舞え舞え桜、咲け咲け想い

 喧嘩するほど仲がいいというのが本当なら、義勇と自分はきっと、人が言うほど仲良しではないのだろう。

 頭をよぎったそんな言葉に、炭治郎は、喉の奥からせり上がってくる悲しみの塊を無理やり飲み込んだ。
 今日から新学期。高校三年生になったばかりの今日は、下校時間も早かった。なのに、いつのまにか夕暮れが近づいている。
 児童公園に設置された遊具のなかは、薄暗い。炭治郎が今いる場所は、象の形を模した小山のような滑り台の下だ。正確には象のなか。そこはトンネル状になっていて、小さいころは義勇と二人で『ゾウさんのおなか』と呼んでいた。ブランコや滑り台で遊んでいても、気がつくとこのなかで話したり手遊びしたりした、大好きな場所だ。

「じゃあまた明日ね!」
「うん! また明日遊ぼうねっ」

 子供の明るい声がひびく。遊んでいた最後の子供たちが帰ってしまえば、公園にいるのは炭治郎一人きりだ。しんと静まった公園は、まるで世界から取り残されたみたいに感じる。
 体が大きくなってからは、もうこの公園で遊ぶことはなくなった。昔は二人で入っても十分広いように感じたゾウさんのおなかも、大きくなった今では、ずいぶんと狭苦しく感じる。ときおりブランコやベンチに腰かけて話をすることはあったけれど、最後に二人でトンネルに入ったのは、ずいぶんと前の話だ。

 炭治郎は、そんな遊具のなかで一人、ぎゅっと膝を抱えて座り込んでいた。立てた膝に額を押し当て、小さく体を丸め涙をこらえる。
 頭に浮かぶのは、義勇のことばかりだ。
 保育園で出逢ってから、十五年。高校三年の今日まで、炭治郎は一度だって、義勇と喧嘩したことがない。
 パン屋を開いて共働きとなった炭治郎の家と、母親が病気で亡くなった義勇の家が、揃って息子を保育園に預けたのは偶然だ。それが同じ保育園だったのも、さまざまな偶然の積み重なりに過ぎない。
 炭治郎と義勇が同じ水組さんになったのも、学区が同じで小中と同じ学校に通ったのも、当人たちの意思が介在しない偶然の産物である。
 だけど、高校は違う。炭治郎は義勇と同じ学校に通いたかったし、義勇も同じ気持ちでいてくれた。
 どちらかが「一緒の学校に行きたい」なんて言い出すまでもなく、二人の意思は重なっていた。同じ学校に進学する。それは確認する必要さえない、共通した決定事項だったのだ。
 進路希望の用紙を初めて配られたときに、同時に口にしたのは「どこにしようか?」だ。離ればなれになるなんてことは、お互いまったく頭になかった。
 成績だけでみるなら、二人の進学先のランクは、贔屓目に見ても二つは異なる。炭治郎がCなら義勇はAだ。けれど二人とも、違う学校を受験するという選択肢は持ちあわせてなくて、進路指導の先生やそれぞれの担任に、盛大に顔をしかめられたものだった。主に、義勇が。
 それでも、家族も教師も最終的には反対しなかった。おまえらならしかたないか。誰もが苦笑とともにそう言った。
 誰の目にも優等生な義勇と、良い子だけれども成績はパッとしない炭治郎。共通項はあまりない。それでも二人の仲の良さは、誰一人として否定できない、紛うことなき事実である。もちろん、当の本人たちも自覚している。
 万が一、お日様が西から昇る日があったとしても、自分たちが離ればなれになる日は絶対にこない。炭治郎はそれを信じていたし、義勇だって同じように思っていると疑いもしなかった。
 
 それも、今日まではの、話だけれども。

 今までなら、疑う余地などまるでなかったのだ。実際、どんなに先生に渋い顔をされようと、義勇が炭治郎と同じ学校に通う意思をくつがえすことはなかった。炭治郎だってそうだ。そのうち頭から煙があがるんじゃないかってぐらい勉強しなくちゃならなくなったけど、もうやめたいなんて、一度も思い浮かぶことはなかった。義勇と同じ学校に通うという選択肢以外、炭治郎が選ぶべきものなどない。炭治郎にとってはそのための努力なんて、息をするのと同じくらい、当然のことだったのだ。
 おかげで、炭治郎のランクを一つ上げ、義勇が一つ下げて受験した高校にも、無事合格。晴れて一緒に入学した高校でも、クラスが違ったって一緒にいる時間は長い。同じクラスの友達よりも、違うクラスの義勇といるほうが、炭治郎にとっては自然なことだった。
 剣道部の義勇と帰宅部の炭治郎では、学校でのスケジュールもかなり異なる。顔をあわせるのはせいぜい休日だけとなりそうなものだ。そうはならなかったのは、二人にしてみれば、会わずにいるほうが不自然すぎたからだ。
 登校は――義勇が朝練の日でさえ――一緒だし、下校時刻は違おうと部活帰りに義勇は、炭治郎の家であるベーカリーに寄ってから帰るのを日課としている。
 眠い目をこすりながら、朝練に出る義勇と一緒に学校に行って、「部活頑張って!」と義勇と別れたら、炭治郎はまだ誰もいない教室でひと眠り。部活が終わるころに、お弁当とは別に持ってきたパンを手にいそいそと道場に向かって、義勇や同じ剣道部員の錆兎と一緒に朝食をとる。
 放課後には、両親を手伝って店に出ている炭治郎は、せっせと働きながら義勇を待った。義勇は毎日、部活帰りにふらりと店に現れる。疲れた顔した義勇に、炭治郎はいらっしゃいませではなく「おかえりなさい、お疲れ様」と声をかけるのが常だ。
 それが当たり前の日常で、義勇が「ただいま」と返してくれなくなる日がくるなんて、一度だって考えたことがなかった。

 それなのに、今、炭治郎は一人きりだ。伸ばされた義勇の手から逃げてしまった。

 いつものように義勇がくるかもしれないと思うと、家には帰れない。悲しいときに逃げ込んでいた場所に、仲良しの『友達』はもういない。行き場がないと思ったとき、自然と足が向いたのはこの公園だ。
 義勇から逃げて辿り着く場所が、義勇との思い出深い『ゾウさんのおなか』だとは、自分でもあきれ返る。俺の日常から、どうあっても義勇の影は消えないんだなと、炭治郎は泣きそうな顔のまま小さく苦笑した。
 義勇がいるのが当たり前の毎日。代わり映えのない日常。炭治郎の世界のすべて。だけど、義勇にとってはもう違うのかもしれない。思って炭治郎は、小さく唇を噛む。
 きっと義勇の世界は、今ではもう、炭治郎には想像もつかないほどに、広がっているのだろう。炭治郎と一緒にいるよりも、見知らぬ新しい世界に夢中になっているのかもしれなかった。
 おまけに、喧嘩までしてしまった。いや、こんなの喧嘩とは呼べないだろう。だって、炭治郎は逃げただけだ。口論すらしていない。嫌味な言葉を義勇にぶつけて、そのまま、義勇の答えを聞くことなく、その場から逃げた。

 昔一緒に遊んだ児童公園の、象の形を模した遊具のなかで、炭治郎は膝を抱えて一人ぼっちで考える。必死に涙をこらえながら。
 どうしてこんなことになったんだろうと。そして、これからどうすればいいのかな、と。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 事の起こりは他愛ない。一つひとつを見れば、喧嘩の原因になりようもないものばかりだ。
 とうとう三年間同じクラスになれなかった。でも、隣のクラスだ。選択授業は同じものを選ぶに決まっているから、週に何時間かは同じ教室で授業を受けることもできる。炭治郎の席は窓際だから、体育の授業でグラウンドに出る義勇をながめることだってできるのだ。小中学校だって別々のクラスのほうが多かったのだし、悲しむ必要なんてないはずだ。
 今年度から、義勇は、国際剣道連盟とやらから強化選手に選ばれた。夏に行われる世界規模の大会のために、連盟から呼ばれて春休みは強化合宿に行ってしまい、家に帰ったのは春休みの最終日。つまりは昨日だ。学年が上がることもあり、たった一日の休みは慌ただしく過ぎたらしい。
 今までは、長期の休みには必ずどこかに遊びに行っていたのに、今年は店で立ち話を一度しただけ。でもそれは、義勇が強くなるために必要なことだ。炭治郎だって文句なんてない。
 だって道着姿の義勇は本当に格好いいのだ。竹刀をかまえると、いつものどこかぽやんとした可愛らしさが嘘のように消えて、いつも以上に堂々として見える。そんな姿に炭治郎はいつだってドキドキするから、剣道する義勇は好き。会えないのは寂しいけれど、毎日連絡は取りあっていたから、義勇の声を聞かない日はなかった。だから寂しさを我慢するのも苦じゃない。
 競技としては、剣道というのはいまだに地味だ。メディアに取り上げられることはめったにない。ところが、強豪でもない公立校の部活から国際強化選手が選ばれたってことで、春休みに入る前に、学校にテレビ局の取材が来た。ちなみに、義勇が小さいときから通っている道場の師範の孫息子である錆兎も、強化選手に選ばれている。おかげで学校は大騒ぎだった。
 錆兎は保育園や小学校は違うけれど、中学高校は一緒だし、稽古を終えた義勇と一緒に公園に遊びに来たりしてたから、炭治郎とも仲がいい。錆兎と義勇が認められたことは、炭治郎にとっても自分のこと以上にうれしい。それは誓って嘘じゃないのだ。
 幼馴染の贔屓目抜きにしても、義勇や錆兎の見目はすこぶる良い。絵になるイケメン高校生――とんでもなく強いというおまけつき――が並んでいたら、そりゃテレビ局だって食いつくってものだ。地方局だろうと、テレビ出演には違いなく、炭治郎は店にくるお客さんにも盛大に番組の宣伝しまくるぐらい、喜んだ。実際に番組を見た、昨日までは。
 それらはすべて、炭治郎と義勇が一緒に過ごせる時間を減らしてしまう事柄ばかりだったけれども、炭治郎は気にしなかった。義勇は忙しすぎて炭治郎と会えないと、拗ねているようだったけど、義勇の実力が正しく評価されることは、炭治郎にとってはたいへん喜ばしい以外のなにものでもない。だから手放しで褒めたし、炭治郎に褒められた義勇だって、まんざらでもなさそうだった。

 そう。なにも問題ないはずだった。なのに、なんであんなこと言っちゃったんだろう。

 泣きたくなるけれど、ひどいことを言った自分に泣く資格なんてない。炭治郎はグッと涙をこらえた。
 薄暗い遊具のなかに、風が桜の花びらを運んでくる。
 今日は風が強い。砂ぼこりと一緒に、枝に残っていた桜の花弁が、これで最後とでもいうように潔く散っている。
 ひらひら、はらはら、桜は雪のように風に舞う。ひとひら、ふたひら、薄暗いトンネルのなかにも、くるくる舞いながら桜が降り積もる。まるで落とすのを我慢した、炭治郎の涙の代わりみたいに。

 そういえば、義勇とここで約束したのも春で、桜が咲いていた。

 思い出すのは、この遊具のなかで二人、小さな小指を絡めてした約束だ。炭治郎と義勇は小学一年生になったばかりだったのを覚えている。
 二人の家の中間にあるこの児童公園が、いつもの二人の遊び場所だ。義勇はそのころにはもう剣道を始めていたけれど、内気で人見知りな性格を心配されてのことだったらしく、今ほど真面目に取り組んではいなかった。炭治郎と遊ぶほうがずっと楽しいと、いつだって言ってくれていた。稽古は日曜の午前中だけで、それ以外の日は「たんじろ、遊ぼう」と、はにかみながら誘ってくるのが常だったのだ。

 その日はめずらしく公園には誰もいなくて、ブランコだって滑り台だって、遊び放題だった。いつもは譲りあって乗るブランコも、隣りあってどっちが高くまでこげるか競争だってできる。それがうれしくて、ずっと二人ともはしゃいでいた。

 大きな犬が、ふらりと公園に現れるまでは。

 散歩中に逃げ出してきたのだろうか。炭治郎や義勇よりずっと大きい犬は、舌をだらりと垂らして、ハッハッと息を荒くしていた。
 怖い。まず浮かんだのはそんな言葉だ。
 顔はだいぶ違うけれども、二人の目には、絵本のなかで子ヤギや赤ずきんちゃんのおばあさんをペロリと食べてしまう、狼のようにも見えた。茶色くて、大きくて、耳や尻尾はだらりと垂れている。絵本の狼とは似ても似つかない犬だったけれど、それでも大きくて怖い犬は二人にとってはイコール狼だ。だってそんなに大きな犬なんて、二人は狼ぐらいしか知らなかったから。
 大きく開けた犬の口から、たらりとよだれが落ちた。まるで美味しそうなエサを見つけたぞとでも言ってるみたいに。ビクンと震え上がった二人に向かって、犬は、誰もいない公園を横切りゆっくりと近づいてくる。まだ小学一年生だった二人が、怖くてたまらなくなってもしかたないだろう。義勇はすっかりすくんで震えていたし、動物が大好きな炭治郎だって、ちょっと泣きそうになった。
 でも、炭治郎の手をギュッとつかんで震える義勇の、泣きだしそうな顔を見てしまえば、怖いなんて言えるわけもない。
「ぎゆっ、こっち!」

 二月生まれの義勇より、七月生まれの俺のほうがお兄ちゃんなんだから。守ってあげなきゃ。大好きな義勇に怪我なんてさせるもんか。

 炭治郎は義勇の手を引き、一目散に駆けだした。犬の前で走ったら逆効果なのは、大人なら大概の人は知っているだろう。けれどもそんなことすら、まだ小さかった炭治郎は知らなかった。走り出した二人を追って、犬もタッと走り出す。
 二人で必死に走って、逃げ込んだのはゾウさんのお腹のなか。炭治郎と義勇の大好きな場所。象の形をした遊具のお腹部分はトンネルになっていて、二人で入っているとまるで秘密基地のようだった。誰からも丸見えだけれど、二人にとっては秘密の場所だ。安心して逃げ込める場所は、そこしかない。だけど実際は、なんにも安全なんかじゃなかった。
 すべり込むようにトンネルに逃げ込んで、炭治郎は、義勇を背に追いかけてきた犬を睨みつけた。児童向けの遊具といっても大人だって二人くらいは入れるトンネルは、犬をせき止めてくれるものじゃない。けれどもそんなことすら、炭治郎の頭にはなかった。
 とにかく義勇だけは守らなくちゃと、そればかりに頭を占められて、必死に叫ぶ。
「あっちいけ! はいっちゃダメ! ぎゆをいじめるな!」
「たんじろう、あぶないよっ」
 義勇がグイグイと炭治郎のTシャツの背中をひっぱっても、炭治郎は動かなかった。義勇は炭治郎よりもかけっこだって遅い。逃げたらきっと犬に追いつかれて噛まれちゃう。
「にげようよっ、ねぇ、たんじろぉ!」
 すっかりべそをかいて、必死に炭治郎を引っ張りながら義勇は言うけど。ハッハッとせわしなく息を吐きながら、トンネルのなかをのぞき込んでくる大きな犬は、とっても怖いけど。
 炭治郎は、逃げようとは思わなかった。

 義勇は俺が守るんだ! だって、義勇が誰より大好きなんだもん!

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 あのときは、本当に怖かった。思い浮かぶ懐かしい記憶に、炭治郎はかすかに苦笑した。
 太ったおじさんがゼーハー苦しそうに駆けてきて、僕たち大丈夫か!?と、トンネルをのぞき込むまでは奮い立たせていられた勇気も、大人の姿を見たとたんにがくんと目減りする。安心した途端に思わずへたり込んでしまったくらいには、本当に、本当に、怖かった。
 人食い狼かもと震えあがるぐらい大きくて怖かった犬は、リードに繋がれておじさんに甘えているのをよくよく見れば、炭治郎と義勇にもずっと尻尾をブンブン振っている。狼どころか、噛みつきそうな気配なんてまったくなかった。
 顔が怖いから子どもには泣かれちゃうんだけど、こいつは子どもが大好きなんだよ。おじさんがペコペコ頭を下げながら言う横で、犬はまるで「遊ぼ?」と言ってるみたいな顔をして、炭治郎たちを見ていたものだ。
 名前は太郎丸号。大きな大きな土佐犬の太郎丸は、性格がやさしすぎて闘犬には向かなかったのだという。おじさんが小屋の鍵をかけ忘れたものだから、散歩気分で逃げ出してしまったらしい。
 話を聞いてしまえば、大きくて怖い顔の太郎丸も、炭治郎が好きな犬であるのに違いはなく。ときどき遊びに行かせてもらうぐらい、炭治郎と太郎丸は仲良しになった。
 すっかり犬が苦手になってしまった義勇に申し訳ないので、会いに行くのは義勇と遊べない日だけ。義勇がいない寂しさで、しょんぼりとした顔で太郎丸に抱きついた炭治郎は、太郎丸にぺろぺろと顔じゅうなめられてるうちに、いつだって笑顔になったものだった。
 たとえば今日のような日に、以前だったら真っ先に炭治郎が向かうのは、太郎丸のところだったのだ。
 義勇にも、家族にも、心配させちゃうから言えない。悲しさや寂しさを抱えたときに、炭治郎が「あのね」と心のうちを口にするのは、大きくて怖い顔した、やさしい太郎丸。

 だけど、そんな太郎丸も、もういない。何年か前の、こんなふうに桜が舞う春の日に、静かに息を引き取ったから。

 おじさんちの庭の片隅に作られた、太郎丸のお墓の前にしゃがみ込み、わんわんと炭治郎は大きな声で泣いた。その隣で、義勇も泣きだしそうな顔をしていたけれど、それでも涙を落とすことなくずっと炭治郎の手をにぎっていてくれた。
 犬が苦手な義勇は、原因になった太郎丸とほとんど遊んだことはない。だけども義勇は、太郎丸が病気になったと聞いて以来、毎日会いに行く炭治郎に嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
 おじさんが、こんなにかわいがってもらって太郎丸は果報者だなぁと泣き笑う横で、炭治郎の悲しみに寄り添って、炭治郎が泣きやむまでずっと一緒にいてくれたのだ。
 そう、初めて太郎丸と出逢ったその日に、約束したように。

『俺、強くなる。たんじろうを守ってあげられるぐらい、ぜったいに強くなるからね。たんじろうが泣かないように、俺が守ってあげるから。おっきな犬にも、いじめっ子にも、絶対に負けないようになるから。だから、ずっと、ずっと、いちばん仲良しでいてね。ずっと一緒にいてね』

 約束の言葉が耳によみがえる。おじさんと太郎丸が帰っていっても、まだ涙が止まらなかった義勇の声は、しゃくりあげて不明瞭だった。
 だいじょぶだよ。もうこわくないよ。言いながら、義勇の頭をなでつづけたのは、再びもぐりこんだゾウさんのお腹のなか。泣いているところを見られるのは、きっと義勇も嫌だろうと思ったから。
 義勇が約束してくれたのは、そのときだ。
 ポロポロと零れる涙はそのままに、義勇は小さな手で炭治郎の手をぎゅっと握りしめて、強くなると誓ってくれたっけ。もう泣かない。これからは強くなる。約束してくれた義勇の目は、涙で濡れていたけれど、真剣そのものだったのを覚えている。
 そのときの義勇の濡れて光る群青色の瞳に、なぜだか胸がドキドキとした理由を炭治郎が理解したのは、ずいぶんと後になってからだ。
 どちらかといえば甘えん坊だった義勇は、あれ以来本当に泣かなくなった。遊び気分だった剣道にも真剣に打ち込んで、どんどん強くなっていく。誰からも褒め称えられるぐらいに。

 泣き虫で甘えん坊だった義勇は、もういない。炭治郎、と呼びかける声や瞳のやさしさはそのままに、義勇はいつしか、強くて逞しくてかしこい、誰の目にも非の打ちどころのない男の子になったのだ。

 いや、もう男の子だなんて言えないだろう。高校三年生になった今では、義勇の背は優に炭治郎の背を追い越して、大人の男の人と遜色ないのだから。
 まだまだ子どもっぽさが残る炭治郎と違って、義勇はもう大人の入り口に立っている。穏やかで物静かな佇まいも相まって、同級生のなかでは飛びぬけて大人びて見えた。
 綺麗な年上の女の人と並んでも、まったく見劣りしないどころか、お似合いだと誰の目にも映るぐらいに、義勇は一人で大人になっていく。炭治郎を置き去りにして。
 炭治郎の胸に育った、小さな恋心になど、気がつかないまま。
 

『もういいよ。俺といるよりも、義勇だってあの人と一緒にいるほうが楽しいんじゃないの? みんなだってお似合いだって言ってたし、俺もそう思うな。それに、高校を卒業したらどうせ離ればなれじゃないか。そろそろ俺たち、一緒にいるのやめたほうがいいよ』

 そんな言葉が自分の口から出るのが不思議だった。義勇の目を見返すことができず、そむけた自分の顔は笑っていたけれど、きっとすごく嫌な笑い方をしていたに違いない。
 思った瞬間、これまで以上にぶわりと悲しみがわき上がって、膝に顔をうずめたまま炭治郎はギュッと目を閉じた。

「炭治郎っ!」

 聞こえた声は、幻だろうか。だって、義勇がここにくるはずがない。
「やっぱり、ここだった」
 声は少し息切れしている。走り回ったんだろうか。炭治郎を探して? ありえないのに、なんて都合のいい幻聴だろう。
「太郎丸のとこも行ったけど、いなかったから……見つかってよかった」
 やさしい声。だから、これは炭治郎の願望が生み出した幻聴に決まっている。あんな嫌な態度をとった自分に、きっと義勇はあきれたはずだ。義勇の言葉を聞こうともせずに、嫌味な台詞を投げつけて逃げ出した。そんな炭治郎を、義勇だってきっと、もういいと見限ったに違いない。
 それなのに。
「……さすがに狭いな」
 声はさっきより近づいて、ポンッと頭に置かれたのはきっと、炭治郎よりも大きくなった手のひら。
「顔、あげてくれ」
 懇願するひびきに、炭治郎は小さく首を振った。幻聴じゃないのなら、余計に顔を上げられるわけがない。だって絶対に今の自分は嫌な顔をしている。嫉妬して、ふてくされて、身勝手な言葉をぶつけた。今もまだ、胸のなかはざわざわと嫌な感情がうごめいているのだ。誰の目にもみっともない顔をしているに違いなかった。そんな顔、これ以上義勇に見せたくはない。

 これ以上、嫌われたくなんかない。

 ふぅっとかすかにため息の音がして、炭治郎はびくりと肩を揺らせた。
「……もう、俺と話するのも嫌か?」
 違う。言葉よりも先に、体は動いた。
 とっさに顔をあげてしまったら、至近距離にいる義勇と目があった。炭治郎よりも上背がある義勇が入ったせいで、さっきまでよりも視界は暗い。影になった義勇の顔が、なにかを耐えているようにつらそうに見える。
 学校の女の子たちが、こぞってカッコイイと騒ぐ、きれいな顔。テレビ局のアナウンサーだって、錆兎と二人並ぶ義勇に、浮足立っていた。それに。

「あの人は、ただの先輩だ」

 誰のことなのか、考えるまでもない。すぐに頭に浮かんだきれいな年上の女の人に、また炭治郎の胸はギュッと押しつぶされそうになる。
 国際強化選手にえらばれるぐらい強い、女子大生。昨日放映された番組で、義勇と一緒に映っているのを見た。とてもきれいな人だった。仲がいいんですねと言うアナウンサーの声が、やっかんでいるように聞こえたのは、気のせいばかりじゃないと思う。
 つきあってるのかな。そんな言葉を、今日一日で何度も聞いた。家でも、テレビを見ながら家族が同じことを言ってた。学校の女の子たちと違って、はしゃいだ声だった。
 誰が見たってお似合いな、義勇ときれいな女子大生。昨夜、炭治郎はよく眠れなかった。画面に映った二人の姿が頭から消えてくれなかったから。
 だからずっと、話題を避けた。テレビ絶対に観るからと、あんなに言っていたくせに、朝から不自然に話題を避けて、いつものように朝ご飯を道場に持っていくことすらしなかった。一日中逃げ回って、話をしなかった。そんな炭治郎の行動を、義勇が不審に思うのは当然だろう。
 どうしたんだと問い詰められたのは、炭治郎の自業自得だ。もしも義勇がそんな態度をとったのなら、自分だってなにがなんでも話をしようと思うだろう。
「……ごめん、違ったか」
 どこか焦ったような声で義勇が言う。恥ずかしがっているようにも見えた。
「学校でみんなが、やたらあの人とつきあってるのかって聞くから……炭治郎も、誤解して怒ってるのかと」
「なんで、俺が怒るんだよ」
 怒ってなんかいない。義勇には。悲しくって、寂しかっただけ。でも、たしかに怒ってもいた。あの人と義勇が恋人同士だと決めつけて騒ぐ人たちに、義勇の隣で楽しそうに笑っていたあの人に、浮かれた様子で義勇に媚を売って見えたアナウンサーに。
 義勇のことを世界で一番好きなのは俺なのにって、怒っていた。見苦しく嫉妬していた。
 そんな資格、あるわけないのに。
「……そうだな。炭治郎が、怒るわけなかった。ヤキモチなんて妬いてくれるはずないな……」
 小さくうつむいた義勇の、最後にポツリと落とされた言葉は、今度こそ幻聴だろうか。
「ヤキモチ……」
 呟いたとたんに、義勇はまたうろたえだした。心なし落ち込んでいるようにも見える。
「すまないっ。そんなわけないって、わかってるのに……」
「なにがわかってるんだよっ! なぁ、どうして? どうして俺がヤキモチ妬かなかったら義勇が落ち込むのさ。言ってくれなきゃわからない。教えてよっ」
 ドキドキと胸が鳴る。答えを聞くのは怖い。でも、どこかで期待している自分もいる。
 ここは義勇といつも二人きり遊んだ場所で、義勇が炭治郎に約束してくれた場所。
 義勇は、ずっと一緒って言ったから。

 それでも、この胸に少しずつ育っていった恋心が、実るなんて思っちゃいない。思わないようにしてきた。花開くことを許されぬ想いだと、咲かせることなく枯れていくはずの恋だと信じていた。

 いつかは二人とも大人になる。義勇の隣に立つのは俺じゃなくて、誰の目にもお似合いな女の人になるんだ。強くなるとの約束は果たされても、ずっと一緒の約束は、きっといつかは破られる。大人になるって、きっとそういうことだ。

 わかっているのに、胸の高鳴りは治まりそうにない。
 馬鹿みたいに期待している。小さい子どものころの約束にすがって、今も義勇のいちばんは自分なのだと、信じてしまいそうになる。

 だって義勇の言葉は、炭治郎にヤキモチを妬いて欲しかったように聞こえた。それじゃまるで、義勇も俺のことが好きだって言われてるみたいじゃないか。

 深く考えるよりも先に、手が伸びた。たじろぐ義勇を逃さないように、袖を掴みとめれば、小さく息を飲む気配。
「泣くなよ……」
 頬に触れた温もりは、義勇の手のひら。竹刀ダコができてて固い。ここでギュッと炭治郎の手をにぎった小さな手は、とてもやわらかかったのに。義勇の努力がこの手のひらに現れている。
「泣いてないっ」
「嘘が下手だ」
 ぐっと唇を引き結んで上目遣いに睨みつければ、義勇は少しおかしそうに笑う。昔から炭治郎は嘘が下手だと、やさしく目をたわめて。炭治郎の頬をなでる手は温かい。
「涙を流してなくても、炭治郎が泣いてるのぐらい、わかる」

 だってずっと、炭治郎が泣かないように頑張ってきたんだから。ずっと、ずっと、炭治郎だけ見てきたんだから。

 そんな言葉が小さくトンネルのなかに響いて、義勇の顔がぼやけて見えた。
「……みんな、義勇とあの人がお似合いだって」
「関係ない。ただの先輩だ。俺が好きなのは……」
 その先を言いよどむから、義勇の袖を掴む手に力を込めた。炭治郎の頬に触れたままの手のひらが、少し汗ばんだ気がする。さっきまでよりも、少しだけ冷たく感じる手の温度が、義勇の緊張を伝えてくる。
「俺が好きなのは、ずっと、炭治郎だけだ。友達だからじゃない。つきあいたいのは、炭治郎だけだ」
 義勇の声はどこか固い。だけどやさしい。じっと見つめてくる瞳の青は、いつもと同じ海のような色なのに、ひどく熱く感じた。
「義勇……モテるのに、俺でいいの?」
「おまえ以外に好かれても困るだけだ。だいたい、なんでよく知りもしない俺がいいのか、さっぱりわからん」
 少しムッとしたように言う様は、なんとなく子どもっぽい。
「そんなの、義勇が格好いいからだろ」
「錆兎のほうがよっぽど格好いいだろ? それに格好いいなんて、顔しか見てないってことじゃないのか?」
「顔だけじゃなくてさ、剣道だって強いし」
「炭治郎を守れるように頑張ったんだ」
「成績だって、いいし」
「炭治郎に教えてやれるように頑張ったからだ」
 ますます憮然としていく顔は、やっぱりきれいで格好いい。顔しか見てないなんてことはないけれど、世界で一番きれいで格好いいと思う。おまけに、少し拗ねて聞こえる声は、やたらとかわいくて庇護欲までかきたてられる。
 女の人たちの見る目は確かだ。こんなに強くて、かしこくて、きれいで格好いいうえにかわいい人。好きにならないわけがない。

 だけど、モテまくる義勇のモテ要素は、全部俺のために頑張った結果。つきあいたいのは俺なんだって。俺だけ、なんだって。
 誰彼となく言って回りたい。世界中に宣言したくなる。

 義勇がずっと一緒にいたいのは、いちばん仲良しでいたいのは、きれいな女の人でも、可愛い女の子たちでもなく、俺なんだよ!と。

「義勇、赤ずきんの狼みたいだ」
 むやみやたらとうれしくなって、クスクス笑って言えば、義勇の目がきょとんとしばたいた。
 でも、それはほんの一瞬だけ。すぐに義勇もうれしそうに笑い返してくれる。
「赤ずきんの狼なら、問答の最後の台詞は決まりだな」

 それはおまえを食べるためさ。

 そう言って近づいてきた、きれいでやさしい狼の唇は、緊張からか少し震えていたし、ちょっと冷たかったけど、ひたすらにやさしく炭治郎の唇に触れた。もちろん、赤ずきんと違って、炭治郎は逃げ出したりなんかせずに、大人しく狼に食べられることをえらんだのだ。

 ゆっくりと目を閉じれば、とうとうまなじりから伝い落ちたひとしずく。初めての口づけは、涙の味がした。

 狭くて暗いトンネルから出ると、空は燃えるように赤くなっていた。聞き馴染んだ帰宅をうながすメロディが、誰もいない公園に流れている。
 ずっとちぢこまっていたから、体が痛い。風はまだ吹いていて、くるくると桜が舞っていた。
「大学……離ればなれになるかもしれないけど、それでも……」
 炭治郎の手をとって立ちあがらせてくれながら、義勇が言う。声音に滲む不安のひびきが、幼かった義勇の姿を炭治郎の脳裏によみがえらせた。

 ずっと、ずっと、いちばん仲良しでいてね。ずっと一緒にいてね。

 約束したあの日、泣いていたのは義勇のほう。大きくなった今、涙にぬれた炭治郎の目を、拭ってくれる手が優しい。
「約束したもんな」
 笑って言ったら、ホッとした気配がして抱きしめられた。
「うん。ずっと、ずっと、一緒にいよう」
「うん……いちばん仲良しでいよう」

 来年の今ごろ、俺たちはなにをしてるだろう。どこにいるんだろう。先のことはわからない。だけど、毎年こんなふうに舞う桜を見るんだ。この公園の桜じゃないかもしれないけれど、どこでだって、一緒に。

 太郎丸ももういない。義勇は泣き虫な甘えん坊じゃなくなった。俺は、どうなっているのかな。炭治郎は考える。自分のことはよくわからない。わかっているのも、願いも、ひとつだけ。
 きっと、ずっと、義勇が好き。育って咲いた恋の花。枯れることなく、ずっと、ずっと、咲き誇れ。