らしているだけなのでは。もしくは、禰豆子がうなされるのに怯え、神経をすり減らしながらも手放すものかともがく日常のなかで、束の間見た幸せな夢なのではないだろうかと、羊水のなかを揺蕩うような穏やかな今を疑ってしまう。

 けれども毎朝目が覚めれば、必ず傍らでは健やかに眠る禰豆子がいて、おいしそうな匂いが廊下には漂っている。台所に顔を出せば、気づいた炭治郎はすぐに振り向いて、朗らかな笑みでおはようございますと言ってくれるのだ。
 毎日変わりばえのない仕事に勤しみ、同僚たちにも恵まれて、せっせと働いた後はまっすぐに家に帰る。空になった弁当箱を手渡して、今日もうまかったと告げれば炭治郎はうれしそうに笑ってくれる。小学校に上がった禰豆子は給食があるから、それと同時に終わると思っていた弁当は、今も継続中だ。義勇の分だけを、炭治郎は毎日作ってくれる。
 禰豆子に手を引かれ、今日の夕飯のメニューを楽しそうに話すのを聞きながら食卓に着けば、食欲を刺激する匂いと温かな湯気を立てる食事が待っている。そうして三人で食卓を囲み、話すのは禰豆子の学校のこと、炭治郎から教わったという食材の選び方、友達と遊んだこと。話すのはもっぱら禰豆子で、炭治郎もニコニコと聞きながら話を補足したりうまいこと続きをうながしたりするのだ。
 義勇はいつも聞いているばかりだけれど、ふたりはちっとも気にしない。食べながらでは話せない義勇を無視しているのではなく、常にふたりは義勇に向かって話しかける。

 なんて。なんて『普通』なんだろう。自分には決して得られないのだと諦めていた『普通』の家庭の食事光景は、なんて温かく幸せなんだろう。

 いくら感謝してもしきれぬありがたさと充足感を、与えてくれたのは炭治郎だ。そして今日も、きっとこの玄関を開ければ、明るい笑顔のおかえりなさいが待っている。
 幸せを噛みしめながら、義勇はいつものように鍵を開け、玄関の引き戸を開けた。

「ただいま」

 声をかけたが、返事がない。いつもより早く帰ると告げていないから、炭治郎と禰豆子は風呂にでも入っているのだろうか。
 ちょっぴり残念に思いながら靴を脱いでいると、廊下から子どもの甲高い笑い声が聞こえてきた。やはり風呂場かと、顔をあげた義勇は目に飛び込んできた光景に、その目を思い切り見開いた。

「ワハハハハハッ! すぐにパジャマを着ない子は、パンツマンのコチョコチョ攻撃をお見舞いするぞぉっ!」
「いやだもーん! あ、パパ! おかえりなさいっ!」

 廊下を走ってくる禰豆子は素っ裸だ。ほんのりと桃色に染まった肌と濡れた髪は、風呂上がりであるのが一目瞭然だ。だがそれは別にいい。こんなふうにはしゃぐ禰豆子を見られる日が来るなんてと、いまだに感動を覚えもする。
 だが。
「ぎっ、義勇さん!? え、あ、あのっ、え、なんで? まだお帰りの時間じゃ……」
 まっしぐらに駆け寄ってきた禰豆子と違い、廊下で急停止してうろたえている炭治郎の姿は、見慣れないなんてものではない。なにせ

「……なんでパンツ一枚なんだ?」

 しがみついてきた禰豆子を受けとめてやりながらも、義勇の目は炭治郎に釘付けだ。
 禰豆子が風呂上がりなのだから、当然、炭治郎も風呂に入っていたのはわかる。赤みがかった髪はやっぱり濡れているし、肌も上気している。
 いや、顔の赤みは湯上りのせいというよりも、羞恥のためだろうか。トランクス一枚というとんでもない格好ではさもありなん。あわあわとうろたえる様は、いっそかわいそうですらある。
 だがそんな思い遣りも、いったいどう告げていいのやら。なにしろ状況がさっぱりつかめない。
「パンツマン……?」
「あのですねっ! これは、そのっ」
「あのねぇ、パンツマンはね、禰豆子がお風呂から出てもすぐにパジャマ着ないと、追っかけてきて必殺コチョコチョ攻撃するのっ。すっごくくすぐったいんだよ? でも楽しいの!」
 義勇の腕を取りブンブンと振りながら、禰豆子はいたって上機嫌だ。小学一年生ではまだ裸であっても恥じらいは薄い。いや、相手が炭治郎と自分だからかもしれないが。一緒に風呂にも入るのだから、恥らわれても困ってしまうけれども。
 状況判断はできたが、まだ義勇の思考は正常とは言い難い。呆気にとられ過ぎて、そうかと禰豆子に答えた声も心ここにあらずである。
「……施設でも、なかなか服を着ない子に頭ごなしに叱るより、こんなふうに遊びながら着替えさえてやるほうが楽しんでくれたもんで……えっと、お見苦しくて、すみません……」
「いや……」
 モジモジと恥らう炭治郎の赤い顔を見ていると、なんだか義勇まで照れてきてしまう。
 ひと回りも年下の男の子の下着姿を目の前に、照れて恥らうなど変態臭いなと我ながら思うが、いかんせん慣れていないのだ。
 修学旅行だって一度も行っていない義勇にしてみれば、たとえ同性だろうと他人の下着姿などろくに見たことがない。他人の素肌を見るなど元妻と、そして入社した折の新人研修で不死川や伊黒と研修施設の大浴場に入ったとき以来だ。
 十六歳の炭治郎の肌は、ツヤツヤと張りがあるのが見て取れる。特になにかしているようにも見えないが筋肉はしっかりとついていて、体毛はまだ薄い。もちろん、育ち盛りの男子らしく脛や脇の毛はあるのだが、見苦しさは感じなかった。
 履いているトランクスは、この前の買い出しで総合スーパーで買った三枚千円のうちのひとつだろうか。そんなことが気になるなんて、我ながら思考が取っ散らかっている。そんなこと今はどうでもいいだろうに。
 義勇と炭治郎の動揺には気づかぬまま、禰豆子だけがご機嫌なままニコニコと笑っている。

「ねー、パパもパンツマンして?」

 は?

「あ、アレをか?」
「禰豆子っ! 義勇さんに変なこと言っちゃ駄目だろっ」
 飛び上がらんばかりに駆け寄ってきた炭治郎に抱きあげられても、禰豆子はキョトンとしている。どうしてダメなのと言わんばかりに首をかしげる様は愛らしいが、おねだりの内容はとんでもない。
 玄関口で素っ裸の禰豆子と下着一枚の炭治郎に囲まれ、義勇は半ば呆然と立ちすくむしかない。
 禰豆子のおねだりならば、叶えられるかぎりは叶えてやりたいと思いはする。だが、しかし……。

「パンツマン……」
「あのっ、義勇さん! 気にしなくていいですから! ホラ、禰豆子。もうパジャマ着てご飯にしようっ」

 急いた炭治郎の声と呆然とする義勇に、叱られたとでも思ったのだろうか。禰豆子の顔がみるみるうちに曇っていく。炭治郎の腕のなかで身を縮こまらせるから、義勇だってあわててしまう。禰豆子を悲しませたり、ましてや怯えさせるなどしたくはない。
 けれど。とはいえ、だ。

 パンツマン……下着一枚で、ワハハハハハッと、高笑いして? コチョコチョ攻撃とやらを、するのか? しなくちゃいけないのか……?

 グルグルと、頭のなかでさっきの炭治郎の姿と泣く禰豆子が回る。葛藤する義勇に炭治郎がオロオロとしているのはわかるのだけれど、禰豆子がどんどん悲しげになっていくのも感じているのだけれども。アレを自分がやったら、完全に変態じゃないか。
 どうしたものかと冷や汗さえ流れだした義勇の脳裏に、ピカリと救いの光が灯った。

「禰豆子、アンパンマンはスーパーマンにはなれない」

 うん? と、唐突な義勇の発言に首をかしげたのは、禰豆子ばかりではない。炭治郎も目をぱちくりとさせて、いったい義勇はなにを言い出したのかとポカンとしている。
「ウルトラマンもスパイダーマンにはなれない。禰豆子、俺の仕事は?」
「んっと……サラリーマン?」
「うん。もうサラリーマンだから、パンツマンにはなれない。パンツマンは炭治郎ひとりで十分だ」
「へっ? え、あっ! ズルいっ!」
 おぉーっと納得の声をあげる禰豆子に反して、炭治郎はぷくりと頬をふくらませている。拗ねたような上目遣いに、義勇は思わずフハッと笑い声をもらした。
「なんだ、俺が下着一枚になるの見たかったのか?」
 クツクツと笑いながら言えば、炭治郎はまた盛大に慌てだした。炭治郎の表情は豊かだ。顔だけでなく全身で感情を露わにする様は、見ているだけで飽きない。
「えっ!? いやっ、そんなわけじゃっ!! ……義勇さん、ちょっと今日は意地悪じゃないです?」
 また拗ねて唇を尖らせるから、なんだか胸の奥がこそばゆいような温もりに満たされる。
 あの唇をチョンとつついてやったら、どんな顔をするだろうか。なんでそんなことを思ったのかはわからない。実行する気もない。
 もはや家族同然とはいえ、炭治郎は家政夫で、義勇は雇い主だ。しかも十二も年の離れた男同士である。いくらなんでもそこまでのスキンシップは『普通』ではないだろう。

「ホラ、禰豆子。体が冷えてきてる。早くパジャマを着ないと風邪を引くぞ」
「はーい! お兄ちゃん、またパンツマンしてねっ」
 炭治郎の小さく突き出された唇の代わりに、禰豆子のふくふくとしたほっぺたをチョンとつついて言った義勇は、炭治郎の腕から禰豆子を抱きあげると、炭治郎に笑いかけた。
「おまえも早く服を着てこい。春とはいえまだ冷える」
「……はい。あ、今日の夕飯、鮭大根ですよ」
「禰豆子が大根の皮むいたんだよっ」

 明るく楽しい家族の光景。なんて、幸せな。胸が詰まるのはいつものことだ。
 禰豆子が笑っている。温かな食事。はためく洗濯物や磨かれた廊下。お日様の匂いのする布団。そんな当たり前のはずの光景は、今も自分のものではないような気がするからだろうか。

「あ、そうだ。義勇さん、おかえりなさい」

 パタパタと足早に風呂場に向かう途中で、炭治郎が振り向き笑った。言い忘れてましたと、頭をかいて照れながら。
 涙が出そうだなんて、言ったら炭治郎は、どんな顔をするんだろう。

「……ただいま」

 当たり前の、どこにでもある家族の姿と同じ、けれども家族ではない関係。雇い主と家政夫でしかないと言いきるのは、寂しすぎる。けれど、どうしようもない。どうなりたいのかも、わからない。それでも。
 腕のなかで禰豆子が笑っていて、炭治郎が、そばで笑ってくれていて。『普通』の家族ではない『他人』同士の家族ごっこなのかもしれなくても。

 あぁ、幸せだ。

 遠い日に壊れて砕けた幸せが、今、ここにある。かりそめの、いつかは消えるうたかたの夢のごときものだろうと、今、確かに義勇は幸せで。
 その幸せは、少なくともまだしばらくはつづくはずだった。穏やかに、笑いあいながら暮らしていけると、義勇は信じていた。自分と禰豆子と、炭治郎の暮らしは、いつか炭治郎がこの家を出るその日まで、変わらずいられると信じていたのだ。

 桜の舞う、穏やかでやさしい春のなかで――いずれ来る嵐には、気づかぬまま。