近所に竈門ベーカリーというパン屋ができたのは、義勇が中学に入学した春だった。
初めての着慣れぬ学ランに、気恥ずかしさと誇らしさを持て余しながら、姉と一緒に入学式から帰る道すがらで、花輪の飾ってあるその店に気づいた。
「いい匂い。ね、買っていこうか?」
弾んだ声で言った姉にうなずいて、カランコロンと鳴る軽やかなドアベルの音とともに入った店は、なかなかに盛況だ。それほど大きい店ではない。それでも棚には品数豊富なパンがわんさと並べてある。面積の割には客の動線を考えてあるのか、窮屈さは感じられない。とはいえ込み合う店内では、今日のところはゆっくり吟味するのは難しそうだ。
「どれもおいしそうね。うーん、迷っちゃうわ」
姉の声はウキウキと楽しげだ。真新しいトレイとトングを手に取って、棚を見まわす顔はいかにも幸せそうだった。手料理は和食が多いのだが、意外と姉はパン好きだ。朝食は必ずパンである。
義勇は特別パンが好きなわけではないけれど、フカフカツヤツヤとしたロールパンや、見るからにきめ細かなのがわかる食パンは、姉ほどではないが心が弾んだ。
姉の作る料理はすべておいしいけれど、パンはさすがに焼くことはない。だからパンは、いつもはスーパーで買っている。おいしいパン屋さんを近所で見つけられたらいいのにと、姉はたまに口にしていた。スーパーのパンも悪くはないが、パン好きとしてはちょっとばかり不満もあるらしい。
見た目だけでなく味もいいといいな。姉さんが気に入るぐらい。
義勇だっておいしいほうがうれしいが、姉が喜ぶのはもっとうれしい。
食パン、ロールパン、クロワッサン。そんな定番の主食用パンはもちろんだけれど、デザート系やお惣菜系のパンも種類が豊富だ。食に対してのチャレンジ精神を持ちあわせていない義勇は、無難にコロッケパンとクロックムッシュを、姉は悩みに悩んでパンオショコラにデニッシュ、バナナマフィンにチョコマフィンを選んだ。
「……義勇、半分食べてね」
常には滅多に見せないちょっといたずらっ子のような笑みで言った姉は、多分、選びきれなかったのだろう。そしてきっと食べきれない。甘い菓子系のパンばかりなのはご愛敬だ。育ち盛りの義勇には、自分でえらんだ分だけでは足りないから、姉のをもらってちょうどいい。
苦笑よりも少し共犯者っぽいいたずらっ子成分多めの笑みで、うんとうなずいた義勇に、姉は面映ゆそうに笑いながら肩をすくめた。
「明日からダイエットしなくちゃ」
「姉さんはそんなのする必要ないじゃない」
「義勇のそれは信用できないのよね。私に甘いんだもの」
それはしかたがない。だって義勇が世界で一番好きなのは姉なのだ。
早くに両親を亡くした義勇にとって、姉は母でありたまに父であり、世界中でなによりも大切な人だった。
けれどもそればかりでもなく、姉は十分に美しい。と、義勇は思っている。たぶん、家族の身贔屓などではない。一緒に街を歩いていて、スカウトされたことだってある。なぜだか義勇と一緒に。
ともあれ、そんなことないよと、反論とも誤魔化しともつかぬ言葉を返そうとしたそのとき。
「かあしゃっ、おてちゅだいしゅゆよ!」
なんとも愛らしい幼子の声が明るくひびいて、店内の客が思わずといったふうに振り返った。義勇と蔦子も例に漏れない。
「あら、炭治郎。禰豆子はどうしたの?」
「ねうちゃんね、ねんね。だから、たんじろ、おみしぇのおてちゅだいしゅゆの!」
ちっちゃなふくふくとした手を挙げた幼児が、ニコニコと店員に宣言している。レジに立っていたやさしげで綺麗な店員さんはこの店の奥さんで、あの子の母親なのだろう。職住隣接の店らしい。店の奥に見えるドアが自宅に繋がっているようだ。
「たんじろ、おてちゅだいできゆよ! いやっしゃいましぇ!」
大きな声で笑いながら店内に向かってぺこりと頭を下げる男の子に、店内の客の顔には一斉にほんわかとした微笑みが浮かぶ。もちろん蔦子も、これでもかというほどに相好をくずしていた。
義勇だってかわいいなと思ったし、思わず頬をほころばせた。が、その幼児と目があった次の瞬間には、ピシリと硬直する羽目になった。
大きな目をパチンとひとつまばたいたと思ったら、炭治郎という名の男の子は二パァッと満面の笑みを浮かべて義勇の足に向かって突進してきたのだ。まだいくぶんおぼつかない足取りながら、その勢いはまさしく突進としか言いようがなかった。
え? と思う間もなく義勇の足にガシリと抱きついた炭治郎は、ニコニコと笑っている。
「た、炭治郎っ!?」
あわててレジから出てきた母親が抱きあげようとしても、炭治郎は必死に小さな手で義勇のズボンをつかんで離さない。
「やぁの! おにいちゃに、いやっしゃいましぇしゅゆのぉ!」
「い、いやっしゃいましぇ? えっと、いらっしゃいませ?」
言葉はわかるが意思の疎通はどうにも困難だ。義勇には姉がひとりいるだけで、弟や妹はいない。つきあいのあるご近所にだってこれぐらいの幼児はいないから、扱い方はさっぱりわからなかった。
入学式を終えたばかりの新品の制服のズボンは、炭治郎がギュッと握りしめているせいで、すっかりしわが寄っている。
「すみません。ホラ、炭治郎、お兄ちゃんが困ってるわよ」
「こまゆ……? おにいちゃ、たんじろ、きやい?」
母親に言われた瞬間に、大きな目が潤んで今にも涙が落ちそうになったりしたら、もうどうしたらいいのやら。
「義勇……」
苦笑する姉にちょんと肩をつつかれて、義勇は、ハッとまばたきするとゆるく首を振った。
「き、嫌いじゃない」
「ほんちょ?」
なんでこんなに必死なのかはてんでわからないけれど、泣かれるのはこっちのほうこそ困ってしまう。コクコクと義勇があわててうなずけば、炭治郎は目を潤ませたまま、またニコッと笑った。
「えっと……たん、じろう?」
「あいっ!」
パッと手を挙げて笑う顔はやっぱりかわいくて、弟がいたらこんな感じかなと、少しウキウキとする気持ちもあるけれど、それ以上に困惑のほうが大きい。周りのお客さんたちの興味津々な視線や炭治郎の母の申しわけなさげな顔も、ちょっといたたまれなかった。
元々義勇は目立つことは好きじゃない。こんな珍事に、どう対処してよいのやらわからず、思わず困り切った視線を姉へと向ければ、姉はやわらかな苦笑を浮かべたまま
「少しお話してあげたら?」
と店の隅を指差した。
それにとまどいつつもうなずき返し、義勇は足に抱きついたままの炭治郎に、ぎこちなく笑いかけた。
「あっち行こう。ここだとお客さんの邪魔だから」
「あいっ」
笑ってよい子のお返事をする炭治郎に、母親がペコペコと姉や義勇に頭を下げる。それに小さく会釈して炭治郎をうながせば、炭治郎は義勇のズボンをつかんだままついてきた。
ブリックパックの飲料が入ったケースの横のわずかなスペースで、義勇は膝を抱えてしゃがみ込んだ。目線の高さがあった炭治郎の顔はご機嫌だ。いかにもうれしそうに義勇の顔を笑いながら見つめている。
「……いらっしゃいませって、なにするんだ?」
「んちょね、パンいかがれしゅかしゅるのっ。しょれとね、あいあとごじゃいましたも!」
聞いてもやっぱりよくわからない。つい眉尻を下げて小首をかしげた義勇に、苦笑めいた声がかけられた。
「たぶん、パンの試食はいかがですかってことだと思います。開店してから昨日まで、お客様にご試食いただいてましたから。それと、お買い上げいただいたパンをお渡しするときの、お礼の言葉かしら。お店に来たのはちょっとだけだったのに、覚えてたみたい」
母親の言葉に炭治郎がうれしそうにうなずく。
なるほど、炭治郎のしたいことはわかった。でも、なぜ義勇にだけ向かってきたのかは依然わからないままだ。それは母親も同様らしく、ニコニコと笑う炭治郎に向かって「どうしてこのお兄ちゃんになの?」と聞いてくれた。
「おにいちゃ、たんじろとおんなじこどもりゃから!」
大きな声で明るく言う炭治郎に、店内にいた全員が思わず周囲を見回した。平日の昼間の店内は、確かに大人しかいない。炭治郎のほかには『子ども』と呼べる年齢の客は義勇だけだ。
とはいえ、まさかこんな幼児に同じと言われるとは思いもせず、義勇はいささかショックを受けた。
だって、今日から中学生なのだ。ちょっぴり大人になったばかりだ。なのに、こんな舌足らずでまだまだ赤ちゃんと言ってもいいような子に、同じと言われるなんて。
大人たちは微笑ましさを覚えたようだが、義勇は少しだけ恥ずかしくて、思わずうつむきそうになる。けれども声を荒げて全然違うと否定するなんてちらりとも浮かばない。だって炭治郎はいかにもうれしそうだし、まだこんなに小さいのだから。
「炭治郎は、何歳?」
「えっちょ、ふたっちゅれしゅ!」
「指、三本出てる。え? どっち?」
「ふたつです。夏に三歳」
「それにしてはしっかりしてますね。義勇とは学年で言ったら十も違うから、ちょっと年は離れてるけど、弟ができたみたいじゃない?」
「ぎう?」
そんな呑気にしてないでよと、つい困り切った顔を姉に向けたら、今度は炭治郎が首をかしげた。
「ぎうじゃなくて、義勇。俺の名前」
「ぎうしゃん! おにいちゃ、ぎうしゃんってゆうの!」
そうじゃなくて。言い返そうとして、でも義勇は、思わず小さく笑った。あんまり炭治郎が幸せそうに笑うので。
大きく笑みに開けた口には、義勇の爪よりちいちゃな白い歯が見える。ほっぺたなんかプクプクだ。手だってモミジみたいに小さくて、どこもかしこもコロコロと丸っこくてやわらかそうな、炭治郎。突然現れた、かわいい弟みたいな。面映ゆさに浮かべた笑みには、もうぎこちなさはなかった。
「うん、ぎうしゃんでいいよ、炭治郎」
「あいっ!」
それが、義勇と炭治郎との出逢いだった。
「義勇さん! いらっしゃいませ!」
カランコロンとひびく軽やかなドアベルの音とともにドアをくぐった途端、明るくて元気な声がかけられた。
「こんにちは、義勇くん」
「こんにちは」
あれから四年。義勇の制服は学ランからブレザーになった。とはいえ、今日は普段着だ。今日、義勇の通う高校は入学式で、二年生になった義勇は学校に行く必要がない。
四年の間に、すっかり義勇は竈門家の面々と馴染んでいる。竈門ベーカリーへのお遣いは、義勇の役目になって久しい。でも今日の目的は、朝食のパンを買うためではなかった。
まだ赤ちゃんとしか言いようがなかった炭治郎も、すくすくと背が伸びて、言葉遣いもしっかりした。もうちゃんと義勇の名前だって呼べる。そして。
「今日、入学式だったんだろう? おめでとう」
手にした小さな紙袋を渡すと、炭治郎がパチパチと目をしばたたかせた。
「え? あのっ」
「去年、お祝いをくれたから」
お返しだから遠慮するなとの意は、過たず伝わったらしい。けれども炭治郎はいっそう眉を下げた。
「だって、俺があげたの、パンだし」
炭治郎が言う通り、義勇がもらったのはパンだ。炭治郎が初めて自分だけで作ったという、ロールパン。しかも、義勇のためだけに、義勇の高校入学を祝いたいからと、作られたものだ。
「……俺も手作りのほうがよかったか?」
ブンブンと首を振った炭治郎に母親――葵枝の苦笑する声がかけられた。
「炭治郎、せっかくだから貰ってあげなさいな。断ったら義勇くんだって困っちゃうし、悲しんじゃうわよ」
葵枝にも言われたとはいえ、見上げてくる炭治郎は、まだとまどいが露わだ。ゆっくりうなずいた義勇が開けてみろとうながすのにも、袋から小さな箱を取り出す手は、やっぱりどこか恐る恐るである。けれども箱を開けた瞬間に、その顔はパッと明るくほころんだ。
「時計だっ」
「店の手伝いをするなら、遊んでいても時間がわかるほうがいいだろう?」
炭治郎は今も店の手伝いをせっせとしている。もちろん、初めて逢ったときのように『子ども』だからなんていう理由で、特定のお客さんに突進するようなことはなくなったけれども。
というよりも、後にも先にもそんなことを炭治郎がしたのは義勇にだけだ。あのときのことは竈門ベーカリーの常連客の間では語り草になっていて、話題に出されるたび義勇もちょっと恥ずかしい思いをするが、炭治郎はその比ではないらしい。よく覚えてないけどごめんなさいと、毎度泡を食ったようになるから、余計に客たちに面白がられている節がある。
「時計の針、読めるようになったか?」
「はい! 義勇さんに教えてもらったからわかります!」
バイトなんてしていない義勇が、小遣いで買える程度の安い子ども用だ。それでも炭治郎は心底うれしそうに笑ってくれる。
義勇は炭治郎の手から腕時計を取ると、まだ細い手首につけてやった。
炭治郎も背は伸びたが、高校生になった義勇もずいぶんと背が伸びた。手も足も大きくなって、大人の入り口にある。
身長差はあのころよりも縮まったけれども、今のほうがもっと大人と子どもみたいになったなと、炭治郎のまだ小さい手に胸中で義勇は小さく苦笑した。高校二年生と小学一年生。端から見たら一緒にいるのが不思議な組み合わせだろう。
「ありがとうございます、義勇さん!」
それでも、今も炭治郎がかわいい。竈門家には炭治郎の下にも子供が増えて、すぐ下の禰豆子や、竹雄や花子も義勇はかわいがっているし、葵枝の大きくなりだしたお腹のなかの子も、産まれたらたっぷりかわいがってやる気でいる。
けれどもやっぱり、炭治郎はどこか義勇にとって特別だ。
見て! と葵枝にうれしげに腕時計をした腕を見せている炭治郎を微笑み見つめて、義勇は、いつかは炭治郎も俺と一緒にいるより友達や好きな子を優先する日がくるのかなと、ちょっとだけ切なくなった。
あの腕時計のベルトが炭治郎の腕にはまらなくなるころには、自分も炭治郎よりも優先する彼女でもできているんだろうか。それはずいぶんと寂しくて悲しいことのような気がして。
その理由はわからないまま、義勇はランドセル見てと腕を引く炭治郎に素直につき従い、笑ってまだまだ自分の胸にも届かない頭を撫でてやった。
義勇が校舎から出ると、なぜだか学ラン姿の炭治郎が職員玄関近くの桜の木の下で待っていた。
「なんでこっちにいるんだ?」
義勇に気づいた瞬間に、顔を輝かせて駆け寄ってきた炭治郎に、義勇はちょっと呆気にとられた。今日は中等部の入学式だ。ここは数日前から義勇の職場となった高等部の校舎で、中等部の新入学生にはてんで用などない場所のはずである。
「義勇さんに逢ってから帰ろうと思って! 制服見せたかったので!」
ニコニコと笑う顔はまだあどけない。けれどももう炭治郎も中学生だ。いい加減成長も止まったらしい自分との身長差は、年々縮まっていくのだろう。
義勇は真新しい学ランを着た炭治郎を感慨深く見つめた。
ずいぶんと低い位置にあった炭治郎の頭は、もう義勇の肩口に届きそうだ。義勇が着ていたころと同じ学ランの胸には、初めて逢った日の義勇と同じく桜の花を模した飾りがつけられている。
「いつまで待つつもりだったんだ」
着任したばかりの新任教師だ。義勇自身ですら、いつ帰れるのかなどまだ見当がつかずにいたというのに。
あきれ含みの声で言ってやれば、炭治郎はちょっと肩をすくめ、ぺろりと舌を出した。
「あと三十分待って出てこなかったら、冨岡先生いますかって聞くつもりでした」
そう言って炭治郎は左手の時計を義勇に見せてきた。
冨岡先生。確かに義勇は、明日の高等部の入学式以降は生徒から先生と呼ばれるようになる。いや、一日に着任を済ませたのだから、もはや肩書は高校教員だ。炭治郎は中等部ではあるが、中高一貫校なのだから、その呼び方は間違ってはいない。
当たり前のことなのになんだかちょっと不思議で、ちょっとだけ寂しい。
炭治郎が小学校に入ったときに、いつまでこんな関係でいられるだろうかと少し寂しく思ったものだが、いまだに炭治郎は義勇を見れば満面の笑みで駆け寄ってくるし、義勇にも炭治郎より優先するような彼女などいない。今のところ、そういう存在が現れる気配すらなかった。
けれども確かに時は流れていて、互いの立場や環境はあのころからずいぶん変わったのだ。義勇は改めて過ぎた時間と現状を実感した。
四月の空はおぼろに霞んで、桜の花がひらり、はらりと、舞っている。春休み中の学校は、入学式前で部活動もみな休みなため、校舎は静まり返っていた。中高合同で使われる講堂もとうに式を終え、人は残っていないだろう。中等部の校舎だってすでに新入学生や保護者は帰っているはずだ。
やけに静かな春の午後。特別変わったことなどないはずなのに、この空間だけ世界から切り取られ、炭治郎と自分のふたりきりしか存在していないような気がしてくる。
教職を選んだのは自分だが、今はまだ『先生』ではなく炭治郎が大好きと笑ってくれるお兄ちゃんで、なんの肩書もない『義勇さん』でいたい。今だけは、それが許される。そんな気がして。
馬鹿なことを考えているなと、思わず苦笑して、義勇はポンポンと炭治郎の頭を軽く叩いた。
「葵枝さんはもう帰ったのか?」
「はい。店がありますから」
毎年変わりばえのない春だが、去年の春とは変わったこともある。義勇が教職に就き、炭治郎の背が伸び中学生になったこともそうだが、竈門家から家族がひとり減った。
竈門ベーカリーの店主で、家長である炭治郎の父親が亡くなったのは、去年の秋のことだった。
喀血し倒れたときにはもう余命は幾ばくもなく、葬儀会場の地面に散った赤い落葉に炭治郎が、父さんが吐いた血みたいと、ポツリと言ったその声と表情は、義勇の胸に深く刻み込まれている。
大学四年だった義勇は、婿を迎えた蔦子の住む生家を出て、大学の近くでひとり暮らしをしていた。もう竈門ベーカリーに買い物に行くのも実家に帰ったときぐらいで、疎遠とまではいかずとも、以前ほどには炭治郎とも頻繁に顔をあわせることなどなくなっていた。
炭治郎の父である炭十郎は、穏やかで物静かな人だった。いつも厨房で仕事していて、接客はほとんど葵枝や炭治郎たち子どもがしていたから、義勇とはあまり話をしたことはない。それでも、入院したと姉から聞いて見舞いに行ったときに、炭治郎たちをお願いしますと義勇に頭を下げた炭十郎の穏やかな瞳には、身に余るほどの信頼があった。
「まだ、その時計してるのか」
なんとはなししんみりとしてしまった自分を誤魔化すように言えば、炭治郎は、はい! と元気よく笑った。炭治郎が小学校に入学したときに義勇が贈った入学祝いだ。今も傷などなく、電池は幾度か交換したようだが、毎日大事につけているらしい。物持ちの良いことだ。
「そろそろきついんじゃないか?」
「ベルト換えたら大丈夫です!」
子だくさんの竈門家の子どもたちはみな質素倹約が身についているが、それにしたって、そこまでして子ども用の時計を使う必要はあるまいに。
自分の贈り物であるだけに、うれしさもあるが、ちょっとばかり申しわけなさも義勇は覚える。
途中まで一緒に帰るかと並んで歩きだす。電車通学となる炭治郎の帰り道は駅の方角で、義勇は、就職と同時に駅の近くに越したばかりだ。駅までは徒歩十五分ほど。春の陽気は穏やかで、夕暮れにはまだ早い。初めて炭治郎と出逢った日には、義勇はこの道を姉と歩いた。
今は、あのころはまだ二歳だった炭治郎と、歩いている。
自分はもう大人で、就職だってした社会人だ。真新しい学ランを着ていたあの日から、ずいぶん遠くに来たような気もするが、今も炭治郎は隣で笑っている。なんとも不思議な縁だ。運命、なんて。そんな言葉が浮かんだのに、自分でも少し驚いて、義勇は楽しげに明日からの中学生活について話している炭治郎をまじまじと見つめた。
「義勇さん? あ、冨岡先生、でした」
「……今日はまだ、義勇さんでいい」
炭治郎からの先生呼びはなんとなく寂しさがぬぐえず言うと、炭治郎はほわりとうれしげに頬を染めて笑った。
「はいっ、義勇さん!」
「今日はまだ義勇さんだから、入学祝いにおごってやる」
「えっ! い、いいですよっ」
「安心しろ、コンビニでお茶かジュースだ」
それぐらいなら炭治郎は素直に受け取る。知っているから、義勇は笑って駅前のコンビニを指差した。
「えっと、じゃあ、はい」
照れくさそうに笑い返してくれた炭治郎に、義勇のほうこそちょっとホッとする。教師となる以上は依怙贔屓になるような行為は控えるべきだろうと、今年は入学祝いを買うのをためらっていたけれど、祝う気持ちぐらいは受け取ってもらえたようだ。
ペットボトルのお茶を二本買ってコンビニを出ると、炭治郎が、受け取ったお茶を大事そうに握りしめた。少しだけ大人びたとはいえまだまだまろくあどけない頬を、ほんのりと朱に染めて、ありがとうございますと微笑む姿に、なぜだか義勇の胸がドキリと音を立てる。
「……飲まないのか?」
「なんか、もったいないから……うちに帰ってからにします」
見上げてくる瞳は、小さなころと変わらぬ曇りのなさだ。けれども、なぜだろう。義勇の目にはキラキラとかがやいて見えた。
「じゃあ、また! また店にも来てくださいね!」
もう少し、と。とっさに引き留めそうになった手を、義勇はグッと握りしめた。
「あぁ……葵枝さんたちによろしく」
笑って手を振る炭治郎の手首に、少し窮屈そうな腕時計が覗いていた。
時計を贈るのは、あなたと一緒の時を歩みたいという意味になる。そんな言葉を聞いたのは、いつだっただろう。なぜ今、そんな言葉を思い出したのだろう。
わからないまま、義勇は炭治郎のまだ頼りない背中が消えても、その場に佇んでいた。
「竈門炭治郎っ! ピアスを外せ!」
「外せませんっ! すみませんっ!」
炭治郎が高等部にあがってから、すっかりお馴染みとなった光景だ。このやりとりが日常になって久しい。
とはいえ、今日の義勇はいつもとはちょっと違う。竹刀は持っていないし、なによりいつものジャージ姿ではない。スーツに革靴での鬼ごっこは、義勇に不利だ。
あきれる周囲の視線のなか、義勇は大きくなった炭治郎の背を追う。
式典を終えて、グラウンドには女生徒の泣き声や、笑いあう生徒たちの声がにぎやかにひびいている。そんななかでのいつもの鬼ごっこだ。あきれ返られても仕方がない。
今日、炭治郎はこの学校を卒業する。
義勇が教職に就いてから、六年間。同じ学校に通った六年間が、今日終わる。
高等部にあがったのと同時に、なぜだか父の形見のピアスを着けるようになった炭治郎を、追いかけまわした三年間。
それだけの月日の間に、炭治郎はグンと背も伸びて、もう大人と遜色ない体躯になっている。義勇との身長差も、だいぶ縮められた。
駆けていく背中に、なんだか泣きたくなるのを振り払うように、義勇はスピードを上げる。もうこんなふうに炭治郎を追うことはないのだ、今日をかぎりに。
六年の間に、義勇に起きた変化は、変化とすら言えぬものだったのかもしれない。
もしかしたら、変化どころかずっと胸にあったもので、ただそれを自覚しただけだと思うこともある。
炭治郎に、恋してる。三本の指を立てて、ふたっちゅ! と笑った小さな炭治郎と出逢ったころから、もしかしたら、ずっと。
あまりにもそばにいるのが当たり前で、炭治郎への愛おしさが胸にあるのは義勇にとって当然のことで、気づくことすらできずにいた想いは、少しずつ、少しずつ、義勇のなかで確かな輪郭を浮かび上がらせて、今ではもうごまかすこともできない。
それももう、終わらせなければ。だって炭治郎は卒業する。大人への道を歩み出す。義勇の知らない場所で。
いつの日か、竈門ベーカリーを訪れたら、炭治郎とその妻がいらっしゃいませと笑って義勇を迎えるようになるのだ。
変わらないのは義勇だけ。炭治郎はどんどん変わっていくだろう。愛らしさも素直さも、誠実さや思い遣り深さも変わらぬままに、義勇の知らない炭治郎へと変わっていくのだ。
つかまえてやる。
もう二度と追いかけることが叶わないなら、最後の今日は、絶対に。
そして。伸ばした義勇の手が、炭治郎の腕をつかんだ。
「おまえ、卒業式ぐらい……」
その先は、続けられなかった。ポロポロと涙を落とす炭治郎の瞳を、見てしまったから。
「ご、ごめ、なさい」
「そんなに、卒業するの寂しいか」
声は自然とやさしくなった。少し切なさもにじんだ。この涙に自分との別れへの寂寥など、きっとふくまれてはいないだろうから。
「我妻や嘴平とは同じ大学だろう? おまえなら、すぐに新しい友達もたくさんできる」
「ちがっ、先生、と……先生に、も、追っかけて、もらえ、ないっ、からっ」
しゃくり上げて、ギュッと目をつぶった炭治郎はうつむき話す。つかんだ腕を放せぬまま、義勇は、唖然として少し見下ろす位置にある炭治郎の頭を見ていた。
「ど、なに、追っかけて、も、ぎゆさ、には、追いつけ、なくて……追っかけて、ほしく、て。ごめ、なさい。父さんの、形見、だけじゃなく、て、義勇さんに、追いかけてほしくて、ピアス、最後、だから」
ポロポロ、ポロポロ、きれいな雫が、こぼれて落ちる。ポロポロ、ポロポロ、気づかずに、包み込んでやれずにいたきれいな想いが、あふれて落ちている。
父さんの吐いた血に似ていると、落ち葉を見つめてポツリと言った後に、義勇の腕のなかで初めて声をあげて泣いた、その日の涙と悲しみのように。
あぁ、もうこれ以上、ひと粒だって、落とさせたくない。
込み上げてくる愛おしさと不甲斐なさに突き動かされ、義勇は、つかんでいた手を離すと代わりに強く炭治郎の背をかき抱いた。
離された炭治郎の腕に、ちらりと見えたのは、子ども向けの腕時計。今も、カチカチと時を刻んでいる。
「泣くな」
「ごめん、なさ」
義勇を困らせたと思ったのだろう。炭治郎があわてた様子で腕のなかでもがく。
「謝る必要なんてないだろう」
「だ、だって、困らせて、る。嫌われ、たら、やだっ」
「嫌いじゃない」
そう、初めて逢ったそのときから。
「好きだ……炭治郎」
パッと上げられた顔は泣きぬれて、信じられないと書いてある。もうその顎先は、爪先立てば義勇の肩に乗る。そう、少し顔をかたむけてやれば、口づけさえたやすいほどに、炭治郎は大きくなった。
だけれども、まっすぐに義勇を映しだす瞳は、ちっとも変わっちゃいない。
時計を贈る意味を、教えてやったらどんな顔をするだろう。泣きだしそうだった幼い顔が、嫌いじゃないと言ってやったらたちまち笑顔になったように、今も炭治郎はうれしそうに笑ってくれるだろうか。
でも、その前に。
まずは、一生大事にしますからと炭十郎の面影と葵枝の笑みを思い浮かべ誓い、顔をかたむけるだけで口づけられるか、試してみようか。