午後7時のルイスリンプ 2

 大学生である以上、いかに締め切りが近づこうとも、授業には出席しなければならない。サボりまくっている学生も少なくはないが、生真面目な義勇にそんな選択肢はなかった。
 とはいえ、寝不足でフラフラした状態では、到底講義の内容など頭に入ってくるわけもない。来るだけ無駄だったかもしれないと、義勇は少しばかり後悔していた。
 今日は午後にもう一コマ。来てしまったからには今更帰るのもどうかと思うし、やはりサボりというのは気が進まない。
 ざわめく学生食堂の片隅で、義勇は、少し据わった目で周囲を見まわした。
 ファッションなんて興味がない義勇の服装はといえば、普段はとにかく着心地が楽なもの一択だ。だが、デートとなるとそうもいかない気がする。
 食堂にいる学生たちは、おおむね義勇と大差のない服装のように見えるが、オシャレな学生というのはどんな感じなのだろう。その時点からしてわからないものだから、参考にしようがないなと、義勇は小さくうなった。
 職業柄、デートシーンなど散々書いている。だが実際は、義勇にデートの経験などありはしない。義勇が書いてきたデートなぞ、所詮は錆兎との恋の妄想を書き連ねただけなのだ。登場人物の服装は、錆兎が好むものや、錆兎に似合いそうだと義勇が思ったものばかりである。
 錆兎もファッション感覚については義勇と似たり寄ったりなので、あまり奇をてらった描写は必要なかった。プロであるからには、義勇だって一応資料として性別問わずファッション誌などにも目を通しはする。けれど正直言って、ファッション用語のカタカナの羅列など、義勇にはさっぱり理解できない。そのためいつも登場人物には無難な服を着せがちだ。なんなら服装などの描写は避けてしまったりもする。
 個性を伝えるのに必要なこともあるので、担当編集者である胡蝶などには、もうちょっとなんとかなりません? と指摘されたりもするが、苦手なものは苦手なのだ。姉と同居していたころは、姉が買ってきてくれる服を素直に着ていただけだし、今は量販店で適当に無難なものを買うばかりである。デートのための勝負服なんて、これまでの人生で義勇は一度として買ったことがない。
 いくら周囲を観察しても、最適な答えなどはなからわからないのだから、なんの実りもありゃしない。注文したもののさっぱり箸が進まずにいる蕎麦が、刻一刻とのびていくばかりである。

 服もだけれど、高校生とデートするなら、どこに行くのが一番喜んでもらえるんだろう。

 考えねばならないことが山積みで、デートというのはほとほと面倒なものだなと、義勇は恋愛小説家らしからぬことを思う。さりとて嫌なのかと問われれば、否としか言いようがない。
 義勇だって楽しみにしていないわけではないのだ。炭治郎を喜ばせたいと思ってもいる。炭治郎がデートを楽しみにしてくれているのならば、最大限の努力をする気である。

 炭治郎も今ごろデートのことで悩んだりしてるんだろうか。

 ふと思って、義勇の唇がかすかに弧を描いた。思い出すのは、月曜の夜のこと。炭治郎から送られてきたメッセージの数々だ。あずかり知らぬところで決められていたデートの約束に、炭治郎が少々パニック状態になっているのが、手に取るようにわかるメッセージだった。

『デート』『いいんですか?』『無理しないで』『禰豆子が』『ドーナツ』『じゃなくて』『どうすれば』

 メッセージアプリが伝える言葉から、炭治郎が真っ赤な顔で必死にスマホをフリップする様は、容易に思い描けた。ポンポンと届く言葉に面映ゆく笑ったまでは、義勇にも少しは余裕があった。

『落ち着け』
『だって』
『委員会はないんだろう?』
『はい』
『昼ごろからでいいか?』
『はい』
『迎えに行く』
『はい』
『楽しみにしてる』
『はい』

 はい以外の答えがそろそろほしいなと義勇が思わず苦笑するほど、炭治郎の舞い上がりっぷりは、想像していた以上にうれしいものだった。ちょっとしたいたずら心が不意に浮かび、義勇は、日頃は滅多に伝えられない一言を送ってみた。

『好きだ』

 間髪入れずにきていた返信は、少し間が開いた。

『俺も好きです』

 ポンと出てきたメッセージに、胸をギュッと鷲掴みにされたような気がして、義勇は知らずスマホを胸に抱え込んだ。
 苦しいぐらいなのに、震えるほどにうれしい。
 錆兎に片想いしていたときも、些細な一言に義勇が舞い上がることはたびたびあった。けれどそれには、必ず切なさがつきまとっていた。
 なのに、炭治郎が伝えてくれる言葉が義勇の胸に生むものには、やるせなさや切なさなどなく、喜びだけがあった。

 両想いというのは、なんてすごいんだろう。見返しても炭治郎のメッセージは消えない。繋がりあっている心が、文字の形でそこにある。

 ついぼんやりと幸せを噛みしめてしまった義勇が、はたと気づいて『おやすみ』と返したのは五分後。きっと炭治郎はやきもきしながら返信を待っていたのだろう。今度は間を置かずに『おやすみなさい』と返ってきた。間髪入れずに追加されたのは、手を振る兎のスタンプだ。クリッと丸い兎の目は赤く、炭治郎の瞳を義勇に思い出させた。
 久方ぶりに幸せなひとときだった。逢えたわけではないけれど、想いあっていることを実感できた心安らぐ夜だったのだ、そのときまでは。

 寝不足のぼんやりする頭を軽く振って、義勇は、持ち上げた麺をけれどすすることなく、また箸をおろした。食欲などさっぱりわかない。ついでに土曜のプランも、これっぽっちたりと浮かんでこない。
 今日はもう木曜日。だというのに、なにを着たらいいのかすらわからずにいるとは、恋愛小説家の肩書が泣くなと、自己嫌悪のため息ばかりが落ちる。
「義勇!」
 聞き慣れた声に義勇が振り返ると、錆兎と真菰が近づいてきていた。
 年末に学生結婚したふたりは、新婚真っただ中だ。正式につきあいだしたのは高校を卒業したときからとはいえ、幼いころからそばにいたからか、新婚らしい浮ついた様子はない。それでも結婚前にくらべると、寄り添う距離はさらに狭まった気がする。
 錆兎の祖父であり、義勇の剣道の師匠でもある鱗滝の容態は、今は安定しているらしい。春は越せないと言われていたが、ふたりが結婚したことでひ孫の顔もと張り合いが出たのか、先日見舞いに行った折には、車いすでではあるが病院の庭を散歩できたぐらいだ。
 予断を許さないとはいえ、心配しつづけるような状況ではなく、ふたりにとっては今が一番楽しい時期だろう。だというのに、義勇を目にしたとたん、錆兎と真菰の顔からスッと笑みが消えた。
 なにかあったのだろうかと、小さく首をかしげた義勇の元に歩み寄った錆兎は、ポンと義勇の肩をたたき、真顔でのたまった。
「……義勇、今日はうちで飯食ってけよ」
「いや……あまり食欲が……」
「だからこそだろ?」
 じっと義勇を見すえる錆兎の目が、少しばかりあきれの色をたたえた。
 ほとんど手つかずの蕎麦を一瞥し「自分の顔色の悪さ自覚あるか?」と、言い聞かせる錆兎の声は強い。
 横で真菰も真顔でうなずいているあたり、自分で思う以上に、悲愴感ただよう顔をしているのだろう。義勇は居心地悪くふたりの顔をうかがい見た。
 反論を許さないふたりの視線に、耐えきれずこくりとうなずく。否など唱えられるはずもない。
 取り上げられた蕎麦のどんぶりの代わりに、そっと差し出された真菰のプリンが、義勇の昼食となった。
 のびた蕎麦は、もったいないと錆兎が食べた。まったくもって面目次第もない。

 錆兎の家にそのまま真菰が引っ越してきた形の新婚生活だから、見慣れた部屋に変わりはない。義勇にとっても勝手知ったる他人の家だ。幼いころから何度となく来た錆兎の家は、義勇の家よりはこじんまりしているが同じく古い日本家屋で、いつきても居心地のいい場所だった。
 けれども今日ばかりは、少々落ち着かない。誘われた理由が理由なだけに、どうしたものかと義勇は途方に暮れそうになった。
 夕飯には少しばかり早い時間だが、義勇の昼食がプリンひとつきりなのを気にしているのだろう。家に入るなり真菰は台所に直行した。
「すぐに支度するから、くつろいでてね」
 笑ってエプロンをつける真菰は、すっかり若奥さんの顔をしている。見慣れた幼馴染みの顔はそのままに、雰囲気が以前よりも落ち着いて見えた。
 あぁ、錆兎と真菰は結婚したんだなぁと、こういうとき義勇は、いまだに同じ言葉を思い浮かべる。
 もう錆兎への恋心は義勇の心のなかにはない。好きだという想いはそのままに、恋のときめきや切なさも、狂おしい嫉妬も、痛いほど胸に満ちることはなくなった。
 真菰と一緒に暮らす錆兎を見たところで、今はもう苦しくなったりなどしない。嫉妬もない。それは確かなのだけれど、それでもなんとなく寂しいような気がするのは、少しだけ自分が異分子に思えるからだろうか。
 三人だった関係がふたりとひとりになったのは、もうずいぶんと前のことなのに。いまだに自分だけが、いつでも三人一緒だったころの記憶にとらわれているのかもしれないと、義勇はぼんやりと思う。

「で? なんか悩んでるのか?」

 台所で手際よく動く真菰の背を、ぼうっと眺めていた義勇の意識が、錆兎の声に引き戻された。
 竹を割ったような性格の錆兎らしい単刀直入っぷりだ。まっすぐ見つめられて、義勇は気まずく視線をそらせた。台所にいる真菰も聞き耳を立てているのがわかる。
 こういうとき、古い家の造りがちょっと恨めしい。開けられたままのガラス戸一枚隔てた茶の間での会話は、台所にも余裕で届く。一言も聞き漏らさないと、調理中の真菰の背が伝えているようで、義勇の心情はいたたまれないの一言だ。
 錆兎には、高校生とつきあうことになったとすでに白状させられている。男だとは、さすがに言っていないが。
 長年の片想いは告白したけれど、性的指向そのものが男性にしか向かないのだとは、どうにも言いづらい。いずれ知られるのは確かだろうが、まだ早いとも思う。
 炭治郎と義勇がつきあい出してから、まだ半年も経ってはいない。キスだって告白したときの一度きりだ。デートだって週末に初めてする。義勇の家に遊びにくることは度々あったから、お家デートというやつはしていることになるのだろうけれど。

 それでも、これからどうなるのかなんて、まるでわかりはしないのだ。

 もちろん、炭治郎への気持ちが簡単に揺らぐことはないだろうと、義勇だって確信してはいる。炭治郎にしても、幼いころからずっと義勇ただひとりを想ってきたというのだから、そうそう心変わりすることはないだろうと、思ってもいる。
 けれど、それは今後の自分次第だと、義勇は考えざるを得ないでいた。幻滅され、こんなはずじゃなかったとフラれる可能性だって、ゼロではないのだ。
 要は自信がないのだ。臆病風に吹かれている。錆兎に告げるのなら、炭治郎との仲が深まり、絆は決して途切れないとの自信がついてから。そんな見栄に似た気持ちが心の奥にあることに、義勇は不意に気づいた。
 台所でまめまめしく動く真菰の背を、なんとなし見つめる。
 愛情を育んで、ともに生きると誓いあった、錆兎と真菰。まだ学生だというのに結婚に踏み切った理由が、恋愛感情ばかりではないのは義勇も理解している。容態は安定しているとはいえ、鱗滝はまだ病院から帰れない。おそらく人生の終焉を迎えるのは病室でだろう。
 錆兎にとってたった一人の肉親である鱗滝を、安心させてやりたい。ふたりが結婚を決意した一番の理由はきっとそれだ。
 打算と呼ぶのはひねくれすぎているだろうが、今後の問題をスムーズに進めていくための解決策としてという側面が、ひとかけらもないとは言えまい。
 就職すらしていない学生の身分では、ふたりもかなり悩んだことだろう。鱗滝のことがあったからにせよ、それでも、結婚という互いに責任を負う選択肢を選んだふたりを、義勇は少なからず尊敬している。

 一方、自分はどうだ。義勇は胸のうちで自省する。

 ゲイである義勇の恋愛は、ふたりよりもハードルが高い。問題は山積みで、世間的にはいばらの道となるのだろう。フワフワと浮かれてばかりもいられないというのに、問題をすべて先送りして、まだ早いと目をそらして過ごしている。
 炭治郎との絆が深まって、決して離れることはないと信じ切れるまで、誰にも言わずにいたい。いつかはと思いながら、まだこのままでいいじゃないかと二の足を踏んでいる自分の情けなさに、小さなため息が義勇の口からこぼれた。
 恋の喜びだけを今は感じていたいというのは、紛うかたなき本心だ。だからといって、ゲイであることから目をそむけられるはずもないのに。
 心配げな錆兎の視線を、義勇はようやく真っ向から受けとめた。
 自分がゲイだと告げる勇気は、まだない。けれども、炭治郎との恋を恥じるようなことはしたくない。少なくとも錆兎に対しては、してはいけないと思った。
「デートすることに、なった」
 正直言えば、こんな悩み事を口にするのはゲイ云々を別にしても、恥ずかしい。なにせ自分の職業が職業だ。恋愛小説を書いているくせに、初めてのデートにとまどってどうしたらいいのかわからないなどと切り出すのは、やはり義勇にもためらいがある。

「義勇がデートッ!?」

 驚く声は台所から聞こえた。ギョッとする間もなく即座に近寄ってきた真菰の顔は、なんだか目が爛々として見える。うずうずと好奇心をたたえた様は、いたずらな猫のようだ。
「どこ行くの? 服は? なに着るつもり? ね、ね、お泊り?」
「お、おい、真菰。義勇がつきあってるのは高校生だぞ? 泊まりはまずいだろ」
 面食らったのは錆兎も同様だろう。けれどもここは夫らしく、どうにか真菰をいさめようとしてくれたらしい。
 あまり役には立っていないようではあるが。
「えー? 今どきの高校生ならお泊りデートくらいしそうだけどなぁ。でも、義勇も真面目だもんね。それはないか」
 真菰の無邪気な信頼が胸に痛い。真面目さは誰も疑わぬ義勇の資質だろうけれども、本人からすれば、真面目な男は誰彼となく男漁りなんてしないと思うと、罪悪感を刺激される。
 当然のことながら、今は一切そんなことはない。だが、淫らな過去が消えるわけでもないのだ。
「んー、お泊りじゃないにしても、高校生ならちょっと大人っぽいデートに憧れてそうだよねぇ。同級生とかならともかく、年上の男の人とのデートだもん」
「……そうなのか?」
 気圧されつつ言った義勇に、真菰の笑みが深まった。
「あ、やっぱりノープラン?」
「ん、まぁ……」
 ニンマリと笑う目が輝いたのは気のせいだろうか。なんなら大好物を前にした犬のように、ブンブンと尻尾を振っているようにすら見える。
 真菰の笑みに義勇もたじろいだが、夫である錆兎も、ぽかんとしつつ及び腰なのはどういうことだ。
「だと思ったぁ。私がプロデュースしてあげるっ!」
「は? え、プロデュース?」
「おい、真菰。あんまり出しゃばるのは……」
 展開についていけず義勇がドギマギとしていると、助け船を出さねばと思ったのか、腰が引けつつも錆兎が口をはさんだ。
 さすがは錆兎と、義勇の胸にわいた安堵は、長続きはしなかったけれども。
「だって義勇のセンスじゃ、バラの花束持ってスーツで行きかねないよ? せっかく恋人ができたのに、初デートでフラれたら目も当てられないじゃない?」

 おい、なんで口をつぐむんだ、錆兎。

 少々ショックを感じつつも、義勇は憮然と眉根を寄せた。
「……それは、ない」
 というか、駄目なのか、やっぱり。さすがに高校生とのデートにスーツや花束はどうかと思ったので却下したのだが、正解だったようだ。
「じゃ、どうするつもりだったの?」
 ん? と首をかしげて問い詰めてくる真菰に、答えられるものなら、義勇とて悩んでなどいない。
 沈黙した義勇は、再度の助け船を求めて錆兎を見やった。共同戦線ならば、あるいはこの強力極まりない相手にも、少しは太刀打ちできるんじゃないだろうか。
 そんな淡い期待ですがった視線は、錆兎の瞳をとらえることはできなかった。
 無言でそっと顔をそらす錆兎に、義勇の目が見開かれる。なんなら漫画ばりの縦線が、顔には書かれていただろう。

 あきらめろ、と? いや、確かにこういうときの真菰が無敵なのは、重々わかっちゃいるが、あんまりじゃないか?

 思わず嘆息するが、悩んでいるのは確かだし、ほかに頼れる者もいない。
「はいっ、決まり~。えー、どこかいいかなぁ。相手の子はインドア派? アウトドア派?」
 ルンルンと弾んだ声で聞いてくる真菰に、がっくりと肩を落とし脱力しきった義勇は、「たぶん、アウトドア」と答えた。
「たぶんって、義勇ったらそれぐらいもリサーチしてないのぉ?」
「……面目ない」
 言われてみれば、互いの趣味などに関してもろくに話したことがない。炭治郎の趣味は掃除だと、ほかの客との会話で聞き知ってはいるが、さすがにそればかりということはないだろう。
 真滝勇兎の著書をすべて読んでいるのはとうに知っているけれども、ほかの作家の話題は聞いたことがない。とくに読書家というわけではないのだろう。映画なども、話題に上る確率は低い。精々、地上波放送する作品を観るつもりだと漏らすぐらいか。
 かといって、どこかへ遊びに行ったという話も聞かない。炭治郎のお喋りは、大概が家族のことや学校での友達の話だ。

 あぁ、そうか。自分の時間を持つことなど、炭治郎はきっと今まで考えたこともないのだ。

 気づいた事実に、義勇は少し愕然とした。胸がキュッと締めつけられる。
 あの子は、友達と遊びに行ったなんていう思い出を、ほとんど持っていないのだろう。
 炭治郎の父親が亡くなったのは、炭治郎が小学校を卒業する少し前だと聞いた。それからずっと、店を支え家族を支え、子どもらしいと世間一般的に思われる楽しさなど、二の次にしてきたのに違いない。
 なんだか切なくはあるが、けれども、かわいそうだという言葉は、義勇の頭にはなかった。
 きっと炭治郎は、そんな生活を心底慈しみ、幸せだと笑って過ごしてきたはずだ。あの子はそういう子だと、義勇はもう知っている。胸をよぎる痛みは憐みではなく、自分自身の不甲斐なさゆえだ。
 義勇の食事の支度をするのを、とても楽しそうにしていたから、ついつい家で逢うぐらいしかしてこなかった。「俺だって店があるんだし、義勇さんは忙しいんだから気にしないで」なんて言葉を鵜呑みにして甘えずに、いろんなところに連れ出してやればよかったのだ。

 炭治郎には知らない世界が山ほどあるに違いない。それを見せてやるのも、大人の務めじゃないか。
 ましてや自分は炭治郎の恋人だ。恋人を楽しませてやるのに心砕くぐらい、当たり前のことだというのに、それすらおざなりにしてきたとは。
 経験値の低さを理由にしていては駄目だ。せめてデートぐらいは、これからは自分から誘うべきだろう。多少の恥や気まずさなど、炭治郎の笑顔のためなら耐え忍ぶべきではないのか。

 よし。と、義勇は小さくうなずき、決意を込めて真菰を見据えた。
「プロデュース頼む」
 堂々と頭を下げた義勇に、錆兎の目が驚きにまばたいた。一方真菰はといえば、至極満足げに微笑み、こちらも強くうなずいた。
「任せて。絶対に相手の子に惚れ直したって言わせてみせるよ」
 なんとも心強い言葉に、かすかな安堵の笑みを浮かべた義勇は、そこからつづく三十分あまりものデート指南に眩暈を覚えることなど、そのときはまるで気づいてはいなかった。

 楽しげにはしゃぐ真菰の演説を、神妙に拝聴した三十分。漂い出した焦げ臭さによって唐突にデート講座は終り、その日の夕食の肉じゃがは、ちょっぴり苦かった。

「デートうまくいくといいね」
「……頑張る」
 玄関先まで見送ってくれた真菰の笑みに、義勇は少し疲れた声ながらも、感謝を込めてうなずいた。
 義勇に向けられた真菰の目は、やさしい。けれど、ほんのちょっとだけ、物言いたげな気配があった。そう言えば、一緒に来ようとした錆兎に風呂の支度を頼んだのは、少し不自然だった気もする。
 もしかしたら、錆兎には内緒でなにか話があるのだろうか。めずらしいことだが、ありえない話でもない。見返した視線で、義勇の問いかけに気づいたのだろう。真菰はわずかに眉を寄せて、どこか泣きそうな顔で小さく笑った。
「……ごめんね」
 ささやくような小さな声だった。見つめる浅葱色の瞳がほのかに揺れている。
 その瞳と声だけで、悟れてしまう。知っていたのだと。義勇の恋に、真菰は、気がついていた。
 いつからなのかは、わからない。けれども錆兎を見る義勇のまなざしに、隠しきっていたつもりの恋心を真菰は見たのだろう。
 グッと喉の奥になにか大きな塊でも詰め込まれたようで、息苦しさに義勇は刹那動揺した。

 それでも、責める気持ちはどこにもなかった。

 大切なのは錆兎だけじゃない。真菰のことだって、大事な人であるのに違いはないのだ。明るく元気で、フワフワとした雰囲気に反してしっかり者な真菰は、義勇や錆兎の妹分であると同時に、義勇にとっては姉のように頼れる相手でもある。
 幼いころから、ずっと一緒だった幼馴染。
 だから気がついてしまう。真菰は義勇に対して、拭い去りようのない罪悪感をいだいていたのだということにも。
「……理由がない」
 本心から義勇は微笑み言った。まだこの心に錆兎への恋が息づいていたのなら、こんなふうに笑ってやることはできなかったかもしれない。けれどもう、錆兎への恋は愛へと変わり、ときめきや切なさの代わりに、幸せだけを願い祈る心だけがある。だから笑える。心の底から。
 義勇の微笑みに、真菰の目はいよいよ泣きだしそうに揺れて、うん、と苦笑された。
 今日の真菰の熱心さは、きっと罪滅ぼしではない。義勇を裏切ったと感じていたのだとしても、だから代わりになどという打算は、真菰にはなかったはずだ。真菰にとっても、義勇は大事な友人であり、兄貴分で、愛すべき弟分でもあると、義勇は知っている。
 きっと心の底から義勇の恋の成功を願って、一所懸命考えてくれていた。それがわかるほどには、義勇と真菰のつきあいも長い。まぁ、少しばかり面白がる気持ちもあっただろうけれども。
 ともあれ、恋が自分と真菰の親愛を引き裂くなど、ありえないと義勇には言いきれる。

 だってどちらも悪くなんてなかった。謝られる理由などない。互いに恋をしただけだ。同じ人に。義勇も、真菰も、錆兎に恋をした。そして錆兎は、真菰に恋をした。よくあることだ。世界中にいくらでも転がっている、ありふれた恋の話。ただそれだけのこと。

「あのね、私の初恋って、義勇だったんだよ」
 パチリとまばたき驚きを隠せなかった義勇に、真菰は、今度は明るい笑みを見せた。
「だって義勇って王子様みたいだったもん。だからね、すぐに気がついたの。義勇が錆兎のこと好きだって」
「そう、なのか」
 うんと軽くうなずく真菰には、もう憂いはなかった。義勇も一瞬の狼狽はすぐに消えた。
「おかしいよね。なんで錆兎がいいの? って、義勇のこと知りたくて錆兎を見てたら、気がついたら錆兎のこと本気で好きになってた」
「……なら、真菰の恋のキューピッドは、俺か」
 あまり気の利いた言葉でもなかったが、真菰は楽しげに笑ってくれた。
「そうだね。だから余計に、ちょっと苦しかった」
「そうか……」
 義勇が錆兎と真菰の恋に苦しんだように、真菰もまた、義勇への愛情と錆兎への恋慕のあいだで苦しんだのだろう。
「痛み分け、だな」
「うん。だからもう、謝らない」
 それでいいんでしょうと、まだ少し潤んだ浅葱色の瞳が、やさしく笑む。うん、とうなずき返せば、その笑みはますますやわらかく深まるから、義勇もやさしい気持ちで笑えた。
「ね、義勇。今、幸せ?」
 問う声に、真菰の目をじっと見つめ返し、義勇は力強くうなずいた。
 炭治郎の笑みがまぶたに浮かぶ。
 誰よりも愛おしく恋しい、大切な恋人。自分の手で、幸せにしたい相手。
 朗らかで温かい笑みに、胸の奥がほのかな明かりに満たされる気がする。だから、義勇は晴れやかに笑った。

「幸せだよ」

 うなずき笑った真菰の背後から、風呂の支度すんだぞと錆兎の声がする。
 ふと目を見あわせ、クスリと笑いあった義勇と真菰に、姿を見せた錆兎はキョトンとしていた。